第二話

1/1

1人が本棚に入れています
本棚に追加
/7ページ

第二話

 『慌ててる でもその顔も 凛々しいの』  お気に入りのお弁当を食べて、さあこれから後半戦と意気込んだ当直の日の夕方。  「売られた母親を返せという小学生に絡まれていると通報あり、駅前交番向かえ」――そんなよく分からない一一〇番を受けて私が一人向かったのは、街道沿いにあるリサイクルショップだった。  四月ももう終わりかけた少し蒸し暑い中、制服でアスファルトの上を自転車で疾走して到着した私を出迎えたのは、レジの前にいる困り顔をしたイケメン――もとい、今日もダークスーツでパリッと決めた牛嶋係長の弱ったご尊顔だった。  その彼が、黄色いランドセルがまだ大きい小学生低学年の男の子に絡まれて弱っている。きっと刑事なのがバレてあれこれ聞かれているとかそのへんだろうな。  ずっと見ていたかったけれど、これも仕事。でも少しニヤけた顔をしながら、まずは現着の無線を打ち返して声をかけた。 「香取です。牛嶋係長、お疲れ様です。ボク、どうしたのかな?」 「あ、おまわりさん! こっちのケイジさんがこのひとをタイホしてくれないんだよ!」  男の子が店長さんらしいお兄さんのエプロンを引っ張っている。彼も弱っているらしく苦笑いしながら私に助けを求めてきた。  牛嶋係長がほっとため息をつく。 「香取さん、すいません。通報の直後に別件で私が来たらこうなりまして……この子の親御さんを探していただけないかと……」 「だからボクのママがこのおみせにうられちゃったんだよ! それってジンシンバイバイっていうんでしょ!?」  どういうこと? 「え? ママがリサイクルショップに? 売られた?」 「そうだよ! だからこれでかいなおすんだ!」  男の子は百円玉をレジ前に置いてうんうん頷いている。 「えっと、その……牛嶋係長、経緯を教えてもらえませんか?」 「いえ、もうそのままです。私が別件で品触書を持ってきたら、この子が店長さんにこの調子で絡んでいて……」  よし、何も分かっていないことについて了解。  私はしゃがみ込んで怒っているその男の子の両肩をぽんぽんと叩きながら、努めてにこやかに話しかけた。 「ねえ、ボク。ママが売られちゃったってどういうことかな? お店にはいないみたい。誰が売ったの? パパ?」 「ママはガッコウにいるよ! でもパパがママをうっちゃったんだ! だからママがうられたの!」  ママが学校にいる? 見たところ小学生なりたての新一年生に見える。このあたりだと第七小学校のはず。  何度か交通安全教室で行ったことがあるから、子供の顔も何人かは見覚えが――、 「あっ。ボク、山崎くんじゃない? ママは第七小学校の先生さんだよね? 隣の幼稚園にお迎え行くときに見た気がするの」 「ボクとママのことしってるの? じゃあママをとりかえしてよ! ケイジさんもおみせのひともそんなのないっていうんだ!」  これじゃもう埒が明かない。あとちょっとで泣き出しそうだし。スマホで第七小学校に連絡を入れて山崎くんのママを呼ぶと、ママも息子さんを探していたらしくすぐにお店へと来てくれた。  山崎くんのおばあちゃんと思われる初老の女性が運転する車でやってきたのは、やっぱり見覚えのある三十代半ばの女性だった。  何で覚えていたかというと、学校の先生らしく身なりは整っているものの――着けているブラウスやスカートが安物で、かなり着古している印象だったから。  学校の先生ってお給料安いって言うしね。警察官と一緒。心の中でお疲れ様ですと語りかけてしまった。  そして改めて事情を説明する。 「健太がお手数をおかけして大変申し訳ありませんでした。もちろん私はここにいますし、夫は今日もどこかの現場で働いています。こちらで本を売ったのを何かと勘違いしているようで……」  山崎健太くんはママの後ろに隠れて足にしがみついたっきり、店長さんや牛嶋係長を交互に見ては不審そうな表情を浮かべている。 「ということは、旦那さんが売られた本の中に山崎先生のが混じっていたとかですか?」 「いえ。そもそも夫は本を読みませんし、文章すら書けませんから。私が頼んで売ってもらったのです」 「そうだよ! パパはバカだもん!」 「こら! そんなこと言わないの!」 「だってほんとうのことでしょ! それにママもパパもほんよまないもん! でもだいじっていってた! ばぁばがいってたでしょ!」  今にも泣きそうな顔で抗議する健太くんの顔を見て、山崎先生が難しい顔をしながらその頭を優しく撫でた。 「その……私も本を持っているのですがもうあまり読まなくなりましたし、どうせ不要なので売ってしまおうと夫に頼んだんです。でも健太は私の母からは本は大事だよと言い聞かされていましたし、私も教師の手前、読書は大切だよと常々言っていたので、それで混乱させてしまったようで……」 「ほんはママじしんっていってたじゃん!」 「だからね……」  山崎先生が健太くんに懇々と説明した。  本や読書は勉強だけではなくその人自身を作るものと言ったのは間違いじゃない。だからママもたくさん読んで勉強して小学校の先生になったけれど、もう本から得た知識や教養はしっかり頭の中にあるから大丈夫。だから少しでもお金に変えようと思って売っただけなの。  ゆっくりと丁寧に、諭すのではなく気持ちを伝えるように話すその口調がとても優しい。  おかげで健太くんもようやく納得してくれたのか頷いていた。 「おかねだいじだもんね……」  絞り出すような健太くんの言葉でだいたい理解した。  先生の身なりと大切にしていた本を売った経緯から、山崎先生のご家庭は経済状況が本当に厳しいらしい。切羽詰まるレベルなんだと思う。 「お店の方々には本当にご迷惑をおかけし申し訳ございませんでした」  深く頭を下げる山崎先生に、店長さんは大丈夫ですよと返してくれた。これで一件落着かな。 「自分も警察官でして……牛嶋と申します。刑事課で係長をしている者です」牛嶋係長がほっとため息をつきながら名刺を差し出した。「健太くんが理解してくれたようで本当に良かったです」 「あ、刑事さんだったんですね。もしや物を壊したとか……?」 「いえいえ。たまたま居合わせただけです。独身なものでお子さんの扱いも分からず、あたふたしてしまい……こちらに絵本を借りて読んで落ち着かせようとしたんですが、絵本すら読んで聞かせられないような始末で。そのせいで余計健太くんを困らせてしまったかもしれません」  レジに置いてある絵本を指さして苦笑いした。店長さんも同じだったのか頷く。  私はこの流れをクロージングだと捉えた。 「牛嶋係長。このいもむしの絵本は乳幼児向けですよ。健太くんには幼すぎるかと」  彼が目を細めて頭をかく。 「え? ああ、そうだったんですね。そんなことも知らず……そもそも漢字がないし、文章もどこで区切っていいやら」  山崎先生が微笑む。 「絵本って読んだことがない人には難しいですよね。読みづらいというか」 「扱うのはお役所構文の公文書ばかりなもので、簡単な文章ほど頭に入らなくなる副作用が出ていまして……空目してしまうんです」 「でも文章は簡単にしないといけないんですよね。最も簡単な文章が最も面白いものですから」  なるほど。絵本とか単純な文章だけど妙に記憶に残るのはそういう理由だったのか。さすが先生。 「なるほど。全く読めずお恥ずかしい限りです。健太くん、ママもパパもいるから大丈夫。また困ったことがあったら、今度はお店じゃなくて交番においでね」  しゃがみ込んで健太くんと視線を合わせながらにっこり笑う牛嶋係長。だけど当の健太くんはむすっとした顔でママの足にしがみついたままだった。 「その時は私も呼んでね。駅間交番の香取菜花って言うの。なのはなでも通じるからね」  私も同じようにすると、健太くんがちょこっとだけ反応した。 「なのはな? 変な名前。