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捨てられない気苦労
「樫木先生、大丈夫ですかね」
こんな話を新人相手にするわけにもいかず、作業の手は止めないまま、志津はデスクにいた新山へ話しかけてみた。
「千聖ちゃん?」
顧問をしている企業の帳簿から顔を上げて聞き返される。志津は樫木を見ながら頷いた。
「はい。今日だけで十度目の溜め息です。まだ午前なのに」
「あー、悪い男に捕まったからかな」
「ご自分でおっしゃるんですか」
志津の知る新山という元後輩の現上司は、自分を低評価することのない人間だ。それだけに不思議だった。
「うん? え、俺のことだと思ってるの?」
「違うんですか」
「三島くん、おもしろいね。俺はまだまだ、善良なうちだよ」
目を丸くされても、目の前の歳下上司は「善良」からはほど遠い。志津は数年前、樫木に相談された夜を思い出した。
「三島さん、どう思います?」
「どうって、何がですか?」
「新山です。長年一緒なら、あいつの遊び癖も知ってますよね」
「そのことですか」
普段は物腰やわらかで、法廷では厳しい新山の実の性格は奔放だ。性に関しても、奔放が過ぎる。志津は顎に細長い指を当てた。口元のほくろが七三分けの堅物な印象を裏切る色気をのぞかせる。
「正直、心配しています。いつか訴訟にでもならないかと」
弁護士が訴訟されるなんて不名誉な事件にならないかと心配している。同時に、前の職場からずっと保護者のような気分で見守ってきた新山の行く末を案じてもいた。
「ですよね」
それはこの、新山がジムで拾ったという元同級生の弁護士も同じ気持ちらしかった。顔立ちはかわいらしい部類のはずなのに、クライアントの前から離れると渋面になる様子が普段の苦労を物語っている。
「あまり度が過ぎるようなら、止めようかと」
「三島さんも止めてくれるんですか。じゃあ、ひとまずは安心ですね」
「どうしてですか?」
ガタイは良すぎて少し怖いくらいだが、心根は優しい。この実直な青年が止めてもさして変わらないだろうに。元同級生ならなおさら。
「……だってあいつ、俺が何言ったって聞かないじゃないですか」
「……なるほど」
確かに新山は自分本位で、樫木がいくら好青年だろうが元同級生だろうが、その気になれば聞く耳をもたない。……それはおそらく、志津に対しても。
結局、志津が止める前に新山は落ち着いた。新しい恋人の尻に敷かれている、とは樫木の談だ。それは頼もしい、と志津は思った。できれば一生おとなしくさせておいてほしいものだ。
そんな話をしたのはつい先日のはずなのに、今度は樫木が頭を抱えている。心配事がひとつ減ったと思えば、次はこっちか。ワックスを使うのをやめようかと思う程度には心労が絶えない。まだ三十半ばなのにハゲそうだ。
「本物の悪いやつはね、いい人の顔してるんだよ」
事情を知っているらしい新山は楽しそうに笑う。悪い顔だった。
「つまり新山先生は悪人面のご自覚がある、と」
「三島くん、相当いい性格してるよね」
善人面だと言い張れば悪人になり、善人だと言い張れば悪人面になる。新山もよくやるレベルの言葉遊びだ。
「お褒めにあずかり光栄ですが、新山先生には及びません」
自分など、全然。その及ばなさが普段は嬉しく、たまにうらやましい。
「三島くんとは、そのうち腹を割って話したいな」
どこか聞き覚えのあるフレーズで返される。
「私は、新山先生を楽しませられる話などは」
自分には、ない――とは、言い切れない。
そんな志津の心を見透かしているかのように、新山は意味深に微笑んだ。
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