柳原家の裏事情

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一方、ヤスヨの言い付け通り、内輪の食事の用意に取りかかっていた櫻子は、作業の手を止めた。 聞こえてきた話は、櫻子にとっても、他人事ではなかったからだ。 冨田とかいう社長が、やって来て、この屋敷を買い取る段取りを行う──。 ヤスヨとキクの会話から、櫻子は、そう読み取った。 親方も、この家は借金があると言っていた。いや、単なるご機嫌伺いのような、何時ものように、櫻子の様子をこっそりと覗きに来たのかと思っていた親方が、実は、父に呼ばれていて、屋敷の庭を改装する打ち合わせに参加する。 あの、やっぱりという口振りは、親方も、屋敷が売られる事を信じていなかったということ。なのだが……。 では、切羽つまった様子で、櫻子へ忠告した言葉は……? ──お嬢さん、何かあったら、お逃げなさい。 あれは、やはり、知っていたから、呼ばれた理由が、本当だったと、分かったから、思わず言ってしまったものではないだろうか。 でも、すべて、ヤスヨとキクの噂話だ。 しかし、二人とも、櫻子の知らなかった来客を知っていた。そして、慌てて、準備に走った。 義母の勝代も、ちょくちょく台所を覗きに来た。 屋敷を買ってもらおうと、必死になっているということだろう。 ああ……、と、櫻子は、あまりのことと小さく呻くと、その華奢な体を揺らすし、崩れ混んでいた。 カランと包丁が落ちる音がした。櫻子が、握っていたものは、土間に落ちており、櫻子も、うずくまる様に崩れている。 包丁が落ちた音に気がついた、ヤスヨとキクが、居る板土間から、かまどの方を見た。 「ちょいと!櫻子さん!」 「やだ!大丈夫かい!」 さっきまで、かまどの脇で料理の下準備をしていた、櫻子が崩れ込んでいる。 「こ、こっちへ!横におなり!」 ヤスヨが、叫んだ。 「ヤスさんっ、誰か呼んで来ようか!」 「キク!お待ち!奥様に、バレたら。今は、騒ぎを起こすんじゃない!」 さあ、さあ、と、ヤスヨとキクに促され、櫻子は、なんとか立ち上がると、言われるままに、二人が居る板土間に上がった。 「ちょいとお待ちよ、今、お茶を入れるから」 「ヤスさん、水の方が、いいんじゃ」 ヤスヨもキクも、慌てふためいていた。目の前で、櫻子が倒れたのは、自分達の話を聞いたからであろと、どこか、罪悪感にさいなまれたからだ。 「急な話だったんだよ。あたしたちもさ、今さっき聞かされたんだ。いえね、単に、屋敷を人が見に来ると、言われただけだよ。でも、裏方までちゃんと掃除しろ、鯛のお造りを用意しろなんて。それに、来るのは、冨田の社長だと、言われたら……」 ヤスヨは、一人ごちながら、座っていた古びた座ぶとんを折り曲げて、急ごしらえの枕を作ると、櫻子の体を横たえた。 「そうそう、冨田の社長は、手広く、不動産を扱ってるから。それに、大の女好きだし。酒はからっきしなのに、あっちの方は、絶倫だとよ。笑わすんじゃないよ」 キクが、湯飲みに湯冷ましを入れて、持って来た。 「櫻子さん、気にしなさんな」 眉尻を下げながら、困った顔をするキクは、櫻子へ、飲めるかい?と、湯飲みを差し出してくる。 いつになく、親切な二人に、櫻子は、声もなく泣いていた。 慰めのような言い訳を聞かされては、やはり、としか思えなかった。 この屋敷は、人手に渡るのだ。 母との思い出が詰まった家は、他人の物になる。唯一、心の拠り所だった場所が……。 「桜、桜は……」 櫻子は、呟いていた。 櫻子の為にと植えられた桜の木。あれも、奪われてしまうのか。 櫻子の瞳から、止めどなく涙が流れた。 幸せだった頃の、家族として、可愛がられていた頃の、櫻子の一番の宝物とも言える、記憶までも、他人に奪われてしまうと思うと、胸が締め付けられた。 「……そうだよね、櫻子さん、あんたは……」 そこまで言って、ヤスヨは言葉に詰まった。 苦し気に嗚咽を押さえながら涙する櫻子の姿を見ては、あんたも、ここの、お嬢様じゃないか、とは、さすがに言えなかった。 この涙の原因となる片棒を、自分たちも、少なからず、担いでいるのだから。 せめて、屋敷のことは、定かではない。憶測だと、櫻子に、言い聞かせ安心感させたかったが、話題の条件が揃いすぎている。何を言っても無駄、誤魔化しきれないだろう。 「さあ、白湯でも飲んで……」 黙りこくったヤスヨに代わり、キクが、そっと、湯飲みを差し出した。 櫻子は、妙に自分を気遣う二人が、疎ましく思えた。今さら、何を慰めようとしているのだろう。さんざん、人をこきつかっておいて。 涙を見せてしまった自分に、歯がゆさを覚えつつ、櫻子は、ゆっくりと起き上がり、懐から手拭いを取りだすと、涙を拭いた。 そして、キクの差し出す湯飲みを受け取り、白湯を口にする。 二人の前で、めそめそしたくなかった。気分を早く落ち着かせたかった。 喉元を過ぎる、少し冷めた白湯は、櫻子の苛立ちや、歯がゆさや、なにもかもを、洗い流してくれるようだった。 そんな、気分を持ち直した櫻子へ、茶々を入れるような声がする。 「お前達、何をサボっているんだい!」 勝代が、廊下から、こちらを見ていた。 「もうそろそろ、社長が、お着きになるだろうに、座り込んで!」 皆へ当たってくる勝代は、外出用の着物に着替えている。
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