今日の給食のマズいやつみたい」 「こら、健太。失礼でしょ?」 「だってマズかったんだもん。だから残して――あっ」  山崎先生の目がキラリと光る。 「また残したの? まさか机の中に入れてないでしょうね? 前はみそピーを残して業間に食べてたそうだし。もう、恥ずかしいんだから……帰るわよ!」 「ま、まだママをとりもどして……」 「皆さん、本当にご迷惑をおかけしました。店長さん、お店のお仕事を邪魔して申し訳ありません。健太にはよく言い聞かせておきます。また日を改めて謝罪しに参りますので、今日のところはこれで失礼させていただきます」  いえいえ、いいんですよ。驚いただけですから。そう言ってくれた店長さんに向けて、健太くんの頭を押しながら山崎先生も深く頭を下げる。  そして何度もお辞儀をしながら二人がおばあちゃんの車に乗って帰っていった。  特に警察の出る幕もないため店長さんにはご配慮ありがとうございますとお礼を述べて、私と牛嶋係長はひとまずベースの行徳駅前交番に戻った。  休憩でもどうですかと勧めたら乗ってくれたので、カウンター裏にある待機室にお招きする。  だけど佐々野所長は本署で業務中、美緒先輩は別件対応中で二人きりになってしまった。 「そ、そういえば……山崎先生の言っていた業間って何ですか? みそピーが給食で出るんですね」  イケメンと一緒の空気に耐え兼ねてそんなことを聞いてしまった。 「え? ああ……そうか。香取さんは小学校が東京だったんですよね? 千葉だと二、三時限目の間にある少し長い休み時間を業間と呼ぶんですよ。給食にみそピーは出ていましたね。ご飯のおかずでした。私の時代だとクジラのベーコンみたいなものも。あれはしょっぱかったなあ。出席番号が生年月日順なのも千葉特有でしょうね」  みそピーっておやつじゃなくておかずだったんだ。クジラのベーコンって何? 生年月日の順番だと背の高い子から小さい子に並んでいくよね。ちょっと面白い。  東京だと給食はセンターが作ったものだったし、クラスも名前順だった。  少し緊張も和らいだし、せっかくだからご尊顔を堪能しようとお茶を淹れて持ってきたら――牛嶋係長が私に頭を下げた。 「お礼が遅くなりました。香取さん、来てもらってありがとうございます。助かりました。その……昔から子供の扱いが本当に下手くそで」 「いえ、そんな。頭を上げてください。……あまり地域課のお仕事はされてこなかったんですか?」 「卒配は君津南署で、皆さんと同じように最初は交番勤務でしたが、すぐに刑事課に異動になって、本部では捜査一課で盗犯ばかり扱っていました。戻ってきてからもこうして盗犯係なので、子供と女性関係が特に苦手で……」  照れ笑いするイケメンもまたいい。専門分野以外は全くダメみたいなギャップ萌えもまたポイント高し。 「いや、お恥ずかしい……あっ」  照れ隠しにお茶を飲もうとしてその手が机の上の鞄に当たり、倒れた拍子に中から何かがバサバサと飛び出てきた。  床に広がって落ちる紙たち。それはパンフレットで、ちらっと見えた物はほとんど千葉県のテーマパークや観光地のものばかりだった。  慌てて拾う牛嶋係長を手伝いながら、ついつい中身を見てしまう。  君津ロマンの森共和国というのは自然満喫系テーマパークらしい。清和県民の森はキャンプ場で、富津海岸の潮干狩りにマザー牧場というものも見える。ほとんどがアウトドアな施設みたいだった。 「ご出身も君津なんですか? どの辺だったっけ……」 「チーバくんで言うと腰のあたりですね。富津は太ももの前側あたりです」またチーバくんだ。千葉県民にとってチーバくんの体を使った案内はデフォルトらしい。「出身は君津でもう長いこと帰っていないのですが、それでも地元企業に就職した同級生たちから色々とパンフレットやサービス券が送られてくるのですよ。ありがたいことですが……あ、そうだ」  思い出したように牛嶋係長が鞄から取り出した何かを私に差し出した。脊髄反射で受け取ると、それはチケットだった。 「これ、マザー牧場のチケットなんですよ。急遽行けなくなった友人からもらったのですが、一緒に行く当てもなくて……良かったらどうでしょうか?」  えっ? 私は思わず牛嶋係長を凝視してしまった。  イケメンに誘われている? 顔もスタイルも良くて公務員で役職者なのに彼女がいないの? というか私に興味があるの? この私に!?  パニックでチケットを持った手が固まってしまった。モヤっとしたものも胸の中に渦巻き始める。これどういう気持ち? なんて感情?  答えに迷った次の瞬間だった。 「あ、菜花。牛嶋係長も。無事収集ついたようで良かったです。あたしも例のおばあちゃんの対応が終わったので戻ってきました」  それは救いの女神、美緒先輩だった。  お疲れ様ですと言う前に、まるで瞬間ワープみたいな勢いで私と牛嶋係長の間に割り込んできた美緒先輩が、私の手にあるチケットをまじまじと見つめた。 「あっ、これってマザー牧場のヤツじゃないですか。もしかして恵まれない私たちへのプレゼントですか!?」  え? どうしてそうなるの? 牛嶋係長も戸惑っているじゃないですか。 「そ、それは……」  でも私も誘われたとは言えない。すると牛嶋係長が、 「よ……良かったらお二人でどうぞ……?」  と、頷いてしまった。 「ありがとうございますぅー! あのあたり景色が良くて最高だよねって言ってたんですよぉ! じゃあ、菜花と一緒にパトロール行ってきまーす!」  チケットをもぎ取った美緒先輩に無理やり交番の外へ連れていかれた。  ふと振り返ると牛嶋係長が苦笑いしながら小さく手を振っている。 「いやー、タナボタね。まさかペアチケットもらえるなんて。さすが係長。あ、これからあたし署に行かないとだから。いつ行くか明日相談しよー!」  そう言ってチケットを制服のポケットに入れた美緒先輩は、自転車に乗って颯爽と街へ消えていってしまった。  つむじ風? ううん。あれは後輩の色恋の芽を摘んだカマイタチだ、きっと。  どうしようもなくなった私はそのままパトロールに出たけれど、頭の中はモヤモヤでいっぱいだった。  でもまあ、はっきりとデートに誘われた感じでもなかったし。良かったらどうでしょう、なんてどうとでもとれるしね。私が自意識過剰だったのかな。  どっちにしろ、美緒先輩と二人きりのお出かけはしたくないなあ。気遣い過多で死亡確定だし。でもマザー牧場ならそこまで精神すり減らさなくてもいいのかな。動物とのふれあいに乗馬、味覚狩りもできるし、観覧車にだって乗れちゃう。  観覧車? そんなのあったっけ? 行ったことないはずだけど。  ともかくトロフィー派の美緒先輩と一緒に行ったら「ハイ見た! ハイ触った! ハイ乗った!」で一時間もかからずに終わっちゃう心配はある。余韻なんてなし。フードファイターが食べるご飯と一緒。トリップファイター美緒。女子プロレスラーにいそう。  まあいいや、のんびり仕事しよう。美緒先輩と入れ違いで戻ってきた佐々野所長と一緒にパトロールや立ち番をしていると、あっという間に時間が過ぎていった。  のんびりマイペースおじさんの佐々野所長と一緒だと事案が少ないジンクスは本当だったことを実感する。そして戻ってきた美緒先輩と一緒に当直の夜を過ごした。  あれ以来チケットの件は話題にも上らない。モヤったまま特に大きな問題もなく朝を迎えて業務終了となった。  署に戻って装備を置いて着替え、寮の部屋にたどり着く。  まだお昼前だ。ここ最近はなかった早上がりに、少し眠たくてベッドに横たわった私の中の誰かがむくっと起きだしてきて一言呟いた。 「……旅がしたい」  まるで操られるように体を起こすと、疲れた胃にちょうどいいサンドイッチを食べながらテーブルの上にロードマップを広げた。  地図を見つめる。ううん、見ていない。だけど眺めている。でも見えているのはその向こうにある自然いっぱいの景色だった。  