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3.本当
高校に入学し、学校生活にも徐々に慣れてきたころ、てんちゃんから連絡があった。いつもはエマのスマホに直接電話をしてくるてんちゃんがその日は珍しく自宅の固定電話にかけてきたことに違和感はあった。けれどそのときはなにかママに用事でもあるのね、くらいにしか思わなかった。
違和感の正体を知ったのはお風呂上り、濡れた髪をタオルで拭きながらダイニングに入ろうとしたときだった。
「天子姉さん、結婚するって」
ママがパパにそう言った。パパはママの言葉に、そうか、と短く答えただけだったけれど、エマはそうか、で済ませることができなかった。
「は? え? てんちゃん、が?」
突然ダイニングに飛び込んで来たエマに、ママもパパもぎょっとした顔をする。けれどそんなことはどうでもよかった。
「てんちゃんが結婚って嘘、だよね?」
信じられなくて、信じたくなくてそう詰め寄るエマを、椅子に座ったままママが眉間にしわを寄せて見上げる。
答えが返ってこないのに苛立ち、パパ! とパパの方に目を向けたのと、本当よ、とママが言ったのは同時だった。
「なにそれ……全然聞いてなかったんだけど! だってさっきも電話で話したけどそんなこと一言も……」
「なんて言っていいか、わからなかったんでしょう、きっと」
深くため息をついたママに、なんで! とさらに突っかかろうとすると、エマ、と逆に名前が呼ばれた。思わず口を噤むエマに、ママは自分の向かいの椅子を指さし座るよう促した。
「座ってエマ。少し話したいこと、あるから」
「話ってなに」
「あなたの本当のお母さんの話」
低い声音はエマに拒絶を許さなかった。ずるずると椅子に座ると、ママはエマをじっと見据えて言った。
「話してあったでしょう? エマはママとパパの本当の子どもじゃないって」
「……うん」
小学校に上がってすぐくらいだったと思う。エマは聞かされた。
自分がママとパパの本当の子どもではなく養子だと。
驚いたし、意味がわからなかった。ママはママで、パパはパパだからだ。
しかし、ママは断固としてこう言った。
ママはママだけれど、エマを生んでくれた人は別にいる。そのことを忘れないでいて。あなたを大事に思ってあなたを愛している人がこの世界にはママとパパ以外にもいるってこと、ちゃんと知っていて、と。
「ママはね、ずっと子どもが欲しかったの。でも……ママには生めなかった。すごくくやしくて……自分のこと、駄目な人間ってすごく責めた。そのときにね、天子姉さんが言ったの。
生めたら欠けていないの? そんなことない、育てる意志と力があるあなたは私よりずっとずっと優れている、って」
ママはそう語ってから目の前に置いたままのマグカップを取り上げ、中のコーヒーをこくりと飲んだ。味を楽しむためじゃない、喉を潤すためだけの飲み方だった。
「姉さんはそのときね、妊娠してたの。当時付き合ってた人との間の子。ただ相手の人が既婚者でね……姉さんも随分悩んでた。そんなときだったの。私たち夫婦にはもう……子どもを望むことは難しいって検査結果出たのが」
どうして今、てんちゃんの名前が出るのだろう。
呆然とママを見つめるしかできないエマの前ですうっとママは顔を上げた。
てんちゃんとよく似た顔が痛まし気にエマを見つめた。
「姉さんは……子どもを生んだわ。でも片親でしかも自分のような中途半端な人間に育てられるよりは、両親そろったちゃんとした家庭で育った方がずっといいってそう言って」
やめて。
声が漏れそうになる。
それを必死に胸に押し込めたエマにママは静かに告げた。
「エマ。あなたを私たちに託してくれた」
エマ。
天子姉さんは。
あなたの。
本当の。
全部を聞く前にエマは立ち上がった。そのままダイニングから逃げ出した。
てんちゃんに聞きたかった。
どうして、と。
どうして私を預けたの、と。
いらなかったの?
邪魔だったの?
でもそれならもしもそうなら。
「どうしてずっとずっと、会いにきたの」
てんちゃんの番号をスマホに表示し、エマは歯を食いしばる。
ぽたぽたと涙が零れ落ち、スマホの画面を濡らす。
エマを預け、母とも名乗らずにただ会いに来続けたてんちゃん。
そのてんちゃんが結婚する。
エマを捨てて、結婚する。
許せなかった。許せなくて。でも。
思い出す。二年ほど前、てんちゃんといつものデートの日だった。エマは前日から引いていた風邪のせいでずっと熱っぽさを感じていた。けれどこの日を逃すとてんちゃんはまた遠くへ行ってしまう。それが嫌で枕にめり込みたがる頭を引き剥がし、てんちゃんの元へと走った。
いつも通りの綺麗な笑顔がエマを迎えてくれる、そう思っていた。
だが、その日のてんちゃんは違った。
手を振って駆け寄ろうとしたエマに向かって全速力で走ってきたてんちゃんはエマの肩を乱暴に抱き寄せ、強引に額に手を当てて怒鳴った。
「馬鹿! 熱、あるのに走って! 馬鹿!」
そう怒鳴ったてんちゃんの顔をエマはずっと忘れられない。いつものてんちゃんとは全然違う怖い顔。怖くて、でも。
誰よりもエマだけを見てくれる、顔。
視界がぼやける。エマはごしごしと拳で目を擦って涙を追い払うとスマホを取り上げ、てんちゃんの番号をタップした。
繋がらなければいい。そんな風にも思った。
でも……回線は繋がらなくても、エマの中では確かに繋がってしまっている。
だから。
はい、と軽やかな声で響いたてんちゃんの声に、エマは瞬間息を呑む。
このまま声を出したらてんちゃんに気づかれてしまう。
異変を察知されてしまう。
だから必死に呼吸を整え、エマはいつも通り言った。
「てんちゃん、日曜日、遊びに行かない?」
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