4人が本棚に入れています
本棚に追加
第3話 「地上最強の『ヌイグルミ』」
(UnsplashのOmid Arminが撮影)
次にバイユーに会ったのは、一カ月も後だった。
彼女はぺたりとガラスにひっつくと、小さく笑った。
「ひさしぶり、コールミ」
『コールミ』と呼ばれて、僕は嬉しくなった。
だから僕も、僕の秘密を見せた。椅子から降りて歩いたんだ。
ガラスの向こうでバイユーがふわふわと動いているのが分かった。
「すごいすごい! どうやったの、コールミ!?」
「練習したんだよ、きみに見せたくて」
「びっくりした! もっと近くに来て!」
僕はゆっくりとガラスに近づいた。
バイユーが呼ぶ『コールミ』という音に、ぞくぞくする。
僕の名前。
バイユーと僕しか知らない秘密。
それはとても心地よくて、僕にしゃべる力をくれた。歩く力も、たぶん、笑う力も。
「すごいわ、コールミ。ヌイグルミじゃないみたい」
「ヌイグルミだよ、僕は、きみのヌイグルミ。そうだろ?」
「そうよそうよ!」
「しばらく来なかったね? どうしていたの?」
「病院にいたのよ。『ここ』が痛くて」
「そうなんだ……そこが痛むと、どうなるの?」
「息が吸えなくなるの。急いで薬を飲めばいいんだけど、このあいだは間に合わなくて……」
僕はきゅっと、どこかが痛んだ気がした。心地よい痛さだ。バイユーのかわりに、痛めばいいと思った。
ぺたり、と自分からガラスに手を当てる。ちょうどバイユーと同じ位置に。
ガラス越しにバイユーがいるのが感じられた。
バイユーが言う。
「コールミ、一緒に外へ行きたいね」
「うん。でもダメだ。このガラスケースから出られないんだ」
「そうなの? でももうちょっと近くにいたいね?
ガラスなしでさわれたらいいのにね……このガラスが、こんなに頑丈でなければ、ちょっと壊せるのにね……」
ほんとうだ。僕はバイユーのヌイグルミなのに、さわったり匂いをかいだり、かじったりできないなんて……。
……いや、できるかもしれない。
このガラスは、内側からの衝撃に弱い。
内側からの衝撃に……。
その日、バイユーが帰ってから、僕はガラスのすみっこに椅子の足を当て始めた。
こつん。こつんこつん。こつん。
静かな博物館に、小さなガラスの音がした。
やまないガラスの音は、止まない鼓動のように聞こえた。
外の世界へ続く音。自由の音。
バイユーに続く音だ。
四日後、バイユーが来たときには『準備』が出来ていた。
僕はガラスの微かなヒビを見せた。
「あともう一回椅子をぶつけたら、穴が開くと思うんだ。そしたら、穴からさわれるよ」
「コールミ、すごい!」
バイユーはゆらゆらした。僕はうなずいて、椅子をぶつけた。
こつん……まだ割れない。
こつん……こ……っ……ぱりん……。
小さなひびが入ったかと思うと、いきなりすごい音がした。
ぴひょうううおおおおおおお!!!
ガラスケースの中で嵐が巻き起こり、椅子も僕もガラスにたたきつけられた。そして椅子は向きを変えて、ガラスに向かっていく。
職員の声が、聞こえた気がした。
『このガラスは……内側からの衝撃に……よわい……』
ガラスが粉々に割れたら、バイユーが危ない。
僕は椅子に飛びついた。暴れる椅子をおさえて後ろを見る。
「バイユーっ!」
しかしそこには、倒れてしまったバイユーがいた。
「……コールミ……いたい……」
バイユーは身体を押さえていた。痛いんだね、早く薬をとって……。
だけどもう、バイユーは動かない。
僕は目をつぶって、椅子を振り上げた。
誰かの声が聞こえる。遠い昔に、聞いた声——。
『ケース内なら酸素循環できる。安全だ』
『まったく、信じられないね。これほど生理学的に弱い種が長期間、存続できたとは』
『自然の摂理は不思議なんだよ。
たかが硫化水素の刺激にすら耐えられずに絶滅した種が、長い間、この星の支配者だったんだ。
何という種だったかな……ああ、“人類”か……』
別の声が笑った。
『おかしな呼称だよ。愛称の“ヌイグルミ”のほうが、まだましだ。そう言えばこの個体は、どれくらい保つんだ?』
『数百年は大丈夫だ。中身をきれいに洗浄して、防腐素材を再充填したから……』
思い出した。
僕はヌイグルミじゃない。『人類』だ。地上最後の人類なんだ。
眼を見開いていると、ちくちくしはじめた。ガラスのひびから、ひどい臭いのガスが入ってくる。
……硫化水素。
人類には有毒だが、異星人には無害なガス。
だが今、ガラスケースから漏れだしているのは、異星人には有毒な酸素入りの空気だ。
バイユーにとって有毒な空気が、どんどん漏れている。
バイユーは倒れたきり、十四本ある触手のうち一本すら動かせない。とろとろの粘液に包まれた青色の触手が、かろうじてかすかに動いている。
「バイユー……薬がいるのに! そうだ!」
僕はがつん! と椅子を振りあげて、おろした。
もう一回。もう一回。
もう一回……ガラスが割れた!
急いでガラスケースを出る。
一気に眼も鼻も口も、すべての粘膜がビリビリした。痛い、痛すぎてわけがわからない。
でもバイユーは、きっとこれ以上に痛いんだ。
薬がいる。
早くしなきゃ、僕が動けなくなる前に!
床をはいずり、手を伸ばす。バイユーの第三触手は、がっちりと小さな僕を握りしめていた。
まるでお守りのように。
いや、お守りなんだ。本当に。
彼女にとっては命をつなぐお守りなんだ。
目がかすむ。僕は、小さな僕をつかんで引き裂いた。
ほろりと白い薬がおちてきた。
そいつを捕まえて、彼女の口吻に押し込む。いっぱいに生えた鋭い歯が手に食い込んで血だらけになったけど、かまわない。
喉の奥に薬をいれたとき、ぴくっとバイユーが動くのが分かった。
目が開く。体の正面と横にある八個の眼が順番に開いた。
星みたいだなと思った。遠い昔、まだ僕が人間だったころに見た最後の星空に似ていた。
「こ……こーるみ。ありがと……」
僕はうなずいた。
世界がかたむく。
高濃度硫化水素が、地上最後の人類の肺を焼いていく……。
ううん、ちがう。
僕の名前はコールミ。
バイユーとひっぱりあったり匂いをかぎあったり、かじりあったりできる地上最後の『ヌイグルミ』だ。
バイユーのヌイグルミだ。
僕は今、きっと笑っているんだと思う――。
【了】
最初のコメントを投稿しよう!