牛嶋係長の落としたパンフレット。君津ロマンの森共和国も良さそうだったし、清和県民の森でソロキャンプもいい。まだ時期は早いかもだけど富津海岸での潮干狩りなんて楽しそう。  でも私が釘付けになったのは――「いすみ鉄道」なるローカル鉄道のものだった。  まっ黄色な菜の花の絨毯をバックに一両編成の黄色い電車が走るその絵が、もう何もかも可愛かった。見たいスポットワードも二つほど目にしたのを思い出す。  そして明日は……非番だ!  私の中のトリップボルテージがボレロを踊りボルケーノした。 「私は……旅行に……行く!」  この前の佐倉市日帰り妄想旅行は実現できないまま桜が散ってしまい、気が付けばもうすぐゴールデンウィークという時期に突入してしまった。  そして今は私の季節。そう。菜の花が咲くの。  私の名を冠した花が咲き乱れる中をちんまりした一両編成の電車に揺られながら、自然いっぱいの風に吹かれて身も心も癒されたい。 「今度は絶対に行く!」  次こそ成功させないといけない。あれから約半月の間に私の心と体の疲れはピークに達した。私の中のパンドラの箱から絶望が飛び出さないよう、可及的速やかに癒やされないといけない。  じゃあどんな旅行にする? 体は疲れているから楽な旅? ぼんやり乗っているだけの旅? それいい!  よし、テーマは決まった。後は行動あるのみ。  私はこそっと部屋を出るとコンビニに行ってロードマップの必要な部分をコピーして戻ってくる。  途中で誰にも会わなかった幸運に感謝しながら、テーブルにセロハンテープでつなげた地図を広げると、その上にスマホと付箋、ボールペンを置き──目を瞑った。  そして深呼吸する。すうっと息を吸い込み、深く吐く。丹田に気持ちを集中させながら、二度、三度。  そして私は呪文を唱えた。 「……トリップ!」  そして私は私の部屋に降りたった。  ふふふ。もう生まれたままの姿で慌てるような失敗は犯さない。  そして今回はワンピースにカーディガン姿で、小さめのリュックにスニーカーという出で立ち。またバレるんじゃない? 学習してなくない? そんなツッコミが聞こえてきそうだけど、もう大丈夫。  あれからずっと、私はこんなスタイルでコンビニや飲み会へ出かけるようにしたから、美緒先輩もこれが二十歳を迎えた新生菜花スタイルだと認識しているはず。  リュックに最低限の物を詰め込んで出発。ドキドキ。  恐る恐るドアを開けると──美緒先輩とはち合わせなかった! クリアー!  だってまだ朝の五時だもんね。寝ているラスボスを起こさずやり過ごした私は、意気揚々とゲームクリア後のご褒美たる妄想旅行へと出発した。  前回が佐倉城址公園のあたりを回るコンパクト旅行なら、今回は移動に次ぐ移動の移動旅行。  もちろん観光はするけれど、電車やバス、タクシーに徒歩で観光地までの道のりを楽しみ、車中でのひとときに心癒され、何でもない路傍の景色からドラマを作る。  そんな旅にするの。プロセス派ならではの楽しみ方。  よし、行こう。いつも通り寮を出るとそこは早朝でまだ薄暗い暁の中、これが彼は誰時とアヤカシの眷族にでもなったような気分で誰もいない街を歩いて駅へと向かう。  行徳駅から東京メトロ東西線の上りホームで中野行きに乗る。かつて朝七時ともなればすし詰めになる乗車率日本一のこの電車も、始発同然の車両は乗客もまばらで、きっと私は逃避行のヒロインみたいな気持ちになるはず。  警察の業務で助けた彼が実は名家の御曹司で、何度か聴取で顔を合わせているうちに恋仲になった私たちは、身分の格差から結婚をご両親に反対されて今日、この日、この時間に駆け落ちするの。  取り急ぎ借りたアパートへ着の身着のまま向かう。これからどんな毎日が始まるの? でも彼と念願の同棲生活。不安と期待がない交ぜになりながらも希望しかない明日を思い描く、みたいな。  おっといけないい。そんな妄想に浸っていたらもう地下に入っていた。そしていつの間にか大手町駅に着く。  徒歩で東京駅に入り、次に向かったのは京葉線だった。そしてホームに停まっている青と白地に黄色いアクセントカラーが特徴的な特急わかしお号へと乗り込む。  新幹線も一回しか乗ったことがないし、普段は自転車かパトカー移動の私にとって特急は憧れの電車だった。  早朝だし平日だから人は少ないはず。乗客のまばらな車内で窓際に腰を下ろした私は、少しシートを倒してこれから始まる旅に胸躍らせる。  京葉線から蘇我駅で外房線に繋がる路線。  東京駅での乗り場は地下らしい。だから最初は真っ暗で味気のない車窓が、地上へ出た瞬間に太陽の光を浴びて煌めく東京湾を見ながらの旅に早変わりする。  もうそのタイミングで、私の楽しいゲージはかなり上がっているはず。  遠くに見える葛西臨海公園の観覧車やディズニーランドのシンデレラ城を眺めながら、そこで過ごしている人たちに想いを馳せていると、おなかがぐうっと鳴るの。  でも大丈夫。こんなこともあろうかと、私は東京駅で買った駅弁を開いて食べ始める。何を買うかなんて決めてない。  『おでかけの ごはんは二度と 会えないの』──その時のフィーリング、一期一会。自分の欲望に忠実に従ったお弁当を手にする。  そうして味覚を満喫した私は、景色を見ながらウトウト。朝早かったしね。でも移動中のうたた寝ですら楽しい。  仕事のことなんて考えず、電車に揺られて身を任せる旅。 「失礼します、お客様」 「はっ」  声をかけられて起きると、目の前には制服姿のイケメンから微笑みかけられていた。 「確か切符は大原までだったかと思います。もうそろそろ到着しますので、ご準備いただけますでしょうか」  えっ、そうなの? 車窓を見ると、眠りに落ちた浦安あたりとは違う緑に溢れた景色が広がっていた。  でも私の目を奪っているのは乗務員さん。黒い制服に白いネームプレート、そして黒の制帽。  警察官みたいだけど私たちみたいな威圧感はなくて、全体的に漂う柔和な雰囲気と白い手袋に私は目も覚めたし心のときめきもおっきした。 「あ、ありがとうございます……!」 「観光でしょうか。ごゆっくりしていってください」  そんな言葉を笑顔に乗せて言ってくれるの。一きゅん。  照れつつしどろもどろで返事しながら、大原駅に到着してホームに降りる。  去っていくわかしおと車掌さんに胸の中でさよならを告げつつ、駅を一望した。  ホームをまたぐ跨線橋のある簡素な構造の駅。これがまた旅行に来た感覚を味わわせてくれる。自然たっぷりの空気を吸いつつ改札をくぐると、すぐ隣にあるのがいすみ鉄道の大原駅だった。  そこはもう、何て言うか、商店街の片隅にあるお店みたいなレトロ感満載の小さくて可愛い駅。  「ようこそいすみ鉄道へ」なんていう昭和っぽさ丸出しの看板からして愛くるしい。  線路の間に挟まれたホーム。その脇にちょこんと停まっている一両編成の黄色い電車がいすみ鉄道の電車だった。  妄想の段階で中の設備まで見ちゃいけないと思いつつも我慢できずに、サイトの写真でチラッと見てしまったのはレトロな扇風機で、こんなのが天井にくっついてるあたりも反則的に愛らしい。  でも本物はこの目でしかと見よう。そう心に決めた私は、いすみ鉄道に乗り込んだ。座席に腰を下ろして走り出したその車窓から景色を堪能する。  最初はレールがいっぱいの線路を行くけれど、少ししたら緑に囲まれた場所へ飛び込んでいく電車。 「あっ、菜の花」  これこれ。これが見たかった。  このいすみ鉄道の線路周辺には、千葉県の県花である菜の花がたくさん植えられているらしい。春の花で時期もぴったりだし、きっと私の目の前にはいっせいに咲いた綺麗な黄色の絨毯があたり一面に広がっているはず。  私の名前でもある花。読みは「なばな」なんだけど、語感が可愛いのもあって小さい頃からずっと自分を「なのはな」と呼んでいた。  