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うつむく櫻子が、顔をあげると、印半纏を着た、職人姿の老人が立っていた。
「あっ、親方」
「さあさあ、お嬢さま、急ぎなせぇ」
引ったくるように、箒と塵取りを取り上げられた櫻子は、小さく会釈をすると、裏木戸を潜った。
「あー、いた!何してたっ!」
裏口から、駆けてきた櫻子を見つけた女中のヤスヨは、焦れったそうに叫んだ。
たすき掛け、着物の裾をたくしあげ、帯に挟んでいる姿から、廊下の水拭きでもしているのだろう。埒があかないと、櫻子を探したのか。
「台所へ行っておくれ、夕飯の仕込みを始めてもらわないと!」
言い捨てて、持ち場に戻ろうとするヤスヨへ、櫻子は声をかけた。
「あの、でも、まだ日が高いです。少し早いのでは?」
「あんた、サボるつもりかい?!つべこべ言わずに、さっさと、おやり!今日は、お客様がお越しになるんだ、酒の肴も必要なんだよ!」
細い眉を吊り上げて、ヤスヨは、必死に言った。何か、特別な来客のようで、それで、廊下を水拭きしていたのかと、櫻子は、思いつつ、鬼の形相を向けられて、とっさに、うつ向いていた。
いつもより、ヤスヨは、機嫌が悪かった。
玄関周りの表方の廊下は、朝のうちに、櫻子が水拭きしている。裏方は、ヤスヨとキクが、面倒がって、箒で塵を掃くだけだった。
厠へ続く廊下など、主人達が使う場所だけ水拭きし、手を抜いていたのだ。そうしなければならないほど、屋敷は広大で、そして、増築が災いし、廊下は複雑に伸びていたからだ。
逐一、端正込めてなど、使用人の鏡の様なことをやっていると、他の仕事が出来なくなる。
いくら、穴埋めをする櫻子がいるからといっても、屋敷の広さと、使用人の人数は合わず、ほどほどの仕事で、流して行くしかなかった。
ヤスヨとキクの事だ、勝代に、新しい使用人をと、願い出ているはずなのに、なぜか、新しく人を雇うという話は出て来ない。そこは、櫻子も不思議に思っていた。
そして、時折、ヤスヨとキク、女中二人がこそこそと声を潜めて話しているのも気になっていた。
その頃からだった。
櫻子が、外で、擦れた男に声をかけられ始めたのは。
「さっさと、お行き!」
忙しい、忙しいと、ぶつぶつ言いながら、ヤスヨは、櫻子を一瞥して、立ち去った。
何か、おかしいと感じながらも、櫻子は言われた通り、台所へ向かおうとした。
すると……。
「お嬢さん」
つい、立ち聞きしてしまったと、箒と塵取りを持つ、親方の悪びれた姿があった。
「……噂は、本当だったか」
「親方?」
櫻子が、物心ついた時には、すでにこの屋敷へ、庭師として、木々の手入れのために出入りしている、老人は、いつになく、渋い表情を浮かべていた。
「ええ、こちらが、危ないらしいと」
もともと、言葉数の少ない、職人堅気の老人は、さらに、その技の年輪とでも言うべきものが刻まれた、皺くちゃの顔を曇らせる。
「余計なことですがね、お嬢さん、お気をつけなさいよ。何かあったら、あなたが一番に、切られる。今の、旦那様は、昔の旦那様とは、違ってらっしゃる。前の奥様がいらしたら……」
「あの、親方?」
呻くように、呟かれた言葉は、櫻子が一番分かっていること。そして、常日頃から、庭の手入れに訪れている親方ならば、屋敷の裏も、しっかりと見ているはず。それを、外へ漏らさない為、今だに、庭師として、雇われているのだが、今日は、とにかく、何かが違った。
櫻子は、親方から、箒と塵取りを受け取る事で、近寄ると、言葉の真意を問いただした。
親方は、少しばかり、言いにくそうに、そして、間を置くと、重い口を開いて櫻子へ告げた。
「どうやら、借金が返せないようで。旦那様が、色々金策に走っている様なんでさぁ。うちもね、つけにされているのが、かさばってきやしてね。それに、剪定の依頼も来ない。まさかと、思っていたが……」
余計な事をと、言いながら、親方は頭を下げた。
なるほど。
櫻子は、聞かされた事に驚かなかった。むしろ、義母と妹の贅沢三昧を見ているからか、妙に納得した。
「もしかしたら、今夜の客人は……」
親方が、また、渋い顔をする。
「……今夜の?」
「ええ、借金の肩代わりを頼む相手かもしれやせんねぇ」
そういえば、ヤスヨは、酒の準備がいるから、早めに、食べる物を作れと言った。それは、来客のために少し、凝った物をという意味合いだろう。でも、と、櫻子は思う。
急すぎる話しではなかろうか。
わざわざもてなし料理を作るほどの来客ならば、もっと、早くに分かっているはず。裏方は、慌ただしくその日に、備える。だが、今日の今日。いきなりやって来た客人とも、また違い、来るということは、分かっていたようだ。
約束の時間が、早まったのだろうか。
何か腑に落ちない話だと櫻子も思う。
親方の言うように、借金絡みの客人なのか。
どうあれ、ヤスヨのあの殺気だった様子は、いわゆる小者の訪れではない。それなりの、もてなしが必用な相手に違いなく、その、食事となると……。櫻子は、かなり、気が重くなった。いや、緊張といった方が正しいかもしれない。
作る物の献立を、どうするか、意見が分かれそうな気がしたが、櫻子が口を挟むと、ヤスヨとキクの逆鱗に触れ、大変なことになるだろうし、正直、彼女達が作る毎日の食事、考える献立は、あか抜けないものだった。
そこを、やんわり櫻子が、口添えし、父や、勝代、特に、好き嫌いの激しい珠子の口に合うものを作っていた。
さて、常日頃が、それ。今回の急な、もしかしたら、重要な客人向けなら、いったい、何を作ればよいのか。若干の不安が見える。
そして、櫻子も、何を作れば良いのか、思い浮かばなかった。
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