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2023/04/08
最初の投稿からすでに2週間以上も経っている。つくづく私には、継続の力が無いのだと実感した。もしくは、本当に私は小説を書きたいのだろうか、という疑問も生まれる。
まあ、今回はそういう話ではないので、またの機会にしよう。
察しの良い読者は、「じい」を更新している時点で、気づいているかもしれない。
じいは亡くなった。
正確な日時などは必要ないと思うので書かないが、この投稿の数日前である。私は県外の大学に在籍しており、その場には立ち会えなかった。
私は人生で初めて、通夜と葬式に行った。ご焼香の作法はYouTubeの動画で知った。
死んだじいの顔はとても綺麗に整えられていたが、筋肉が動いていないからか、どこか頬が垂れたような顔になっていた。対して遺影は、1年前に撮られたもので、棺桶の中にある表情と比べてしまうからか、とても生き生きとしつつ、それでいて、穏やかに微笑んだ表情に見えた。
すこしだけじいの顔に手を触れたが、すぐに触るのをやめた。とても冷たかったからだ。まるで冷蔵庫で冷やしたもののようだった。
私は感覚的に、人が死んだら体温は維持されないから、気温と同等の体温となる、と考えていた。活動が停止した生物を、虫が寄らないように、腐らないようにするには、もっと冷やさなければいけないことを失念していた。
それ故に私は、あまりにも冷たいじいの体温に、死の実感と恐怖を感じ、触れるのをやめたのだ。
通夜の後、私は斎場の隣の部屋で、従兄弟の2人と一緒に1泊した。常識なのかもしれないが、通夜は元々、日が変わるまで行うもので、大抵、時間のある人が葬式会場の部屋で一泊するのだそうだ。
通夜が終わってから、隣の部屋で、私たちは酒盛りをした。近くのコンビニで、思い思いの酒とじいが好きだった酒、そしておつまみを買った。じいは焼酎派だったらしい。
じいとの思い出や、葬式自体の話、じいとは全く関係のない話もしていた。時にはじいの死をネタにするような話題もあった。身内だからこそできる会話だった。(発言者は私である。私は言ってはいけないこと口走るタイプだ。)
翌日、葬式が行われた。
通夜もそうだか、なんということはない、平凡な葬式だったと思う。ちなみに家族葬だ。
私は、生き物の死を悲しむ必要はないと思ってしまう性格である。死はどんな生物にも訪れる。その者と会えなくなる、話せなくなることは悲しいことだが、悲しめば、涙を流せば生き返る訳ではない。死を悲しむ行為に何かを変える力はない。強いて言うなら、自身の心の平穏を保つ、という、自分のためにある感情だ。
ゆえに、人の死に涙を流す者を否定はしないし、私も本当に辛い時は泣くだろうが、これからも悲しい気持ちを引きずって生きることだけは、避けるべきだと思う。
そんな思想が(自身の心を守るための自己防衛なのか)脳内を駆け巡ってしまう私は、身内の葬式だろうと、感極まって泣いたりはしないだろうと、そう思っていた。
だが、葬式の終盤、じいの顔が見える最後の時、棺桶の中を花や、自分たちで折った折り紙、お酒などで飾り付ける時に、母や、母の姉などの人達がすすり泣く音によって、私も目に涙を浮かべていた。
原因はわかっていても、もらい泣き、などという、あたかも自分には泣くほどの想いはなかった、というような言葉は使いたくない。
私は、じいの死を悲しみ、流れ落ちる程ではないが、目に涙を浮かべたのだ。
私は火葬場までじいに連れ添った。
火葬は一時間以上もかかっていた。人の体を燃やし尽くすには、存外時間がかかるのだなと思った。
待ち時間を屋外で過ごしていると、山に咲く桜が見え、桜の散る美しい季節に天に昇るじいは幸せなのかもしれないと、どうあれ死は悲しく、嫌なことだと知りながら、そう思った。
他にも色々とあった気もするが、別段、書き残すようなものはないと思う。
そして、当時の感情や気持ちに関しても、すでに書いた通りである。
だが、一つだけ言うとすれば、葬式の日に、私は他の人と違う、ある思想を持っていることを知った。
皆さんは、大切な人が亡くなった時に、故人にどうなって欲しいと願うだろうか。
もう言ってしまうが、私以外の家族や身内、そしてお坊さんは、どうやら「成仏してほしい」「安らかに眠ってほしい」と願っているようだった。私の母も、じいとの最期の時に、そう語りかけていた。
もちろんそれを否定することはないが、私はそうではなかった。
私は、じいが、幽霊として化けて出てきても嬉しいのだ。化けて出てきてほしい。
それが仏教や、他の宗教では良くない考えかもしれないが(よくは知らない)、じいの存在を感じられるのであれば、それの方がいい。
まあもっとも、じいは能天気で、ボケた年寄りだから、安らかに眠れるのであれば眠っていそうなものではある。そういう人だ。その辺はじいがしたいようにしてほしい。それでいい。生者は死者に縛られないべきだし、死者は生者に縛られないべきだ。
まあそれも、魂があればの話ではあるが。
他の人と違う思想、とは書いたが、案外、私と同じ思想をもつ人は多そうだなと、書いていて思った。
そして、「化けて出てきてほしい」という考えとは違い、かつ、大切な人の死に対して、誰もが思う当たり前の事も、当然ながら私は思った。
最後に、その想いも込めた言葉を残して、終わろうと思う。
感謝という想いを。
『じい。今までありがとう。楽しかった。成仏する気がないなら、化けて出てくれても、僕は嬉しいよ?』
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