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「花も葉もない木を見て、それが桜だって気付ける人がどのくらいいると思う?」  奥村は今日も美術倉庫中央の奥村一人分だけ空けられたスペースで桜を描いている。  そもそもの話だけど、なんで絵を描いたら桜を嫌いな理由が見つかるんだ?  僕の問いに対する彼女の答えがそれだった。   「そりゃなかなか難問だな。果梗(かこう)だけを見て巨峰かシャインマスカットか当てるようなもんだ」 「簡単でしょそれは」 「お前は植物博士か何かか?」 「博士じゃないけど昔描いたことあるから」  描いたことがある。だからわかる。  彼女はそう言ってのけた。 「絵を描くっていうのは、よく見るってことだからね。一目や二目じゃなくて、千目も万目も億目も」 「妖怪みたいだな」 「個数じゃなくて回数の話だよ」  奥村の言葉に僕は納得した。  なぜか一方的に美的センスから嫌われている僕は絵を描かないが、この一年間彼女が絵を描く姿を見てきたからだ。  花弁一枚、葉一枚、枝一本――どころではない。  花弁の縁に寄る皺一本、葉の表面を泳ぐ葉脈の最終端、枝の節に滞る樹皮の模様に至るまで彼女は『桜』をキャンバスに再現して、表現して、顕現させる。  そこに至るまでに何度も彼女は自分の撮った写真を見返していた。僕はそれが何度か数えていない。数えきれない。  絵画とは何億回と繰り返された観察の集大成なのだろう。 「何回も見てるとわかってくるの。全部。目に見えるところも見えないところもなんとなくね」 「一回も話したことない人でも遠くから見てればなんとなくその人の性格がわかってくるみたいなもんか」 「なんか犯罪の臭いがするんだけど」 「目だけじゃなくて鼻もいいんだな」  何かに突き動かされたかのように、がたっ、と音を立てて奥村は椅子ごと僕から距離を取った。僕はふっと唇の端で笑う。 「この狭い倉庫でいくら逃げようと無駄だぞ」 「もうこの発言で有罪でしょ」 「日本の司法はそんなことじゃ動かないぜ」 「先生ー! 助けてー!」 「学校の司法は簡単に動くからやめて!」  運よく先生は近くにいなかったようで僕が生徒指導室へ連行されることはなかった。危なかった。出禁になるとこだった。認定者が出禁ってこれいかに。 「まあそういうわけよ」 「いやどういうわけだよ」 「市倉くんの質問の答え」  すっと音もなく彼女は手首を返した。  筆先が跳ねるように回って花びらがまた一枚、白紙のキャンバスに舞う。 「嫌いな理由を見つけるには、相手のことを知るのが一番でしょ」
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