形がわりの花嫁

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「その手形が、お前の身分というわけだ」 金原は、うすら笑みを浮かべ、挑発的に櫻子を見ている。 手にする紙切れが、自分を縛り続けるのかと、櫻子は力が抜けた。 わっと、泣き出しそうになるが、人を苦しめて喜んでいるような金原の態度に、怒りを覚え、ここで、泣いてはいけないと、心の声がする。 櫻子は、ひしと、気持ちを立て直す。 正直、これからどうなるのか、わからない。しかし、金原は、確実に、櫻子を、そして、柳原の家を落とし入れ、自分の快楽の一つとしている。 とてつもなく、許せなかった。 「……わかりました。そちら様に、従います。でも、借金が返せたら、私は、金原のもの、ではなくなる……そういうことですよね?」 自分でも、驚くほど、櫻子は、落ち着いて、金原へ逆らっていた。どこから、そんな力が出てきたのかわからないが、どうしても、言わなければならないのだと、気がつけば、口が動いていたのだ。 泣いてはいけない。金原へ、泣きじゃくる、弱った姿を見せたくない、その一心からかもしれない。 驚いたのは、櫻子だけでなく、金原も同じくで、目を見開き、固まっている。 「……お前。何を言っているのか、わかっているのか!お前は、一生、俺といるんだっ!」 櫻子の反撃が、頭にきたのか、はたまた、まさか、自分に意見すると思っていなかったのか、勢い怒鳴った金原の声は、うわずっている。 その迫力に押され、櫻子は、手にしていた手形を、テーブルへ落としてしまう。 すうっと、滑らせ、金原は自分の元へ手形を引き寄せた。 「何度でも言ってやる!お前は、手形と一緒にやって来た。俺の元にな!」 懐へ手形を仕舞いながら、金原は、意固地になってか、櫻子に怒鳴るばかりだった。 自分の言ったことに、逆らわれた。それが、たまらないのだろうと、櫻子を思う。 柳原の家で勝代達の顔色を伺いながら暮らしてきた。相手の様子を見る事に長けている櫻子だった。 金原の怒鳴り声は、慣れていない、そして、腹いせに、何を言い出すかわからないと、恐ろしかった。 が……。 おかしなことに、一緒にいると、一生一緒なのだと、そればかりを繰り返している。 どういうことなのだろう。 金原の元で、こき使われるとは、また、違った響きに聞こえるのは、気のせいなのだろうか。 何よりも、鬼と呼ばれている男が、癇癪を起こしたというより、動揺しているかのに見えるのが、気にかかる。 言い過ぎてしまった? いや、利息を時価だと、無茶苦茶な事を通す男が、櫻子ごときに……。不思議だった。 怒りが収まらない金原の姿に怯えなからも、櫻子は、つい、見入っていた。 (やっぱり、碧い……。) あの瞳に、目が行った。 なぜだろう。 さすがに、今は聞けない。いや、もしかしたら、これからも。 一度怒らせてしまっているのだ、櫻子は、避けられ、もう、金原と顔を合わすことなどないかもしれない。 では、どこへ? 自分は、どこで、何をさせられるのだろう。 一生一緒にいる、とは? と、なると、どこか、別の場所へやられることはないのだろうが……。 それでも、手形と引き換え、なのだから……。 思いたくもない事が、櫻子の脳裏をよぎった。手が、ぶるぶる震えた。 そんな、半ば収集がつかない部屋へ、気っ風の良い、女の声が響き渡った。 「キヨシ!あんた、女の子を怖がらせてっ!」 やってきた女は、カップを乗せた盆を手にしている。 「はいよ!珈琲!」 深みのある芳ばしい香りが、辺りに漂った。 「うるさいぞ!お浜!」 「うるさいのは、どっちだい!」 現れた女も負けてはいない。 おそらく、女中なのだろうけれど、金原に、ここまで、噛みつくとは、ただの女ではない。 そして、金原も、気安く返事をしている。 ということは、金原の、妻……。なのだろうか? 櫻子が、唖然としている前で、二人は、変わらず言い合っている。 口喧嘩、なのだろうけれど、ただの、じゃれ合いにも見えた。 「ああ、もう本当に。うちの男達と来たら。ごめんなさいよ。龍のやつも、凄みをみせたらしいじゃないか。それで、キヨシも、この調子。怖がらなくていいのよ?なんて、言えやしないよっ!」 「キヨシ、じゃないだろう!社長と、呼べ!」 「うっさいねぇ、あたしは、奥様と話してるんだ、だまっときな!」 女は、堂々と金原と渡り合っている。 あまりのことに、櫻子は、またまた、固まってしまった。 「ほら、ごらんよ。ああ、緊張しちゃって!大丈夫だよ、さあ、珈琲でも飲んで、落ちつきな」 言いながら、女は、櫻子の前に、カップを置いた。 皿の上に乗ったカップから、かすかに、豆を煎った香りがしている。 名前は、知っていたが、珈琲というものを見るのは、初めての櫻子は、いったい、どうやって飲めばよいのかと、戸惑った。 なによりも、現れた女の事が気にかかる。 やたら、櫻子のことを気にかけてくれているのだが、その正体がわからない。 それだけに、差し出された、珈琲というものを、素直に飲んで良いものか。下手なことをすれば、また、そこから、何かが起こるかもしれない。 どうしようもなくなり、櫻子は、俯いた。
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