今でも家族や親戚からなのはな呼びしてもらっている、大好きな名前。  あの黄色いちんまりした花みたいに、私も人から可愛く思われていればいいなあ。でも実際は違反切符を切った相手からブスだのなんだの言われる現実。  止め止め。今は旅行中なの。  辺り一面の菜の花を見て癒され、時おり渡る川と橋に癒され、線路を囲む青い森や田圃に癒され、その上に広がる青い空と白い雲に癒されるの。  途中の駅なんてもう、一人が歩けるぐらいの幅しかないホームに大きなバス停ぐらいの小屋がついた感じがちんまり可愛い。  そしてまた走り出す。だだっ広い田園の中を走る一両の電車。  昭和三十年代の原風景ってこういう感じだったんだ。そう思わせる景色にまた楽しくなってくる。そうして電車は次第に里山の中、両側を鬱蒼とした森の山に囲まれた場所へと入っていく。  秘境感が半端ない。「冒険」とか「開拓」みたいな単語も浮かんでくる。沼みたいな場所や広い川を渡ったりして、安全な電車の中にいながらにして探検をしている気分。いすみ鉄道クルーズ。  隊長ってガラじゃないしせいぜい飯炊きぐらいしかできないものの、たまにいい仕事をして誉められるぐらいのキャラかな? カレーぐらいしか作れないけど。  そんな下らない妄想に浸っていると、少しだけ賑わいのある大多喜駅に到着した。  きっとここは乗降客も多いはず。似たような一人女子旅の女の子と目が合って会釈したり。  そして駅を出た私は大多喜城へ向かうわけだけど、今日は移動旅。徒歩もいいけれど、せっかくだからと駅前に停まっているタクシーに乗せてもらった。 「今日は観光日和だね。大多喜城もいいけど、夷隅神社の朝市もいいよ。そこからメーター回すから行ってみないかい?」 「えっ、いいんですか?」 「もちろん。ああ、朝市の回し者じゃないし無理に買わなくていいからね?」  そんなことをタクシーの運転手さんに言われて朝市に行くの。  鳥居の前にずらり並んだ露店。と言っても十店舗ぐらい。野菜とかお魚とかが並んでいて、地元の人も来ていて楽しそう。  観光かい? ゆっくりしていきな。みたいなやりとりをした後にお参りをする。  神様にお願いしたのは世界平和。特に市川市の行徳駅前交番あたり。そうしたら仕事がもっと楽になるのに。  そうしてタクシーに戻って大多喜城へ連れて行ってもらった。丁寧にお礼を言っていざお城へ。今は博物館になっているらしい。  ここで私はまた歴史を紐解く。この大多喜城の初代城主はあの本田忠勝、徳川家康の四天王と呼ばれた猛将なの。  連戦連勝、負け知らず。この人がいなかったら徳川家康は本能寺の変で織田信長の後を追って死んでいたはずだから、江戸時代もないということは今のこの日本もなかったことになるぐらいの人物。  歴女じゃない私でも知っているぐらいの人がここを治めていたのには色々理由があるはず。  日本史の重要なポイントをこの目にしっかり焼き付けた私は、徒歩十五分の道のりを歩いて駅前に戻ると、大多喜町天然ガス記念館や房総中央鉄道館を見て回り、そして少し先にある──大多喜幹部交番を遠目に眺める。  言葉だけでしか聞いたことのない幹部交番をこの目で見たかった。  私がいるような普通の交番は二、三人での勤務だけど、幹部交番はもう警察署と言ってもいいぐらいの規模のもので、免許の更新とかもできるらしい。  佐々野所長から聞いた話だと、警察署を名乗るには法律で留置場とかの設備や会計課や警務課みたいな実働部隊以外の部署もないといけないらしい。だけど地方は経済的な事情からそれが難しいので、大きくても「交番ですよ」と看板をかけておけば通るのだとか。  本当に大きいんだろうな。でもお仕事の邪魔はしちゃいけない。バレたら怒られるし。  皆さんお疲れさまですと心の中で呟くと、駅に戻ってまたいすみ鉄道に乗車した。  そうして向かったのは終点の上総中野駅。大きな川を渡り、森や林の中を通って住宅の裏手を抜けていくと──一気に視界が広がって田んぼの中を突き進んでいく。  途中で停まる駅はみんな狭いホームの小屋みたいな駅で、この令和の時代じゃなく、映画や教科書で見た昭和の初め頃に戻されたような感覚になった。  「なのはなー!」そんな大声を上げてケタケタ笑う坊主頭が見えた気がする。ランニングシャツに半ズボン姿の男の子。持っている枯れ木の枝先には青大将。「キャー!」逃げる私を追う彼。でも舗装されていないでこぼこ道につまづいて転ぶ私。膝を擦りむいて泣いちゃって、歩けなくなった私をおんぶして家まで連れていってくれるの。  そういう時代もアリだなあ。せかせかしていなくて、全てがなんとなーく緩く繋がりながら社会が回っている世界。スマホもネットもテレビもない日常。でも楽しいことはたくさんあったと思う。  何だろう。「土に近い」そんな言葉がよぎった。森や川を見て癒されるのは、きっとDNAとかに刻まれた記憶なんだと思う。実際はそんなことないらしいけれど、妄想の中でぐらいスピリチュアルなことを言ってもいいよね?  そうして森の洞窟みたいな場所を何度も通り抜けていく。気がついたら異世界に入り込んでいそうな空気感。  元々人里離れたこういう場所はアヤカシの住処だったと聞いたことがある。平野にあって川の側で人々が暮らしている場所がサト。そこにいるのは犬や猫、馬などの家畜だから、無害だし人を祟ることはない。  その先はニワやノベと呼ばれる人々の活動エリア。鎮守の森や神社などを置いて外界から住人を守っていたらしい。  その先がノやサトヤマ。そこらへんからは狸や狐などのケモノや人に悪さをするアヤカシが現れる、人々と異形が交錯するエリア。そういうところを通る道に道祖神を祀って旅人を守ってもらっていたという。  その先がオクヤマ、そこはもうヌシとアラガミのエリア。マタギのような専門家ですら痛い目に遭う場所で、そんなところに好奇心で訪れた一般人はみな化かされるか酷い目に遭遇して時には命を落とすこともあった。  彼らのテリトリーに入ったが最後、何が起きてもおかしくない。  そしてその先はヤマやダケ。険しく高い霊峰は人々は元よりケモノたちも滅多に踏み込まない神様のおわす場所だ。修験者や高僧がその命を賭けて神や仏と会話するところ。  そんなところに向かっているわけじゃないのは知っているけれど、なんだか異郷へと誘われているような気分になってくる。  この感覚は現代人だろうが昔の人だろうが関係ないんだろうな。どこか怖くて、どこか高ぶる。ビクビクしながらもテンションMAX、みたいな。  気がつけば終点の上総中野駅に到着していた。そして小湊鉄道に乗り換える。丸太小屋みたいな駅舎で、その奥に停まっているベージュと朱色のツートンカラーの一両編成の電車と相まって、レトロ感が半端なくて可愛いしか出てこない。  発車までまだ時間があるので、駅舎の中にあるベンチに一人座って東京駅の駅弁屋さんで買ってきておいたおにぎりでお腹を満たした。ゆったりと過ぎていく時間の中で佇む私。外もまたゆっくりとした時間が流れている。何もない。青空の下にある自然と建物。それだけ。それがまたいい。  食べ終えた私は気持ちも新たに停まっていた電車に乗り込んだ。中はベージュの壁にオレンジのシート。まだ朝早いからがら空きで、私だけの専用列車みたいな気持ちにさせてくれる。  少し空けられた窓から入ってくる春の爽やかな風。出発すると大きく揺れる吊革。  車窓から流れる景色はいすみ鉄道みたいなのんびりとしたものじゃなかった。傾斜のきつい山の中をかき分けて進んでいく。  旅行なのになぜか緊張してくる。そして到着したのは──養老渓谷駅だった。  私の二つ目の目的地は養老渓谷。オクヤマを越えてヤマとダケのエリア、つまり神様のいる場所だ。  今でこそハイキングコースや紅葉狩りになっている養老渓谷だけど、きっと昔は険しくて能力のある人しか踏み込めなかったところなんだろうな。  