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4.特別
「しかし風が強いねえ」
海に面したベンチに座ったてんちゃんが吹きつける風に閉口した顔を見せながら自身の前髪を押さえる。エマはその様子に肩をすくめてみせた。
「前髪、私のは容赦なく上げるくせに、自分の前髪が上げられるのは嫌なの?」
「それはそうでしょ。エマは前髪上げても可愛いけど私には可愛い要素はないからね」
呆れた顔をしながらてんちゃんは手にしたスタバのカップからカフェオレを呑む。いつもの赤い縁の眼鏡をした整った横顔を眺め、エマはそっと呟く。
「てんちゃんだって可愛いよ」
だがその声はてんちゃんには聞こえなかったようで、え? と怪訝そうな眼差しが返された。
「なに? なんて言った?」
「なんにも」
笑って首を振ってからエマはひょい、とベンチから立ち上がる。
「てんちゃん、あれ、鳴らさない?」
てんちゃんの腕を掴みながら指さすと、指の先を辿ったてんちゃんが笑った。
海を臨む高台、銀色の鐘が吊るされており、傾き始めた日を受けて静かに輝いていた。
「あれって。幸せの鐘?」
「そう! 一緒に鳴らすと幸せになれるってやつ」
「エマ、ああいうのはさ、大事な人と鳴らすものでしょ」
「てんちゃんは私にとって大事な人だから」
言い切るとてんちゃんがふっと息を呑む。そのてんちゃんの腕を掴んでベンチから立ち上がらせながらエマは言った。
「デートって特別な人とするものって言ってたよね。だったらあの鐘も一緒に鳴らしてもよくない?」
「まあ、そうだけどねえ」
まだなにか言おうとするてんちゃんに向かい、エマは告げた。
「てんちゃんはさ、私にとって幸せでいてほしい人なんだよ。どんなときもずっと」
てんちゃんはなにも言わない。黙ってこちらを見下ろすてんちゃんの顔を見ようとしてエマは俯いた。涙が浮かんでしまったために。
零れるな、涙、と自分に必死に言い聞かせたとき、ふいとてんちゃんの手がエマの手を解いた。そのままその手がてんちゃんに取られる。
「鳴らそうか」
言葉と共にぐいと手が引かれる。てんちゃんに引っ張られながらエマはてんちゃんの背中を見つめた。
相変わらず背筋がすっと伸びた細いてんちゃんの背中を。
抑えようとした涙がまた湧き上がってくる。てんちゃんに繋がれていない方の手でひっそりと目を押さえながらエマは思う。
ああ、もう、本当にてんちゃんは罪作りだ。
もっと容赦なく親みたいな顔をしてくれればいいのに。
いつだって私の望む姿を見せてくれようとする。
てんちゃん、それはものすごく、残酷なことなんだよ。
わかっているのかな。
でも、私はそんなてんちゃんが。
「エマ」
呼びかけられ顔を上げたエマが見たのは、真剣な顔をしたてんちゃんだった。
風邪を引いたエマを叱りつけたあのときと同じ顔をしたてんちゃんがそこにいた。
「私の特別は、ずっとエマだよ」
囁く声と共に手が引かれる。鐘に繋がった鈴緒をエマに握らせたてんちゃんはそのエマの手の上から鈴緒を握った。
鳴らすよ、とてんちゃんの目が言う。うん、とエマも目だけで返す。
てんちゃんの手に、ぐい、と力が込められた。
鐘が、鳴った。
遠く、海へ飛び立つように音が羽ばたき、波へと消えていく。
高く、高く、飛び去っていく。
その音の尻尾を耳の奥に収めながらエマは隣に立つてんちゃんに言った。
「てんちゃん、結婚、おめでとう」
てんちゃんはなにも言わなかった。ただその顔がくしゃり、と歪むのをエマは見た。
細いてんちゃんの腕がエマに伸びる。
ぎゅうっと音がしそうなくらい強くエマを抱きしめ、てんちゃんは泣いた。
どんなときも泣かなかったてんちゃんが、泣いていた。
泣きながら、ごめんね、と言うてんちゃんの声が聞こえた。
そのてんちゃんの後ろ頭をエマはそうっと撫でる。
てんちゃんがよくしてくれたように優しく、触れた。
「幸せになって」
声が滲みそうになった。でもどうしてもそう言いたかった。
てんちゃんのことを本当の母として見つめながら、これからも笑っててんちゃんと過ごせるか。
少し考えた。多分……エマには無理だ。
てんちゃんはてんちゃんで……エマにとって特別な人だから。
この人の体温を愛しく思ってしまった自分を消すことはきっとできない。
でも……てんちゃんが望むエマはそんなエマじゃない。きっと。
金木犀の香りがした。
てんちゃんの体から香るその香りをそうっと吸い込みながら、エマはふっと思い出す。
金木犀の花言葉。
謙虚。
気高い人。
そして、初恋。
ああ、本当にてんちゃんにぴったりの言葉ばかりだ。
泣くてんちゃんの頭を撫でながらエマは空を仰ぐ。
最後のデートの日。幸せの鐘の音を吸い込んだ空の色は、どこまでも高く澄んでいた。
遠く、消えたはずの鐘の音が聞こえた気が、した。
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