第一章・チョコレート

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いやいや、私が泣きそうになったのは、そんなんじゃないし。ひよりは、私が若手女優の演技に感動して涙ぐんでいると勘違いしているようだった。 「カーット!」 威勢のいい声がかけられた。石井ディレクターも満面の笑顔を浮かべている。 車に轢かれそうになった幼稚園児を助けようとして、そのまま死んでしまった恋人役の俳優が血だらけになりながら、ムクッと起き上がった。 メイクさんが、「お疲れさまでしたぁ」と、朗らかに言いながら、俳優に花束を渡すために、笑顔で駆け寄った。周りの撮影スタッフも、労いの拍手を送っている。 真っ赤なガーベラや山吹色のサンダーソニアの花束を手にした俳優が、少しだけ照れくさそうな顔をした。 その横を新人女優がもう我関せずとばかりに、ガン無視して通り過ぎる。太ったおばさんマネージャーの元に行き「次のスケジュールはぁ?」と、これみよがしに聞いている。これで恋人役の俳優ともバイバイできるのだから、関係ない人を決め込んでいるのだろう。 「河野ちゃーん、良かったよ」 後ろのモニターの前で、私が静観を決め込んでいたら、紺色のTシャツにジーンズ姿の石井ディレクターがやって来た。佐々木プロデューサーは女優のところに尻尾を振って、既に駆け参じていた。 石井ディレクターが、私の手をとりブンブン振り回す。半袖から出ている腕にはビッシリと毛が生えているし、体格も良いし、まるで熊のようだった。 「あの俳優をどうやって降板させるのかなって気がかりだったんだけど、やっぱり子供を救う事故死って、古典だけどドラマティックだよね。あれはあれで泣けるし、良かったよ」
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