もちろん現代人の私は躊躇なくタクシーを呼んだ。ううん、あらかじめ呼んであったの。 「香取様ですね? この度はご予約ありがとうございました。これから二時間ほどよろしくお願いします」 「よろしくお願いします」  小湊鉄道は里山タクシーという観光タクシー事業もやっていて時間制で色々な場所へ連れて行ってくれるサービスがあったから、移動旅がテーマの私は予約していたの。  運転手さんは白髪交じりの品のある男性で、目元にできる小皺がいい年の取り方をされた方だと分かる。安心感しかない。 「最初は滝巡りでしたよね? でしたら上総中野駅のほうにお迎えにあがったほうが近かったと思いますが……この養老渓谷駅からで宜しいですか?」 「はい。……あの、おかしいと思われるかもしれませんが、養老渓谷の雰囲気を味わいたくて……」 「いえいえ。おかしくはありません。お目当ての場所へ直行するだけが観光じゃありませんよね。私もそういう旅のほうが大好きです」  すっと車を出してくれた運転手さんがそう言ってバックミラー越しに笑顔を向けてくれる。嬉しい。 「では、いくつか橋を渡りつつ出世観音と二階建てトンネルをくぐって滝巡りコースに向かいましょう」  そうして私は養老渓谷を堪能する。山の上に作られた小さな小さな町はいくつも橋がかかっていて本当に渓谷なんだなというのが実感できて楽しい。  出世観音は源頼朝が源氏の再起を誓った養老山立國寺にある金色の観音様らしい。千葉には縁がないと思われがちだけど、源頼朝は平家方に負けた後に房総半島へ逃げ込んでもう一度挙兵し、平家を滅ぼして鎌倉幕府を開いたのは有名な話。  その時に今の鋸南町で助けてくれた人々に姓を与えたそう。今で言うなら、選挙に負けた有名な政治家が地元の後援会の人たちにあだ名をつけて回った、みたいな感じだったらしい。はた迷惑だと言う人もいるけれど、私は面白いと思った。源頼朝とは仲良くできそう。 「あはは、それは面白いですね。でも彼と付き合わないほうがいいですよ。妊娠中に浮気されますから」 「えっ、あの人そんなことしてたんですか!?」 「英雄色を好むの王道を行ったような人ですからね。五、六人と浮き名を流していますよ」  あ、この人、歴史好きだ! そうなるともう盛り上がる。観光タクシーの運転手さんをしているだけあって話がうまい。  いつの間にか着いていた二階建てトンネルを堪能し、そしてメインの小沢又の滝、粟又の滝、金神の滝を見て満たされる。  そう。癒やし癒しと騒いでいた私だけど、本当に欲しかったのは癒しじゃなくて大地の上に立つ一人の人間としての自分を再発見するという、アイデンティティの構築なんだと思った。  流れる滝を眺めているとそんな気分になるはず。ううん。妄想なのにもうなっていた。  隣で立っているタクシーの運転手さんもぼんやりと遠くを見つめている。周りの人たちもそうだった。見ず知らずの人たちと束の間の一体感を味わう。  これが生きているってことなのかもしれない。  私は確かに実感した。 「何度見ても心が洗われます。ところで……このまま大多喜に向かってもよろしいんですか?」 「はい。日帰りなので割ともう時間がなくって」 「そうでしたか。またこちらに来ることがありましたら、その時には是非とも濃溝の滝にどうぞ」  そうして私は大多喜駅へと戻った。運転手さんには丁寧にお礼を言って別れる。  いい人だった。指名制じゃないだろうけれど、次もお願いしたいな。平将門が成田山新勝寺に関係している下りも聞きたかった。  そして私は最後の観光へと向かう。時刻は十五時三十分。いい感じ。  どこへって? それはもちろん大屋旅館。大多喜駅の南東、町役場を超えて朝イチで行った夷隅神社の近くにある国登録有形文化財にもなっている旅館だった。神社の門前宿として江戸時代からある旅館らしく、その趣はドラマや写真集のロケ地としても使われているほど。  でも私は泊まりに来たわけじゃないし中に入るつもりもない。木造二階建ての切妻屋根をしたその建物を遠目に眺めて目を閉じる。  すると、旅館の前に子規先生がいた。  明治二十四年、彼が二十三歳の春にここ大多喜を訪れたさいにこの大屋旅館へ泊まったらしい。二年前に喀血した後に鬱病を患っていた時、思いついて房総旅行に出かけた。市川から船橋、成田を通ると、次は千葉から長南、大多喜と下り、小湊から館山を通って鋸山へとたどり着いた旅。  それを親友の夏目漱石に読んでもらいたくて「隠蓑日記」という紀行文にしたらしい。  元々は夏目漱石が友達たちと房総の旅行記「木屑録」を正岡子規のためだけに書いていたのがきっかけだとか。しかもお互いに書いた紀行文は漢文。高校生の時にクラスの女子たちで回し読みしていた暗号のメモを思い出した。  もうそれは紀行文の形をした暗号ラブレターみたいなものよね。くすっと笑ってしまった。二人の間の友情というか愛情が垣間見れて楽しい。  ちなみに「隠蓑」というタイトルはこの大屋旅館へ泊まる前に雨が降ってきて雨除けの蓑を買って被ったことが由来らしい。そのまんま。柿食えば――に通じる味わいがあっていい。  その正岡子規先生が訪れたという良玄寺へ向かう。ここは本田忠勝の菩提所として分骨されたお墓があるという。ここにも先生の句碑が残されていた。「掘割や藪鶯を両の耳」――これもまた先生らしい。堀割というのは地面を掘って作られた水路で、きっと大多喜城の周りにあったお堀なんじゃないかな。そこへ藪鶯、つまりウグイスがやってきて鳴いたのを両方の耳で聞いた、と。  城下町のお堀の周りをいそいそと行き交う人々。その中に私も子規先生もいた。二人して疲れた顔をしながらも、どこか明るい表情で大多喜城の天守閣を眺めている。そこへウグイスがやってきて桜の木に止まり、鳴いた。春のうららかな日の一コマ。  その二人を見つめる妄想の中の私もまた笑顔だった。  心が疲れるって自分を見失うってことなのかな。アイデンティティがなくなるんだ、きっと。  だから子規先生も旅に出た。私も滝のダイナミックな水の流れを見て、生き物としての自分を取り戻せた気がする。  そして私は二本の足を使って歩き出した。  向かった先は大屋旅館から徒歩二十分ぐらい、いすみ鉄道の城見ヶ丘駅近くにある高速バスのバス停だった。そして時間通りにやってきたバスに乗り込むと、車は一路東京へと走り出す。  東京駅着は一時間二十分後。私の移動旅はまだまだ続く。その間は音楽を聴くでもスマホを見るでもなく、ただひたすら目を閉じての妄想に浸るの。  今日一日で見たものや感じたものから、全てを繰り返し反芻して飲み込む。くっちゃくっちゃ。私は自分の中に芽生えた発見という草を食べる牛になる。  旅をするって新しい何かを見つけることなんだなと思った。新しい景色に新鮮な気持ちを感じて、知らなかった出来事を見聞きして知的好奇心が満たされる。  それらを受けて自分がどう思ったか。そのプロセスを経ることによって自分はこういう人間なんだなと再確認する。それが自我に繋がる。アイデンティティになる。  なんて難しいことを考えていたらいつの間にか寝てしまって、東京駅に着いていた。  そうして私は、陽が落ちかけた大都会の中を忙しく行きかう人々の流れに飲み込まれていく。まだ。まだだから。まだ私の旅行は終わっていない。  この移動旅最後の楽しみ。それは東京駅での駅弁。  これから新幹線で遠くへ行く人、私みたいに旅の余韻を残したい人、そしてただ駅弁が好きな人。そんな人々でごった返すお店の中を探し求めて、その時のフィーリングに一番ぴったりくるお弁当を手にレジへと向かい、最後の移動となる東京メトロ東西線へ乗り込む。  仕事帰りのサラリーマンですし詰めになる車内。もうここは日常。  でも私の気持ちとリュックの中にはまだ非日常が続いていて、行徳駅で降りて寮へ戻ってから、最後の非日常の駅弁を味わって――この旅は終わりを迎える。 