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仕事に戻ったヤスヨとキクに、櫻子は、これ以上問いただす事は出来ず、持つ湯飲みを落とさないよう、しっかり、握ることで精一杯だった。
それほど、櫻子は混乱しきっていた。
いつもなら、ヤスヨが、早く手伝えと、怒鳴りつけてくるのに、何も言われない。それもまた、櫻子を混乱させた。
ひょっとしたらと、前置きされていても、ヤスヨの言い分は、確かなものだと、そこまでは、分かっているのに、どうしても、差し出される、というところが、分からない。
屋敷から追い出される。とは、また、違うような……。霞がかったような、薄ぼんやりとした答えともいえないものにしか、櫻子には、たどり着けないでいるのも、もどかしかった。
──ガラガラと、硝子戸を開ける音がする。
玄関の戸が開かれた。
女中二人の動きが、一瞬止まった。来たかと、ヤスヨが言って、主人と来客用、二人分の膳を慌てて、しつらえた。
キクが、盛り付けようかと、小芋の煮物が入った大皿に、手をかけたとたん、軽やかな声が流れて来る。
「ただいま、戻りました」
珠子が、女学校から戻って来たようだった。
そして、ばたばたと、廊下を走りながら、お母様!と、母、勝代を探している。
「はあー、騒がしいねぇ。ばたばたと。まあ、珠子さんは、何が、どうなってるか、なんて、知りもしないだろうし。こっちだって、いきなりだし、まあ、薄々は、気がついてたけど」
チッと、舌打ちし、ヤスヨが、悪態をつく。
「はっ、まったく、人騒がせな。こっちは、てっきり、来たと思ったのに。とんだ肩透かしだよ」
ボヤキながら、キクは、小芋を、ひとつ、口へ放り込む。
キク!と、ヤスヨが咜るが、そこへ、まああーー!と、勝代のわざとらしい驚く声が響いて来た。
「なんだい、今度は」
「まったく、こんなときに限って、呑気だねぇ」
チクチクと、ヤスヨとキクは、嫌みを言いつつも、手は動いている。
その姿を見て、櫻子は、ハッとした。のんびり座っている場合ではなかった。夕飯の支度をしていたのだ。
「櫻子さん、あんたは、少し休んでおいで。これから、色々あるんだら」
ヤスヨが、櫻子の様子に気がついたようで、労ってくれているのだろうが、どこか、すっきりしない、含みのある物言いが引っ掛かる。
その間も、キクは、手際よく料理を、器へ盛り付けていた。そして、彩りの良いもてなし膳が出来上がった。
「どうだろう?ヤスさん」
「そうだねぇ、膳の方はいいんだけど、大皿が、少し寂しいかねぇ」
「ああ、やっぱり。なんでも、冨田の社長は大食漢らしいよ。色と食に目がないそうで」
肩をすくめて、キクは飽きれていた。
「……酒もそんなに飲まないなら、食いに、走るだろうからねぇ。それに、話が上手くまとめれば、よけい、箸がすすむだろ?」
ヤスヨも、おもむろに、やっかいだと顔をしかめた。
「キク、白菜あったろう?塩揉みして浅漬けをお作り。最後に、お茶漬けでもと、勧めて、香の物でごまかすか」
「じゃあ、ぬか床も、さらってみるよ。大根以外に、確か、ナスか、何か漬かってたはずだ。漬け物の、盛り合わせにでもしておこう。ヤスさん」
「そうだね、下手に一品作るより、いいかもしれないねぇ」
それで行くかと、話がまとまった所へ、
「ヤスヨ、珠子にも、鯛のお造り用意してちょうだいな」
勝代が、また、やって来ていた。
今度は、珠子も一緒だった。
「前祝いだよ!なんて、具合よい話なんだろうねぇ」
なにが嬉しいのか、勝代は、高笑い、その横で、珠子が得意気に、口角をあげている。
「で、ですが、奥様、これからというのは……」
ヤスヨは、言い渋る。
来客用に鯛をと、いきなり言われ、手にいれるために、キクが、走り回った。どうにか、用意できたと、やれやれ、なのに、まだ、追加の鯛をとは。
「……今からですと……」
もう、手に入らないかもしれないし、客人が、来られるし、と、ヤスヨは、口ごもった。
そんな、ハッキリしない、態度に、珠子が苛立つ。
「あら、お客様なの?別に、ヤスヨは、動かなくてもいいじゃない!お義姉様が、いるんだから!」
ふふふ、と、珠子は、笑み、同意を得ようとばかりに、母、勝代を見る。
とたんに、勝代は、眉尻を下げながら、それが、今日は、だめなのだ、櫻子には、いてもらわないといけないのだと、珠子の、機嫌を損ねないように、優しく声をかけた。
「あら、まあ!なぜ!!義姉様が、必要なの!!珠子は、お祝いしてもらえないの!?」
高飛車な珠子に、いつもの事とはいえ、なぜ、今なのだと、こちらが、言いたいとばかりに、ヤスヨは、小さく舌打ちしつつ、ふっきらぼうに、申し訳ありませんがと、断りを入れた。
お母様!と、珠子のかな切り声が、台所に響き渡り、険悪な空気が流れた。
地団駄を踏む、我が子に、勝代は、困りきっている。
見かねたキクが、気をそらそうと、勝代へ問うた。
「奥様、珠子お嬢様に何があったんですか?」
余計なことをと、ヤスヨは、キクの呑気な様子に、顔を歪め、そっぽを向いた。
そんな、ヤスヨの態度など、気にも止めずに、よくぞ聞いてくれたと、勝代が弾けきる。
「珠子が、予選を通ったのよ!まあ、珠子ですからね、当然のことだけど」
そして、また、耳障りな勝代の高笑いが響き渡った。
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