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「忘れものだよ、奥村さん」
「あれ、認定者さん?」
「市倉だ」
翌日の放課後、美術倉庫の扉を開けた僕は絵具の独特な匂いに埋もれた彼女を見つけた。
容赦なく人の傷をえぐってくる奥村は声で他人を判断しているのか、キャンバスから目を逸らさない。
仕方なく僕は彼女の傍に置いてある鞄の上に昨日拾った学生証を置いた。
「ありがとう。スマホケースに入れてたの落ちちゃってたんだね」
「別のとこにしまったほうがいいかもな」
「うん、そうする。でもよくここがわかったね」
「まあなんとなくな」
「なんとなくで辿り着ける場所かな」
奥村の疑問に、僕は笑って誤魔化す。
学生証に大した情報は載っていない。彼女の言う通りそれだけで居場所を特定するのは不可能だ。
だから僕は訊いて回った。
まずは彼女のクラスメイトへ。入学直後でまだ関係の深まっていない彼らからなんとか「美術部らしい」と聞き出したら今度は美術部員へ。地道に細い線を辿ってここまで来た。
「座っていい?」
「どうぞ」
僕は隅に置いてあった椅子に積もる埃を手で払って腰掛ける。彼女は絵筆を筆洗に泳がせる。
二人の間に沈黙が生まれた。
しかしそれは気まずいものではなく心地いい静けさだ。
彼女は絵を描くことに集中して、僕は絵を描く彼女を何も言わず眺めている。この小さな空間は彼女が筆を動かす音だけで十分に満たされていた。
「明日も来ていいかな」
十分に美術の空気を吸い込んでから僕は立ち上がる。いつまでも見ていたいけどこれ以上は流石に邪魔かもしれない。
だから帰ろう。今日のところは。
「え、別にいいけどどうして?」
どうして、なんてさ。
僕は倉庫の扉を開けて、振り返る。雑多に詰め込まれた物たちの中央で美しい術を振るう彼女を見た。
そんなこと訊くのは野暮ってもんだよ。
「ここを僕のお気に入りスポットに認定します」
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