捨てられない気苦労

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 志津は盛大に溜め息をついた。夏場のスーツの蒸れは嫌いだ。いくら改良されたところで、スーツという衣装自体に欠点があるとしか思えない。形状記憶のウォッシャブルジャケットを洗濯機へ放り込む。色移りしないとの触れ込みだが、念のためシャツだけは別洗いにした。ネクタイは吊るそうか考えて、こちらも洗うことにする。今はとにかくシャワーを浴びたい。夜に飛び回る蚊の次の次くらいにうっとうしい汗を流したい。  なのに、なぜ。自宅の風呂場が占領されているのか。  漏れ聞こえるのは水音をかき消すほどの甘い声。肌を打つ音。慣れたくはなかったが、慣れてしまった。自宅にまで気をつかうわけもなく、志津は扉を開く。 「健一、もう十六回言いましたよね。浮気相手を風呂場に入れないでくださいと」  言った回数は、もちろんされた回数だ。 「あれ? そうだっけ?」  ブリーチのしすぎでパサパサになった金髪とカラフルなリングピアスが並ぶ耳が特徴的な恋人とは、もう高校時代からの付き合いになる。友人としてではなく、恋愛交際の意味で。しかしここまで何度も浮気されていては、未だにこちらへ恋愛感情が残っているのか疑問だ。蚊の次くらいにうっとうしい。 「ちょっと、早く抜いてって。志津、おかえり」  あっさりとお役御免を言い渡された竿役を不憫に思うことなく、一方で、にっこり笑顔の泡だらけで抱きついてくる恋人を避けもしない。今の志津の優先順位第一位はシャワーだ。見知らぬ男の横で抱きついてきた健一ごとシャワーを浴びれば、少なくとも汗の不愉快さは消え去った。  お楽しみを不可解な現象で邪魔されただろう本日の被害者は、他と同じように視線をさまよわせて所在なげに立っている。恋人の浮気相手すら気づかうのもどうかとは思うが、建前として、ただひと言。 「泡くらい、流したらどうですか」  さすがにそのまま服を着ろとは言えない。一秒でも早く視界から消えてほしいが、驚きのあまり硬直しているらしい男よりも志津が出て行った方が早いのは明確だ。健一の腕を振り払ってシャワーを終えた。  伸び切ったジャージに着替えて冷蔵庫から缶ビールを取り出す。そのまま一気飲み。ギャップが激しいと言われる由縁でもある。ワックスを落とした髪が目にかかった。卓上のタバコへ手を伸ばす。マールボロ・アイス・ブラストの強いメンソールが火照った体に心地よかった。 「志津」  追いかけてきた健一が胸に頬をすり寄せて見上げてくる。その顔に煙を吐き出す。健一は咳き込みながら離れていった。 「暑いです。あと、浮気相手を家に上げるなとは、もう三十四回言いましたが」  今日が三十五回目。二度あることは三度あるとは言うが、健一は家に上げベッドに上げ風呂に入りとエスカレートさせていく。ただのリピートではない。それだけにうっとうしかった。せめて自分の家でやってくれればここまでの不快感はないだろうに。 「志津、怒ってる?」 「怒ってはいません」  呆れているだけだ。だがその呆れは、ド天然らしいこの男には伝わらない。 「よかった」  やっぱり嬉しそうに抱きついてくる健一のうしろを男が通り過ぎていった。 (あの状況で勃て続けなかった神経のまともさだけは、褒めてもいいか)  そこまで考えて、浮気され慣れた自分を嘲笑う。 (新山くんも、笑うんだろうな)  散々浮気しておきながら志津第一らしい恋人の頭へ無意識に手を置きながら、彼なら浮気する恋人の不可解な心情を理解できるのだろうかと考えてみた。相談できるのだろうか、と。  どうせネタにされるだけな気がして、やめた。
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