和尚と滝壺の河童

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和尚と滝壺の河童

 ある日の夕方近くになって、和尚は一人で滝壺へ出かけて行きました。    木々に囲まれた滝壺は、夕方の少し涼やかな風が抜けて行きます。和尚は滝壺に向かって膝を付くと、手を合わせて独り言のように話し始めました。 「河童様。此度は村の子どもらを助けてくださり、ありがとうございます。子どもらも村の大人たちも皆、感謝しております。私からも礼を申し上げます。  そしてこれは、心ばかりの品ですが寺で頂いた桃でございます。どうぞ召し上がってください。」 和尚が話し終わると、何処からかすすり泣く声が聞こえてきました。和尚の他には誰もいないはずの滝壺で、すすり泣く声がする。その声に和尚は一つ頷くと、再び話し始めました。 「河童様、どうか私の前にも姿を現してください。私にも一目あなたの姿を見せてください。そしてもし、叶うなら一緒に・・・ 共に並んで経を唱えてはくれませんか?」 こう問いかけた和尚の声が止むと、泣き声はより大きくなり河童が滝壺の水の中から姿を現しました。 「あぁ、河童様。いや、お前は慈聡なのであろう? 姿を見せてくれてありがとう。少年が持っていた経の写しを見て、すぐに分かったよ。あれは慈聡の字だった。とても懐かしかったよ。少年は、この経は河童様が書いてくれたのだと言っていた。お前が見かねて書いてあげたのであろう?」 和尚の言葉は、徐々に涙声になっていました。河童は水から上がり、滝壺のふちにいる和尚の目の前まで来ると、 「和尚様。突然に寺からいなくなり、申し訳ございませんでした。毎日滝壺に通い経を上げているうちに、ある日、河童の姿になっていました。この姿では寺に戻る訳にもいかず、この滝壺からも離れ難くそのままここに棲みついてしまったのです。  和尚様や寺の皆に何も言えないまま、この滝壺で弔いの為に朝夕に経を上げ続ける日々でございます。」 河童は、涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら懸命に話しました。話し終わると膝を付き、体を折って泣いています。 「そうだったのか・・・ だが弔いとは誰のことなのだ?」 和尚はそう問いかけ、河童が泣き止むのをしばらく待っています。 「・・・はい。お恥ずかしい話ですが、村にいたある娘と僧侶であった自分の為の弔いでございます。」 「村の娘とはもしや、三年前にこの滝壺に来てから行方が分からなくなった娘さんかい? そうか・・・ 分かった。そういう事か。何も気づいてやれず、すまなかった。  慈聡よ。お前は、今でも僧侶のままなのだな。あの少年が教えてくれたのだよ。滝壺の河童は首から大きな数珠を下げ朝夕に経を上げているのだと。それでどうしても会ってみたくなったのだ。慈聡はいつも、その数珠を肌身離さず身に付けておったからな。  今日ここへ来てみてよかった。お前に再び会えてよかった。嬉しいよ。慈聡。今でも朝夕に経を上げ、子どもらを導き僧侶の頃と変わらぬ日々を過ごしているではないか。姿形が変わっても慈聡の面影は残っているぞ。それに心は、少しも変わらぬ慈聡のままではないか。」 和尚は、河童の手を握って言いました。その和尚の温もりに、河童は再び涙がこぼれました。 「さぁ、慈聡よ。一緒に経を唱えてくれないか? 寺におった頃のように一緒に。さぁ。」 和尚がそう言うと、河童は和尚の隣に正座をし二人並んで経を唱え始めました。  ただ流れ落ちる滝の水音と時折吹き抜ける風が木々を揺らす音だけが聞こえる。とても静かな滝壺に、二人の低く通る声の経が響いています。その経の所々は、涙声となって響いています。  二人の経が終わると、和尚は慈聡に言いました。 「慈聡よ。お前は桃が好きであったろう? 食べておくれ。これからも時々、お前に会いに来てもよいか? 何はともあれお前が生きていて善かった。こうしてまた話をし、共に経を唱えることが出来た。嬉しいよ。ありがとう。どうか身体を大事にな。」 和尚は言葉を終えると、慈聡に向かい微笑み幾度も頷いています。   「和尚様。村では私の事を、河童の事を恐ろしいもののように噂していますが、私は決して悪さはしていません。人間を水の中に引っ張り込んだりなどしていません。信じてください。」 「あぁ、分かっているよ。お前は、河童になってしまったからと言って悪さをするような者ではない。いずれ村の人々も分かってくれるであろう。此度の村の子どもを助けた事は、そのよい機会となろう。」 和尚は、河童の手をしっかりと握って励ましました。河童は、和尚が握ってくれた手を見つめ幾度も頷きます。  高かった太陽が随分と西に傾いています。和尚は名残惜しそうに別れのあいさつをすると、寺へ帰って行きました。河童は黙って和尚の後ろ姿を見送っています。そして、和尚の姿が見えなくなると、滝壺のふちに置かれた桃を一つ掴み泣きながら食べました。  和尚と共に寺で過ごした懐かしい日々が幾つも思い出されます。まだ慈聡が小坊主だった頃から、夏になると頂き物の桃を和尚が下げて来ては廊下に腰かけ一緒に食べました。小坊主も他に居らず慈聡だけだったので、二人きりで食べました。その桃の味は、慈聡にとって幸せの味でした。和尚と血のつながりはなくとも父子の想い出のように残っています。  和尚もその事を覚えていてくれたのだと、慈聡は嬉しくなり泣きながら届いた桃を食べました。その横でカエルがぴょんと跳び、滝壺の水を跳ね上げて水の中に入りました。ぽちゃんと小さな音が立ちました。
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