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「好きになるのは自由でも、嫌いになるのは理由が要ると思うの」
ぽちゃ、と音がした。
奥村は筆洗に突っ込んだ平筆をくるくるとかき混ぜる。へえ、と僕は言葉にも吐息にも聞こえる音を出した。
「だから書いてるのか」
「違うよ。描いてるの」
「なんで漢字見えるんだよ」
「ニュアンスでわかるよ」
この部屋にひとつだけある窓から春の柔らかな日の光が差し込み、彼女の横顔を照らす。
他の壁には天井まで届く棚が設置されており色とりどりのスプレー缶や凛々しい顔つきの石膏像、使いかけの鉛筆など様々なものが乱雑に置かれていた。彼女の背後にある窓の下には何枚ものキャンバスが重ねて立てかけられている。
ここは美術倉庫だ。
本来美術部は隣の美術室で活動するものだが、彼女はこの小さな物置部屋を好んで使っている。僕たちの座っている椅子も美術室用の予備だ。
元々作業目的ではない狭い部屋のため詰め込まれた道具や資材を端に寄せてなんとか二人分の椅子とイーゼルのスペースを確保している。窮屈に見えるが、まあ好きになるのは自由か。
「でもなんで理由がいるんだ?」
「だって、嫌うって攻撃みたいなものじゃない。嫌われたら辛いでしょ」
「知らないところで嫌われる分には気にならないけど」
「シュレーディンガーくんみたいなことを言うね」
「友達か」
軽口を叩き合いながら、奥村は表情を変えずに筆先に色を乗せてキャンバスに運ぶ。踊るように筆を動かす彼女を、僕はいつものように何もせず眺める。
窓の下に立てられているキャンパスのほとんどは奥村の作品だ。彼女が次々と描いては置き、描いては置いていくせいでいよいよ雪崩れそうなボリュームになっている。
一番前に置かれたキャンバスには葉のない木が描かれていた。その後ろにあるものも、さらに後ろにあるものにも、同じ木が描かれている。
「市倉くんの言うこともわかるよ。でも思いがけない形で相手に伝わるかもしれないから」
人は何かを好きになるのと同じように何かを嫌いにもなる。それは決して悪いことじゃない。
けれど、その気持ちを相手に伝える必要もない。
「そうなったら確かに攻撃かもな」
「うん。無意識にでも傷つける可能性があるならちゃんと理由を説明できるようにしたいの」
キャンパスとその隣に置かれた写真を見比べながら奥村は色彩を纏わせる。白紙だったものに少しずつ鮮やかな命が注がれていく。美術とは、まさに美しい術だと思う。
それを話しながらやってるのだから器用なやつだ。本当は邪魔だと思われてるのかもしれないが、それについてはとうに考えることをやめている。
僕はこの時間が好きなのだ。
「市倉くんは桜が好き?」
ふと彼女はそう尋ねた。僕は少し考える。
「僕も桜は嫌いかな」
そう答えると、へえ、と奥村は言葉にも吐息にも聞こえる音を出した。
「どうして?」
ぽちゃ、と音が聞こえる。困った。言えるわけがない。
僕は奥村の横顔を見る。
筆に新しい色を乗せた彼女は一心にキャンバスと向き合っていた。
「他人の理由を訊くならまず自分の理由を述べるのがマナーだろ」
「どこの世界のマナーなの」
まあいいけど、と彼女は筆を滑らせる。焦茶色の軌跡が枝を増やした。彼女の双眸はまっすぐに自分の描く桜を見つめている。
言えるわけないだろ。
僕はまだ一度もこちらを見ない彼女の横顔に思う。
桜が妬ましいから、なんて。
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