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僕は桜が好きだった。
好きな理由を並べるのはなんだか野暮な気もするが、おそらく日本人のほとんどがそうであるように僕も桜という花木の美しさに魅了されていたのだ。
「咲いたなあ」
部室棟裏に立つ一本の桜の木を見上げる。
桜なら校門の辺りにも立っているが、あちらは人の出入りが多く落ち着いて眺められない。入学したばかりで勝手のわからない高校の把握も兼ねて探検していたところ、見つけたのがここの桜だった。
咲き誇る薄桃色の花弁には光が瞬き白にも紫にも見える。ここは普段校舎の影になってしまう場所だが、放課後だけは暗い森の奥にぽっかりと開けた場所のように光が降り注いでいた。
「よし。ここを僕のお気に入りスポットに認定します」
とまあ身勝手なことを呟いてみたものの、誰かに見つかるのも時間の問題だろう。
まだ偶然新入生の目に留まっていないだけだ。二年や三年の先輩がいないのは景色として見飽きてしまったからだろうか。
いずれ僕もそうなるのか。今はどこを見て歩いても楽しいこの校舎だが、いつかただの灰色の塊としか思えなくなるのかもしれない。
桜は美しいと持て囃される理由の一端が分かった気がした。桜は、春しか見られないからだ。
まだ散り始めてもいない桜を前にそんな取り留めのないことを考えていると――カシャ、と音がした。
「え」
振り向くと、横向きになったスマートフォンがこちらを向いていた。
まるで黒目線のようにスマホを構えた女子生徒の姿に僕は見覚えがある。確か隣のクラスの生徒だ。
彼女が持ち上げていたスマホを下げると、ぱちりと大きな両目が現れる。
まるで星空を水に溶かしたかのような透明に瞬く黒い瞳。
綺麗だ。
その目に意識が飲み込まれたみたいに僕は言葉を失った。
「よし」
彼女がスマホの画面を確認して小さく呟く。俯いた彼女の前髪が瞳を隠して、僕はようやく意識を取り戻した。
「えっと、桜好きなの?」
「ううん嫌い」
「マジか」
画面を見つめたままの彼女は短く答えて、彼女を見つめたままの僕は短く困惑した。
「え、じゃあそれ何の写真?」
「桜の木とお気に入りスポット認定者の写真」
「聞こえてたの」
急に彼女の顔が見られなくなった。顔が上がらない。いっそ何も聞かなかった振りしてくれたらよかったのに。結構いい性格をしてるのかもしれない。
「じゃ、お邪魔しました」
僕の目が地面に釘付けになっている間に彼女はそれだけ言い残して踵を返す。
咄嗟に声をかけようとして、結局言葉が見つからなかった僕はさっさと校舎へ戻っていく彼女を見送ることしかできなかった。
「……ん?」
ふと彼女が立っていた場所に何かが落ちていることに気付く。
僕はそれを指先で拾い上げた。
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