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「完成、です」  キャンバスから筆を離し、奥村はふうと息をつく。持っていた筆を筆洗に突っ込んで大きく伸びをした。  僕は彼女が絵を完成させた瞬間を初めて見る。いつもタイミングが合わず、僕がいない間に完成させてはすぐ次の絵に取りかかっているからだ。 「おつかれさま」 「そうそうこのタイミングだよ」  達成感からか力の抜けた笑みを浮かべる奥村は「ありがと」と礼を言った。  それでもまだ彼女はキャンバスから目を離していない。気になる点があるのだろうか。  作品の完成は作者が勝手に決めているだけで、究極的に言えば作品に完成はない。  奥村は以前そう言っていたがそういうことなのかもしれないな。 「で、わかったのか」 「うん」  何とは言わずとも奥村は頷いた。  それを知るために、彼女はこの一年描き続けたのだ。 「かわいそうって、思ったんだよね」  奥村は口を開く。  自分の描いた桜を見ながら、自分の描いてきた桜を背景にして、彼女はぽつりと零した。 「小さい頃、家族でお花見に行ったことがあるの。すごくあったかい日で、春の終わり際だったんだと思う。そんなに風は強くないのに桜の花弁は何枚も散ってて、みんなそれを綺麗綺麗って見てた。でも私はそうは思わなかったの」  少し俯いた彼女の顔には影が落ちている。窓からの逆光、というだけではないだろう。その表情は家族との思い出話を語る顔には見えない。 「そのときはわからなかったんだ。なんでだろう。なんで私は皆と同じように楽しめないんだろうって。でもずっと桜を描き続けてわかったよ」  僕は何も言わない。  彼女の話を邪魔しないように、一言も聞き逃さないように無言で先を促す。 「かわいそうって思ったんだ。桜が死んでいく。桜の身体が少しずつぼろぼろ崩れていくみたいに見えて怖かった。地面に落ちた桜の肉片が泥まみれでぐちゃぐちゃになってるのが気持ち悪かった。それを見て綺麗綺麗って笑ってるみんなも、怖かった」  かわいそう。怖い。気持ち悪い。  死に向かっていく桜を見て、奥村はそんな感情を抱いた。そんなの好きになれるわけがない。  花は桜木、とは誰の言葉だったろう。桜は散り際が美しいと皆口を揃えて言う。  けれど彼女はそれを美しいとは思えなかったのだ。 「それが、私が桜を嫌いな理由だよ」
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