「……ウェイクアップ!」  私は現実世界に舞い戻ってきた。  今回は三時間ぐらい使っていたみたい。あれこれ観光していたはずの前回より長くなったのは、きっと移動中の景色やその時の気持ちを想像していたからだと思う。  明日、私はこの旅を実現する。美緒先輩は撒けるし、署の行事もない。  今回こそ行ける。行けるの? 行けるんだよ? 嬉しい!  移動を繰り返しながら自然の中に包まれつつ自分と向き合ってみる。  今の生活や仕事に満足はしていないけれど、渦巻くような不満もない。拘束時間が長いのが厳しいけれど、その分、市民や社会に貢献できているという自尊心は保たれているし、お給料も高卒の割には貰えている。  何より公務員だから生活の不安はない。  でも。警察官になったのはほとんど成り行きだったし、将来、自分が何をしたいのかのビジョンも特にない。  私は何が好きか。それは妄想。だけど文才もないし絵心もないから表現はできない。それでも想像力は色んな仕事の役に立つ。リスクヘッジや息詰まった時の方向転換とか。  だけどそれはやりたいことのツールであってやりたいことそれ自身じゃないの。  きっと旅は私のやりたいことを導いてくれる気がする。アイデンティティを見つける旅。子規先生も滝を見ながら自分を見つけたんだろうか。  うん? モヤっとしたものが胸をよぎる。でももう全部明日にぶん投げて寝るとしよう。  明日は早いからなあ。朝五時の電車に乗らないと妄想通りにならないし。  おやすみなさい。お風呂に入って歯を磨き布団に入って自分にそう告げると、いつの間にか寝ていた。  朝五時。予定通りに起きた私は、ワンピースにカーディガンへ着替えた――わけじゃなく、モヤっとしたその意味を思い出してジャージ姿のままベッドであぐらをかきながら考えていた。  昨日の事案で山崎先生は「文章は簡単にしないといけない、最も簡単な文章が最も面白いから」と言っていた。何でその時、この言葉に気付かなかったんだろう。  これは私の心の師でもある子規先生の名言だ。元の文は「文章は簡単ならざるべからず、最も簡単なる文章が最も面白きものなり」――筆まかせ抄というエッセイでの一文で、彼の創作姿勢が分かる名言として有名なもの。  普通の人は知らないと思う。じゃあ学校の先生だから知っているかと言われたらそれも違う気がする。つまり、山崎先生は私と同じく子規先生を師と仰ぐ同志だということ。  しかも名言をさらっと出せるほど入れ込んでいる。それはどういうことか。  『大切な アイデンティティ 手放した』――字足らずだしそのまんまだけど、これしかないと思った。  アイデンティティ。私も子規先生も探していた自分。山崎先生はアイデンティティを具現化したものを持っていたけれど、悲しい事情から手放してしまった。そう考えたら居ても立ってもいられなくなったけれど、あのリサイクルショップのオープンは九時からなので時間はまだある。  牛嶋係長に相談しようとしてはたと気が付いた。これは犯罪でもないし、社会的に非難されるようなことでもない。民事不介入の原則も破っちゃいけない。ということは誰にも相談できない。  だから――個人的に手を差し伸べるしかなかった。  スマホでオークションサイトやフリマサイトで情報収集する。ひとしきり調べ終わった頃には開店時間を迎えていたので、着替えると寮を出てまっすぐリサイクルショップへ向かい、開店準備をしていた店長のお兄さんに声をかけた。 「あ、駅前交番の方ですか。おはようございます。どうされました?」 「あの、昨日の小学生の子が騒いでいた件なんですけど、お父さんが売ったという品物のリストを見せてもらうことはできますか? ちょっと気になったもので……」 「ああ、昨日のですか? いいですよ。総額で千円ぐらいのものでしたけど」  やっぱり安く買いたたかれていたんだ。まだお店の棚に入れていなかったらしく、レジ脇に積まれていた本を見せてくれた。  文庫本ばかり二十冊。背表紙を流し見してみる。だけどどの本も最近出版されたような、どちらかというと女性向けの恋愛小説みたいな本ばかりで、子規先生の著作は見つからなかった。 「あの……正岡子規の本があったりしませんでしたか? もしくは古書とか稀少本とか」 「いえ、そういうのは買い取ってないですね。全部最近出版された小説でしたよ。流通量も多いのでその値段でしたが」 「あれ……?」  この本が大事なものなの? どこにでもありそうな恋愛小説が? おかしい。 「他には……なかったんですよね? 山崎先生自ら持ち込んだものも?」 「はい」  完全にビンゴだと思っていたのに違っていた。  どうしよう。じゃあ勘違いだったんだねと納得したふりをして寮に戻ったところで、気持ちをすっと切り替えていすみ鉄道の移動旅になんて行けない。  かといって美緒先輩にも頼めないし、どうしよう。そう思っていた時だった。 「……あれ、香取さん? どうしました?」 「香取、そこで何やってんだ?」  声をかけられて振り向くと、そこには牛嶋係長と七五三がいた。  あっ、渡りに船だ! 七五三がいるけれど、もうここは話をしちゃおう。 「あ、あの……牛嶋係長。ちょっとお話が……!」  私は二人を外に連れ出すと、どこから話せばいいか分からなかったので思いついたことを全部伝えた。  山崎先生は名言がさっと出てくるほど子規先生を慕っていて、それは彼女のアイデンティティになっていた。きっと子規先生の貴重な本を持っていたに違いない。  だけど普段の服装にお金をかけられないぐらい生活に困窮してしまった彼女は、ついに子規先生の本を売ってしまった。ママがずっと大事にしてきたアイデンティティを売ったから、健太くんは「ママを売った」と騒いだ。 「お前……自由だな、本当……」  全てを聞き終えた七五三がため息混じりに呟く。 「うっさい。気になったら寝らんなかったの」  どうかな? ちらっと牛嶋係長を見ると、別に困ったようでも迷惑そうな顔をするわけでもなくただ微笑んでいた。 「なるほど。それでここに来たわけですね。その筋読み──というか想像力は凄いですね」 「こいつはただの妄想バカですよ。民事不介入の原則だぞ。忘れたのか?」  七五三がいらん口を挟んでくる。こいつはいつも原理原則、ルールの塊。イラッ。 「そんなことは百も承知なの。でも同じ子規先生を慕う者として、代わりに私が買い戻して山崎先生にあげようと思ったんだけど……」 「なかったんだろ?」 「うー……」  でも頷かざるを得なかった。  深く肩入れすると他の住人から特別扱いするなとクレームを入れられるのは承知の上で来たし、怒られると分かっていても同じ子規先生を慕う同志が悲しみを抱えたまま生きていく姿を見るのは忍びないと思ったから。  絞り出すように言い訳をして勝手な行動を謝る。すると、牛嶋係長は私の肩を叩いて顔を上げてくださいと言ってくれた。 「優しいんですね。菜花さんは」  急に名前を呼ばれてドキッとした。思わず顔を見上げてしまう。  イケメンの優しい笑顔。すらっとしたダークスーツ姿もあいまってきゅんきゅんしてしまう。  隣の七五三とは雲泥の差だわ。牛嶋係長は天然の人たらしなのか、それとも……。 「きっとそのことをお話してもらうと、山崎先生も喜んでくれるんじゃないかなと思います」  牛嶋係長が後ろを振り返る。するとリサイクルショップの駐車場に一台の車が停まった。中から出てきたのは山崎先生だった。昨日と同じようにおばあちゃんの車で来ている。 「あ、香取さんまで……すいません、お休みのところ」 「香取は偶然ここに来ていたそうです。山崎先生、こちらこそすいません。わざわざ交番まで来ていただいて。……香取さん。山崎先生は店長さんにもう一度きちんと謝りたいのと事情を説明したいということで、香取さんを探してたんですよ」 「あ、そうだったんですか。