柳原家の裏事情

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その時、裏木戸が、かたんと小さく鳴って開いた。 たらいを持った、キクが、外から内ちへ入って来た。 とっさに、 「おや、キクさん。買い出しかい ?」 と、親方が、櫻子を庇うかのように、キクの気をそらす。 その一声に、キクも、 「あれ、親方じゃないですか、旦那様は、まだ、お戻りじゃありませんよ」 などと、機嫌良く答える。 「ああ、そうでしょう。ちょいと、庭の様子を見にきましてねぇ。そろそろ、草も抜かなきゃいけねぇだろうし、剪定も、いくらか、必用なことでしょうしねぇ」 親方は、何気なく庭師の顔で、キクと会話した。 「そりゃそうと、キクさん、なんですね?」 「ああ、ちょっと、急なお客様らしくてねぇ、魚屋までひとっ走り。鯛のお造りが必要だって、奥様が。何件か廻って、やっと手にいれたんですよ。あー、疲れた」 はあーと、大きくため息をつく、キクに、親方は、さぞかし大変だったろうと、これまた、空々しく労う。 キクが、持つたらいには、桜色の小振りではあるが、確かに鯛が一匹入っていた。 痛まないようにか、氷水が張られてあった。 「おや、櫻子さん、ちょうどよかった、急な来客だよ。今から、仕込みに入るよ」 親方の手前か、キクの口調は柔らかく、また、たまたま櫻子が、その場にいたと思い込んでいるようで、親方に、奥様はいらっしゃいますよ、と、声をかけると、ズタズタと台所へ向かって行った。 その後ろ姿を追おうとした櫻子へ、親方が、 「お嬢さん、こりゃあ、ただの客人じゃねぇ。何かあったら、お逃げなさい。わかりやしたね?」 と、厳しい顔つきで、櫻子へ言ったのだ。 いきなりの事に、櫻子は、一瞬、固まったが、先に行ったキクに呼ばれ、黙ってその場から駆け出した。 その、背後では、親方が、お嬢さん、と、心配そうに再び呟いていた。 櫻子の、不安を煽るような、親方の様子と言葉、そして、何よりも、羽振りが良かったはずの、柳原家が、実のところは、どうなっているのか。急な来客が、すべてを握っているのだと、その、来客にもてなし料理を作らないといけないと思うと、キクを追いかける櫻子の足取りは重かった。 もしも、親方の言うように、この家が、借金が返せずに傾きかけているのなら、確かに、櫻子が、口減らしとして狙われるだろう。 いったい、どんな目に遭うのか、屋敷の裏方仕事を押し付けられて、外の世界を知らない櫻子には、到底想像のつかないことだった。 ──それからの、台所は、まさに戦場と言えた。 勝代が落ち着きなく、様子を覗きに来ては、あれこれ注文をつけて行く。そのたび、作業が止まり、更には、献立まで変えなくてはならなくなる。 作りかけのものを、どうにかこうにか、勝代の気に入るものに、作り替えと、櫻子達は、頭を悩ました。 そして、勝代を誤魔化すように、小芋の煮物、金平ゴボウ、青菜のお浸し、だし巻き卵、豆腐とネギの味噌汁に、なます、大根のぬか漬け、そして、鯛のお造りと、急ごしらえではあるが、酒の肴にも、食事にもなり得る料理が出来上がった。 ほとんどが、櫻子の手によるものだが、当然、誰も櫻子のことを労ってはくれない。まだ、屋敷の、身内の夕食を作らなければと、掃除が終わり、器をどれにするかと、しまってある、塗りの椀など棚から取り出しているヤスヨに、追い立てられる始末で、櫻子は、目眩に襲われそうになる。 もてなし料理は、質素な家庭料理に見えるものだが、素材は飾り切りにし、味の濃さをそれぞれ変えて、酒の進み具合に合うようにしてと、細かな気配りを重ねていた。 それぞれ、大皿にこんもりと乗る量であるにも関わらず、それは、あくまでも、来客用。自分達の食事を別に作れと、ヤスヨは、言い張ってくれる。 ならば、ヤスヨが、作ればよいのに。櫻子は、心の中で、そっと叫んだ。 それにしても、これだけの量でも、足りないとは。 なんでも、酒と料理は、一体で、もしも、客人が、食事を済ませていないなら、しっかり、食されるものなのだと、持論をヤスヨが述べてくる。脇では、鯛をさばき終わったキクが、疲れたと言いながら、キセルを吹かせていた。 確かに、足りないよりは、余るくらいの方が、安心ではある。ヤスヨの言い分も、そうなのだろ。いや、客人というのは、一人ではなくて、複数なのかもしれない。 ちょっとした宴会なら、料理などすぐに無くなってしまうだろう。そうだとしたら、ヤスヨの焦れ具合にも、頷けた。 「キク、あんた、酒は?」 「大丈夫、大丈夫、旦那様のお召し上がりになるのが、まだ、残っているから」 言って、キセルで台所の隅を指した。 先には、一升瓶が置かれてある。それを見て、ヤスヨも、何か安堵してか、酒を入れる徳利を、取り出しにかかった。 いや、一升瓶一本しかないのに。 櫻子は、不思議に思う。 元々、父、圭助は、酒をあまり嗜まない。だから、屋敷には、酒の買い置きは、さほど無かった。 圭助一人で、呑むなら一升瓶一本で、充分だろう。しかし、これだけの料理でもてなすとなると、足りないのではないだろうか。 「あー、一升瓶まるまま、あるんなら、大丈夫だね。冨田の社長さんは、下戸らしいし、今日は、それどころかだろうしねぇ」 「ほんと、大酒飲みじゃなくって、よかったよ。鯛に、酒に、買いに走らされちゃ、たまんない。でもさぁ……」 キクは、愚痴りながら、器を並べているヤスヨを伺った。 「あー、そうさねぇ、下見に来るくらいだから、もう、話は決まってるんじゃないかい?」 「あっ!庭師の親方も呼ばれていたから、もう、ここの改装の話に入るんじゃ?!」 「キク、親方が来てるのかい?」 「ああ、買い物から帰ってきたら、ばったり。ご託並べてたけど、旦那様は、って言ってたから、会いに来たってことだろう?」 「はあー、とうとう来たかって、感じだねぇ」 「ねえ、ヤスさん、あたし達は、どうなっちまうんだい?」 「そこ!そこだよ!キク!まさか、本宅へ一緒にってことにはならないだろよ。向こうにも女中は、いるわけだし」 「……残れる、ってのは、考え甘いかねぇ?」 さあ、どうだろうかと、ヤスヨとキクは、顔を見合せながら、どこか、沈んでいる。
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