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「ここにね、私の店があったのよ」
大津麦さんは桜並木の入り口の角を指す。
知っている。いまはおにぎり屋さんになっているその角の小さな店には、昔たい焼き屋さんがあったのだ。イートインスペースもない、屋台みたいなその店で、大津麦さんは五十年近く働いたのだという。
「ここは学校の近くだから、顔馴染みになるくらい通ってくれる子がたくさんいてね。
春は出会いと別れの季節だから、私も嬉しい思いをしたり、悲しい思いをしたり、その繰り返しよ。
春には桜餡のたい焼きを作るの。桜の塩漬けを餡に練りこんでね。そうして……」
大津麦さんははなしをやめて、頭上の桜を見上げる。いまを盛りに咲きほこらんとする桜の花。風が吹くたびに、はらり、またはらりと舞い落ちる。
「印象的だった子はいまも覚えているわ。なかでもよく覚えているのは……名前は忘れちゃったけど、演劇部に入った子ね。
その子、足が悪かったの。片足を引きずるように歩いていてね。
その子には悪くて言えなかったんだけど、演劇部になんて入っても、役なんてもらえないんじゃないかと思ったの。舞台上で脈絡もなく足を引きずっているひとが出てきたらおかしいでしょう?
でもその子は嬉々として演劇部員をやり続けたの。私がここで支度をしていたら、大勢の部員に遅れて、彼女もランニングしていたわ。いつもこっちを向いて、手を振ってくれてね。
ある日、最後の公演でその他の兵士として舞台に上がれるようになったと報告してくれてね。嬉しかった。
その子が報われたなら、それでよかったわ。でも……」
大津麦さんは、突然しくしくと泣き始めた。
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