すみません」 「昨日はあの子もいたので話せないことがありまして、それで交番を訪ねたのですがいらっしゃらず……名刺を貰っていた牛嶋さんにお願いして来ていただいたのです」 「ええ。それでは行きましょう」  改めてリサイクルショップの店内に入り、山崎先生がお詫びの菓子折りを渡しながら店長に事情を説明した。その内容は私の想像が完全に外れていたことよりも、もっとびっくりな事情があった。  山崎先生は小学校の教師をしながら趣味で恋愛小説を書いていて、気まぐれに投稿サイトで公開したらそれが大反響を呼んで出版社から声がかかり、デビューした作品は好評で続編を五冊も出しているという。コミカライズも順調でアニメ化の引き合いも来ているらしい。 「公務員ですが副業申請をしていてそこらへんはクリアしているんですが、夫と上司以外には黙っていたんです。健太は子供ですし、あの性格上黙っていられません。それに保護者の方に知られると色々と面倒なのと色眼鏡で見られてしまったりし普段の業務にも影響してしまうので。……でもどこから漏れたのか、PTAの間で噂にはなっていたみたいです。あの先生は小説で一山当ててかなりのお金を持っているらしい、とか……」 「もしかして、古着を着ているのも……」  私の言葉に山崎先生が頷いた。 「はい。ギリギリのところまで身なりを落とせば噂は落ち着くかなと思ってやってみたんです。そもそも出版社とサイトにマージンを持っていかれているので、印税も一山当てたというほどもらえてはいませんし」  そうだったんだ。色々と衝撃的過ぎて単純な感想しか出てこない。でもそこまで喋る必要あったのかな? 「本当はこんなことまでお話する予定はなかったのですが……牛嶋さんに当てられてしまって……」 「牛嶋係長が?」  牛嶋係長がはははと苦笑いする。 「健太くんがお母さんを買い戻すと言っていた百円がそのままだったのに気づいて、店長さんから私に連絡があったのです。それを山崎先生に電話した時――少しお聞きしたんですよ。ご実家暮らしのうえ共働きでお子さんが一人なのに生活が苦しいのは珍しいなと思いまして。それは他での高収入を隠す手段だとしたら、教師のお仕事でお忙しく身バレしないものとなると作家かなと思ったのです。それできっとこちらにお売りになった本はサイン本で、本棚にあったその本が何か健太くんに聞かれて『ママ自身』みたいなことを言われたのが残っていたのでは、と……」 「その通りです。ついぽろっと言ったのを覚えていて、よく分からないまま私自身だと思い込んだ挙句、あんな行動を……昨日は本当にご迷惑をおかけしました」  深く頭を下げる山崎先生に、リサイクルショップの店長さんは苦笑いしながら頭を上げてくださいと声をかけた。 「今日うちの店に来たのは、買い戻しに来られたということですか?」 「はい。ご迷惑を承知でそのお願いをしに参りました。納得したはずだったんですが、あれからも健太はうちで騒いでまして、母からもなぜ売ったのかと怒られたんです。確かに軽率だったと思い、それで事情を説明して買い戻そうと……大丈夫でしょうか?」 「ええ、問題ありません。昨日の買取額をいただければお返ししますので」 「ありがとうございます」  店長さんがレジの傍にあるパソコンで返金の手続きを始める。少し時間がかかりそうだなと思ったら牛嶋係長が口を開いた。 「少し疑問なのですが……生活に困っていないのであれば、そもそも手放す必要はありませんでしたよね?」  牛嶋係長の指摘に、山崎先生が少し悲しそうに眉を下げて苦笑いした。 「それも仰る通りです。実は決別の意味を込めて売りました。その……編集者の方から次の巻の話をされた時、あまり書きたくないお話を提案されてしまいまして。その路線で行かないと次から先細るのでうちからはもう出せないと強く言われてしまったんです。それでかなり悩んだのですが、元々趣味でしたし嫌々続けるほどのメリットもなかったので、お断りしたのです。それで本業に専念しようと縁切りの意味も含めてお売りした次第で……」  マジか。作家になったら警察なんてすっぱり辞める自信がある私とは大違いだった。  それはともかく、どうしても聞きたいことがあった私は横から口を挟んだ。 「あの……昨日のお話で正岡子規の言葉があったのですが……ファンだったりしませんか? 稀少本とかお持ちでは?」  七五三が小さく「おい」と声をかけてきたけれど無視する。すると山崎先生は微笑みながらかぶりを振った。 「実は母も元教師で、国語と歴史を教えていたんです。それこそ正岡子規の本が母の本棚にあってよく読んでいました。いつの間にか私の中に取り込めていたようです。前に中学生を教えていた時によく引用して教えていたものですから」  ああ、本物の教養を持っている人だった。私みたいなニワカとは違う。負けた。勝負していたつもりもなかったけれど。 「お待たせしました。それではこちらになります」  本が戻ってきた。よくある恋愛小説にしか見えない表紙だけど、確かにシリーズが五冊あって、帯には「五十万部突破!」と書かれてあった。羨ましい。本当に羨ましい、 「本当にご迷惑をおかけしました。健太にもよく言い含めておきます」 「少しびっくりしましたが大丈夫ですよ。また遊びにおいでとお伝えください」  山崎先生が何度も頭を下げてお店を出る。私と牛嶋係長も店長に会釈して外に出た。  うーん。すっきりしたような、そうじゃないような。ダメだ。やっぱり納得できない。 「山崎先生、戻ってきて良かったですね。でも縁切りとは言え、せっかくのサイン本は思い出になりますし、お母さまも仰る通り売ることなかったのでは?」  七五三が「もういいだろ」と私の服を引っ張る。そんなことは分かっているの。 「そう思われますよね。これも口外はしていただきたくないのですが……」山崎先生がはにかみながら言った。「その……編集者さんの話を聞いた夫が『それなら俺にも書ける』って言い放って、編集者さんの言う異世界転生異能恋愛バトルものを書いたら、これがまさかの大ヒットで……メディアミックスもやっていて、今度映画にもなるそうで……」 「すごーい!」  思わず手を叩いてしまった。 「夫はもう仕事も辞めてしまったんです。他の出版社からもお声がかかって……こうなると私が彼を支えるべきだと覚悟を決めたのです。私は夢を叶えましたし、夫がその夢を継いで大きくしてくれましたし。それに私は教師が大好きですから」  本当に凄い。人生って何が起きるか分からないのを目の前で見せられた気持ちになった。山崎先生はこつこつ書いてきた結果が出て、旦那さんはチャレンジした結果が出た。 「牛嶋さん、香取さん。今回はお手数おかけして申し訳ありませんでした。小学校でお会いすることも多いと思いますが、息子ともども、なにとぞよろしくお願いします」  山崎先生が深々と頭を下げておばあちゃんの車に乗って帰っていく。  私たちも店長にお礼を言って店を出た。  はー。ため息しか出ない。山崎先生は確固たるアイデンティティを持っている。それは教師としての自分。自分の好きな物語を読者に送り、届けきった自分。 「何かもう色々圧倒されちゃいました。凄いな、しか出てこなくて……」 「係長。そろそろ行かないと……」私がお気持ち表明する脇から七五三が口を挟んできた。「香取、非番だったんだろ? 帰って寝てろよ。明日の仕事に備えとけ」 「んなこと分かってるって! んもう、七五三はいちいちクドクドクドクド……私のお母さんなわけ?」 「お前みたいな自由人の娘がいたら胃がいくつあっても足りねーよ」 「まあまあ、二人とも。こうして懸念が払拭されたので良かったじゃないですか。追っている窃盗団の足取りも掴めましたし。ところで香取さん──」  牛嶋係長が手にしていた鞄から何か取り出そうとして、スマホが鳴った。誰のだ? 牛嶋係長のだった。七五三のも鳴っている。  