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「いや、まあ、そうなんだけど……」
ヤスヨが、口を濁す。
「ああ、そろそろ、お銚子の準備を!」
と、キクが、吸っていたキセルを、タバコ盆に打ちつけ、立ち上がる。
そわそわしている二人の様子に、何か気に触る事を、言ってしまったのかと、櫻子は小さくなった。
そんな、櫻子を見て、ヤスヨが、ふうと、息を吐き、困り果てた顔をしながら、心もとなく口を開いた。
「櫻子さん、これは、ひょとしたらの話だよ。屋敷は恐らく、冨田の社長の手に渡るだろう。今頃、店のほうで、旦那様と、話し合っているのかもしれないね。後は、物件、つまり、ここを確認する。もっと突っ込んだ話になっているのなら、冨田の社長が、住むか誰かに貸すべきかと見に来るんだろう。ここを気に入れば、冨田の社長が、別宅とするんだろうけど……」
ここまで、言って、ヤスヨは、櫻子を見る。
「ヤスさん、それ以上は……」
キクが、割って入って来た。
ヤスヨ同様、こちらも、口が重かった。
二人の女中は、何が起こっているか分かっているようだが、櫻子には、その何事かを、言い渋っている。
「ヤスヨさん、いったい、どういうことなのですか?」
櫻子は、ヤスヨが渋るその先を知りたいと、問うた。
うるさいね、お黙りよ!と、いつもの激が飛んでくることを覚悟で。
「……ああ、櫻子さんには、分からない世界だよねぇ」
ヤスヨは、呟くと、重い口を開こうとした。
「ヤスさん、それは!」
キクが、何故か止めに入ったが、仕方無いって、と、首を振り振り、ヤスヨは、櫻子へ、ポツリと言った。
「……櫻子さん、奥様が言ってただろう?冨田の社長は、素直な子が、好きだって……」
「あんたも、災難だねぇ」
キクが、追うように言って、べたりと再びに床に座り込む。
「でも、そうなりゃ、そうだ、ヤスさん!櫻子さんに、あたしたちのこと、頼べばいいじゃないか!」
「キク!ああ、そうだね!なんて、手放しで喜べるかい?!でも……それも、ありか……」
何か考えこみ、宙を臨むヤスヨへ、キクが、そうだろう?と、煽るように言っている。
次の瞬間、二人は頷き合い、居ずまいを正して、櫻子へ頭を下げていた。
「櫻子さん!頼む!冨田の社長に、あたしたちも、ここに置いてくれと、頼んでおくれよ!あんたと、違って、あたしらは、花街育ち。やっと、抜け出せたと思ったら、勝代を、奥様と呼ばなきゃいけないし、顎でこき使われて。それに、あたしらは、身寄りもないんだよ。行く宛もないんだよ。学もない。今さら、この歳で、どこが雇ってくれるんだい!この通り!後生だから!この通り!」
ヤスヨは、一気に捲し立て、これでもかと、頭を下げ続けている。隣で、キクも、頼むよ!と、同じように、頭を下げて、櫻子へすがって来る。
繰り広げられている事に、櫻子の頭はついて行けなかった。
冨田の社長が来たら、帽子を預かれ、台所から、お茶を運んだりの繋ぎとして動けと言われただけなのに。
いつもの勢いは、どこへ行ったのかと驚くほど、ヤスヨとキクは、櫻子を拝む勢いで、頼む、頼むと、繰り返している。
「あ、あの、お二人とも、やめてください。そのぉ、私は、ただ、色々お運びするように言い付けられただけですし、そんな、社長さんに、物を頼める立場でもありませんし……」
口ごもる櫻子の様子に、ヤスヨとキクは、顔をあげ、また、ああ、と、小さく呟いた。
「……櫻子さん、いいかい、言いたくはないんだけどね、でも、心づもりがあるのと、無いのとでは、まるっきり違うから……」
ヤスヨが、やはり言いにくそうに、言葉を吐く。
「あの、ごめんなさい。私、お二人の言っていることが、わからなくて……」
おろおろする櫻子を見て、そうだよね、と、キクがごちた。
いったい、どうしたというのだろう。
さっきまで、床に這いつくばるように、手をついて頭を下げていた二人は、いつもの顔に戻っている。ただし、困ったと、言いたげに、眉を潜めてはいたが。
櫻子には、言葉通り、わからなかった。ただ、屋敷が売られるとは、別の何かがあるようだと、ヤスヨとキクの、姿を見て感じたのだが、そこまでで、何なのかが、やはり、わからなかったのだ。
「……櫻子さん、あんたも、屋敷と一所に差しだされるんだよ」
ヤスヨが、じっと櫻子を見据えて言った。目尻の皺が目立ち始めたと、常に気にかけている瞳は、いつになく、しっかりと、見開かれていた。
「ああ!そ、それは、ヤスさんの、考え、想像で。言っただろう?ひょっとしたらの話だよ!」
キクが、居心地悪そうに、叫んでいる。
「……差し出されるって、それは?」
櫻子の頭の中は混乱した。なぜ、屋敷が手放されるのかも、という話しに、櫻子まで、関わっているのだろうかと。
女中のように、こき使われ、外の世界を見たことのない櫻子は、本来のお嬢様育ちというものと、ある意味そう変わったものではなく、井の中の蛙、と、言われても仕方無い、世間知らずだった。
「ああ、そうだよねぇ。結局、御屋敷から自由に外へでられない。女学校にも行ってないときたら、あたしらの、話す事など、分かりゃしないか……」
「ああ、そうだね、あたしらみたいに、擦れた女とは違うからねぇ。分からないのも、無理はないよ。分からない方が、いいかもしれないねぇ」
ヤスヨとキクは、伏し目がちに、それぞれ呟いた。まるで、何かから、逃げるような、諦めのような、寂しい顔をして、さあ、そろそろじゃないかい?などと、空元気というものを見せたヤスヨは、取り出していた膳と、器を乾拭きし始める。
キクは、酒はまだ、冷やは早いよねぇなどと、自分に言い聞かせなが徳利を盆に乗せた。
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