黒犬とかき氷と

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黒犬とかき氷と

 どうやら犬神の子供は人間の倍の速さで成長するらしい。  春雷の元で暮らし始めてまだ数日しか経っていないにも関わらず、華蓮は日がな一日、胃のむかつきに苦しむようになった。 (つわりがこんなに苦しいなんて……)    日に何度も部屋と厠を往復する華蓮に雪起は心配そうに声を掛け、つわりが酷くても食べられるものを用意してくれるが、食べられないどころか何も食べたくもなかった。華蓮を抱いた春雷という男もあれから姿を見せずにいる。  でもそれで良かった。今は誰の顔を見たくもなかった。  見ず知らずの男に抱かれて孕まされただけではなく、その男――春雷が犬神という得体の知れないあやかしということもあってショックが大きかった。  まさか自分が人間以外の子供を産むことになるとは思わなかった。勿論、彼氏と住んでいた時は、いつか彼氏の子供を産むだろうと心構えをしていた。他の男の子供を産むなんて考えたこともなかった。 (本当に犬神の子供なんて産めるの? 人間の子供さえ産んだことがないのに?)    春雷は子供を産んだら出会った時の状態に身体を戻してくれると言っていた。そもそも無事に子供を産めるのだろうか。  今でも出産時に状態が悪いと母子のどちらか、またはどちらも命を落とすと聞く。犬神の子供を産む時も同じ可能性が考えられる。  出産時の体験談ならいくらでも聞いたことがあるが、犬神の子供を産んだ人の話は聞いたことがない。  もしも華蓮の身体が犬神の子供に耐えられず、命を落とすことになったとしたら?  そうしたら身体を元の状態に戻すどころの話ではない。死んだら元も子もないのだから。  何事も無く、犬神の子供を産める保証が無い以上、出産には不安と恐れしかない。  つわりによる身体の不調に加えて、出産に対する恐怖で胸が押し潰されそうだった。  特に出産の経験が全くない華蓮なら、初めての出産で命を落とすこともあり得なくもない――。 (許されることなら産みたくない。でも雪さんは、自らの意思で子供を堕すと、あの春雷とかいう犬神が元の身体に戻せないって言うし……)  雷花の痣が消えず、妊娠が判明した直後に華蓮は中絶したいと雪起に訴えた。けれども雪起によると自ら堕胎した場合、胎内に犬神の妖気が残ってしまうので出会った時の状態に戻せないとのことであった。  出産するか流産するかのどちらかじゃなければ、華蓮の身体は春雷に抱かれる前の状態に巻き戻せないという。  それなら自らの手で流産させようとも考えたが、自分の都合だけで新しく芽吹こうとする命を奪っていいのか良心の呵責に苛まれたことで、華蓮は何も出来ずにいたのであった。  そうして何も出来ず、ただ部屋に籠もってつわりに苦しんでいたある日の夜。  屋根を打ち付ける夜雨(やう)を聞きながら、気持ち悪さと戦っていた華蓮の部屋の前で犬の鳴き声が聞こえてきたのだった。 「貴方は……」  障子を開けると、目の前にはここに来た日に出会った黒毛の犬が水を滴らせながら座っていた。犬は華蓮が開けた僅かな隙間から部屋に入ると、身体をぶるりと震わせて雫を落としたのだった。 「ちょっと!」  顔にかかった飛沫を袖で拭きながら抗議の声を上げると、心なしか黒毛に覆われた首を竦めたように見えた。華蓮は小さく笑うと、近くにあった手拭いを手に取って犬の身体を拭く。 「この雨の中、ここに来たの?」  華蓮の言葉が理解出来るのか、犬は肯定するように「ワン!」と吠えたので、華蓮は再び笑みを浮かべる。手足を拭いていると、犬は気遣うように華蓮の腹部に身を寄せたのだった。 「貴方も分かるの? ここに赤ちゃんがいるのよ。……って、貴方があの時、逃げる私を引き留めなければ、今頃こうはならなかったのに」  華蓮が恨み言を口にすれば、犬は手で頭を守るように身を低くして小さく鳴いた。やはり華蓮の言葉が分かるらしい。  怒ってないと伝えるように、華蓮は犬を抱きしめたのだった。   「嘘よ。貴方に八つ当たりしたって意味が無いもの。きっとこうなる運命だったのよ」  両親が早くに亡くなったので分からなかったが、もし春雷たちの言うように華蓮が「犬神使い」だったのなら、人間ではなく犬神に攫われて望まぬ相手との交わりを余儀なくされていたのかもしれない。犬神の子を宿すまで何度でも――。それならこうして華蓮が望んだ時にそっとしてくれる春雷たちの方がまだ良い方だろう。  犬は華蓮から離れると、部屋の隅に置かれた書き物机に向かう。書き物机の前に行儀良く座った犬はそこに置かれた手付かずとなっている夕餉に視線を向けたのだった。 「私の夕飯よ。でも食べられないの。ずっと気持ち悪くて、少し食べただけで吐いちゃって……。良かったら食べてみる?」  何も食べない華蓮を心配して、今夜の雪起は五分粥を用意してくれた。犬に悪い具材や調味料は入っていないと思われるので勧めてみると、犬は夕餉が載った盆に鼻を近づける。そのまま見ていると、犬は粥が入った器の下から折り畳まれた文を咥えると床に放ったのだった。
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