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婆ちゃんが死んだ。
つい最近まであんなに元気にしてたのに。
こないだの連休に会った時は、
「今度、近所の小学校で子供らに『昔の遊び』を教えて欲しいって言われちゃってねえ。今どきの子にお手玉やらコマ回しやら言っても面白くないでしょうに。婆ちゃんも毎日忙しいから断りたかったのに、年寄りには近所付き合いってもんがあって……」
とか何とかエンドレスで文句を言いながらも嬉しそうにしていたのに。
今年の猛暑が発端かは分からないが、珍しく夏風邪をひいたと思っていたらみるみるうちに悪化して、ブレーキのない車が坂道を滑り落ちるよりもあっけなくこの世を去ってしまった。
葬儀が終わる頃、長い間一人暮らしだった婆ちゃんの家をどうするかが問題になった。
めちゃくちゃ田舎ってわけでもないけど、最寄り駅からだいぶ距離もあるし築年数もかなり経ってる。「売るにも一回潰さなきゃ」とか、「土地だけにしたって売れるかどうか」みたいな事を父さん達大人が渋い顔して言うもんだから、俺はつい、
「俺が住むから潰さないでよ」
……なんて割り込んでしまった。
なんでそんな事を言ったのか俺自身もわからない。大学に行くのに便利になる訳でもないし、一人暮らしに憧れはあったのは事実だけどいきなり一軒家に住むつもりはなかったし……
けど、やっぱり婆ちゃんが居ない事実をどうにかして納得したかったのかもしれない。
そんな訳で、ここは今日から俺の家になる。
婆ちゃんが住んでいた時に何度も来たことがあるはずなのに、ついこの間まで婆ちゃんの家だった『自宅』は新しい主人である俺に対して少しよそよそしい感じがした。
鍵をポケットから取り出して、古びた鍵穴に挿す。扉を大きく開く。玄関はしんと冷えていた。
俺はひとつ息を吸って、努めて明るい声を出した。
「ただいま」
おかえり、なんて声が聞こえるはずもなく、俺の声は廊下の奥の暗がりに吸い込まれて行った。
必要な物はだいたい郵送にしてしまったので引越しと言うほどの荷物はまだない。
とりあえず順番に部屋を見て回る事にした。
絨毯敷きのリビング、使い込まれた水回り、キッチンの戸棚の中は婆ちゃんが住んでいた頃のままだ。
「……ん?」
戸棚を開けたら、手前に見慣れないものがあった。
「これは……猫缶?」
パッケージに「猫用」とデカデカと書かれた缶詰は猫の食べ物で間違いない。
だけど、この家でペットは飼っていなかったはずだ。
俺の脳裏に、いつか情報番組なんかで見た「野良猫に餌をやる迷惑住人」の映像がよぎったが、まさかあの現実主義な婆ちゃんに限ってそんなことはない……はずだけど。
首を捻りながら家の裏に回る。
この家の裏には、ささやかながら車一台ぶんくらいの広さの庭がある。
婆ちゃんよりだいぶ先に三途の川を渡った爺ちゃんは庭仕事を定年後の趣味に据えていて、張り切って手入れしていた頃はなかなか壮観な景色だったが、婆ちゃんは「花でお腹は膨れません」と興味のかけらも持たなかったため、現状は雑草の楽園となっている。
ここもいずれ手入れしなきゃなあ、と考えていると、垣根の向こうに小さな人影が見えた。
おおい茂った草の隙間からこちらを窺っているようだ。
「誰かいるのか?」
「わっ!」
人影が、驚いて飛び退いたのがわかった。まだ甲高い子供の声だ。
「あっ悪い。驚かしたいわけじゃなかった」
「……ここに住んでるお婆ちゃんは?」
垣根の隙間から、少年の顔が覗いた。
「婆ちゃんは……夏に亡くなったよ。」自分でそう言って、胸の奥がズキンと痛んだ。
そう、婆ちゃんはもう居ない。
「えっ……」少年も、驚いた様子で声を漏らし、
「そうなんだ、どうしよう」と視線を漂わせた。
「何か用だったのか?」
「僕ね、お婆ちゃん家の猫がおばあちゃんになったよ! って言いに来たの」
「は?」
婆ちゃんの猫が……なんだって?
「お婆ちゃんね、昔ここのお庭で猫を助けたでしょう?」
少年はさも共通認識かのように話し始めたが、完全に初耳だ。
「そうなのか……?」
「そうなんだよ。とっても寒い日にね、野良だった猫がボロボロだったのをお婆ちゃんが助けたんだよ。そしたらね、その猫はお腹に子供が居たの」
少年はどんどん饒舌になっていくが、俺の知っている婆ちゃんのイメージと全く噛み合わないので混乱した。
婆ちゃんが野良猫を助けた?
あの「毎日忙しいったらありゃしない。体がもう一つ欲しいわ」とぼやいていた猪突猛進の婆ちゃんが。
俺の知らない一面だった。
少年は、喋っているうちに興奮してきたのか声をボリュームアップさせて話し続ける。
「それでね、それでねっ、その子供に今日赤ちゃんが産まれたの!」
いまいち要領を得ないが、つまり、婆ちゃんの助けた野良猫が子猫を産み、その猫は少年の家で今日母猫になったということらしいと俺は理解した。
それで「お婆ちゃんの猫がおばあちゃんになった!」となるわけか。
という事は、あの猫缶はきっとその野良猫用に準備したものだったのだろう。
「そうだ、この家にまだ猫の餌があるんだけど。君、持って行く?」
「いいの?!」
「いいよ、持って行きな」
キッチンに積んであった猫缶を持ってきて、垣根を越すようににぽーんと投げて渡した。
少年は器用に全部キャッチして、嬉しそうに缶詰を握りしめる。
「お婆ちゃん、いつもとっても優しかったんだ。だから嬉しかったんだよ」
少年が唐突に語り出したが、なんだかその声は水中で聞く音のように揺らいで聞こえた。
「ん? ……そうか」
「特にあの日は寒かったから、人に優しくしてもらうとこんなに嬉しい気持ちになるんだ! って思って」
少年の声が、薄い霧に包まれるようにぼんやりとしてくる。よく聞き取れない部分がある。
「だから自分ももっと周りに優しくあろうって思って」
「……だけど、ありがとうって伝える前にお別れになっちゃった」
少年の姿はいつの間にか垣根の向こうで影だけになっていた。
「……だから、あなたは後悔しない生き方をしてね」
そうして、小さな影は去っていった。
「……なんだったんだ、今の?」
俺は正気に返って、辺りを見回す。
どこか遠くで、ニャア、と猫の鳴く声が聞こえた気がした。
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