本署からだった。追っていた窃盗事件の被疑者が現れたらしい。通話を切った牛嶋係長がため息をついた。 「何ともタイミングが悪い……」 「タイミング、ですか?」 「ああ、いえ……こちらの話です。七五三くん。例の窃盗団です。急ぎましょう。香取さんは非番をゆっくりお過ごしください」  牛嶋係長と七五三が駐車場に停めていた自家用車で帰っていく。  一人取り残された私。時間は九時半。寮に戻って十時。それから支度をして──あー、無理だ。可能性はゼロじゃないけれど帰ってくるのは夜中になりそうだし、そもそもこんな気持ちのまま旅になんていけない。  どんな気持ちかって? 正直な話、嫉妬なの。  中学生の時に子規先生の俳句で行間を読む楽しさに目覚めてから、妄想に目覚めた私は本当に色んなことを考えてきた。  そして人は考えれば考えるほどアウトプットしたくなる生き物。私は密かにアウトプットしてきた。それは小説。短い話もあればそこそこ長い物語も書いた気がする。  何度か応募してみたけれどダメだったのもあって警察官になったものの、あの夢を捨てたわけでもない。 「まだ……書けるはず……!」  同じ子規インスパイアのファン同士として嬉しかった気持ちが裏切られたような感じになってしまったのも大きい。  私は急いで寮の部屋に戻ると、机に起きっぱなしのノートパソコンを開いてメモ帳を起動させた。この真っ白なエリアが今日の私のキャンバスになる。そこへ絵の具ならぬ文字を打ち込んでいった。  文字たちがキャンバスを自由に飛び回り、私の中にあるイメージ通りの世界を作っていく。  以前から温めていた妄想の卵たち。孵れ、私のアイデアたちよ! 私が何者なのか教えるのだ!  そうして私は創作に打ち込んだ。打って打って悩んではさらに打つ。  その結果、どうなったのか。 「あら、美緒ちゃんに菜花ちゃん、こんばんは。カウンターにどうぞ? 誰もいないわよ。いつものでいいかしら?」 「あ、ママさん。こんばんは。あたしはいつもので、その……菜花には甘めのヤツをお願いできますか?」 「あらあら。菜花ちゃんどうしたの? げっそりしちゃって。まあ座って座って」 「こ……こんばんは……」  美緒先輩に連れられてやってきたのは居酒屋ふさのいえだった。  お店の中をぐるりと見渡すとそこそこお客さんはいたものの、確かに市川南西警察署の人は見当たらなかった。この近くでもう何十年もお店をやっているママさんは警察署の生き字引でもある。 「それじゃこれね。南房総のびわのお酒。すっきり甘いから気持ちがほっと落ち着くわよ」  カウンターの席に腰を下ろし、いただいたオレンジ色のグラスに一口つける。甘い。鼻に抜ける爽やかな香りが私の気持ちを整えさせてくれる。  ふう。大きなため息をつくと、ママさんの視線が美緒先輩を向いた。 「それが、あたしも聞いてないんですよ。菜花、言って楽になったら? 今なら誰もいないし」 「そうそう。モヤモヤこそ居酒屋で吐くべきよ。それが場末の飲み屋のアイデンティティですからね」 「アイデンティティ……!」予想していなかったママさんの言葉に、私は決心をした。「実は……」  妄想旅行の下りと具体的な情報は省いて、今日あった山崎先生の事案と、私がひそかに憧れていた作家の夢をほんのりとぼそっと話した。 「まだ書けるかなと思って今日一日頑張ってみたんです。頭の中には完璧にストーリーができてるんですけど、それが全然文章にできなくて……」  あれから半日ぐらいかけて書いてみたけれど、最初の一シーンだけで終わってしまった。 「あら、菜花ちゃんは作家さんに憧れてたの?」 「確かに中学生の頃は作家になりたかったんです。でも結局は憧れのお巡りさんになりたくて警察官になったんです。そこは間違ってないと思いますし、後悔もしてません。だけど、何て言うか……私のアイデンティティが揺らいでいる感じなんです」 「なるほどね。諦めた自分の夢を叶えた人が間近にいて、しかも大成功をした挙げ句にさっと辞めちゃう引き際まで見ちゃったから、色々と不安になっちゃったのね。嫉妬した自分が嫌になっちゃった?」  私はゆっくり頷いた。  憧れていた作家の夢。それを叶えるだけでも大変なのに、さっと諦めて旦那さんを支えようとする気持ちが眩しすぎた。その光で、私の中にいた羨望と妬みの悪魔が炙り出されてしまったの。 「でもね、話を聞いた限りじゃそんなことないわよ?」  美緒先輩が私の肩をポンポンと叩く。 「……え? 何がですか?」 「その先生、旦那さんのことを文章が書けないって言ってたんでしょ?」  そうだった? うん、そうだった。夫は本を読まないし文章すら書けないと。書かないではなく書けない。 「そういえば、健太くん。パパはバカだって言ってました……」 「それに『今日もどこかの現場』にいるとも言ってたんでしょ? 職場じゃなくて、どこかの現場。解釈は色々あると思うしその職業を低く見るつもりもないけど、話を総合すると旦那さんはあまり教育を受けられずに日雇い仕事に励んでいる人かなって思ったの。読み書きもできないから子供にもバカ呼ばわりされる。そんな人が映画にもなるお話を書けるとは思えないのよ。アイデアは出るだろうけど、それを形に落とせない」  あ、分かった。 「もしかして……先生は旦那さんのゴーストライターになった?」  すると美緒先輩さんがにこっと笑う。 「それが妥当じゃない? そうなると色々と逆になるでしょ?」 「あ……」私はひときわ大きなため息が出た。「小説がアイデンティティなのは合ってたんだ。でも編集者の路線変更に反発したわけじゃない。当たると思ったから合意して路線変更したんだ。当たる前提で、もう副業で通らなくなるから旦那さん名義で出した。リサイクルショップに本を売ったのは──路線変更したほうが本当の自分だったから。売れたし映画にもなる。バトルより恋愛で行こうとした、過去の『繕った自分』を消したかった。だから売って消した。偽りのアイデンティティを……」 「そんなところよね。それが本当なら夫の夢のために身を引いた貞淑な妻じゃなくて、自分のさらなる野望のために過去を捨てて夫も利用した野心的な妻ってことにならない?」  何というか、もう……ため息しか出なかった。  山崎先生のイメージがガラガラと崩れていく。そもそも自分の両親と同居しているし、ああやって送り迎えさせているあたり彼女が山崎家の全権を握っているのかもしれない。 「もう何が本当か分からなくなりました」 「もちろん、あたしのだって想像だから外れてるかもしれないけど。だからね、別に勝った負けたで考えることもないの。人の夢は人のもの。自分の夢と違うし、これからも叶えられるかもしれないんだから」  美緒先輩がそう言って私の頭をポンポンしてくれた。そしていつの間にか飲み干していたゆず酒のおかわりをママさんが注いでくれる。 「美緒ちゃんの言うとおり。よそ様はよそ様。私も夢はたくさんあったの。それこそ文壇を夢見た時もあったし女優にも憧れたわ。でもね、今こうしてお店で働いている私が一番好き。居酒屋のおばちゃん、これが私のアイデンティティだわ」  そう言って微笑むママさんの顔には自信が満ちあふれていた。 「素敵です。そう思えるように私もなるんでしょうか」 「もちろん。だって菜花ちゃんはよく考える子だもの。いっぱい考えて一番素敵な人生を選ぶわ」  ママさんの言葉が心に響く。警察官を頑張れとかじゃないし、結婚の話でもない。素敵な人生をって言ってくれた。  嬉しかった。ゆず酒にまた一口つける。ふわっとした酸っぱさが鼻を抜けていった。  でも、まだ揺らいでいるのは事実。私のアイデンティティは本当に警察官でいいの? それとも他にあるの? だったら何? 何なの? 「さて、そろそろおつまみをどうぞ。今日のお通しです。特別に二品」  カウンターごしにマスターさんが出してくれた二皿は、どちらも黄色い花のついた葉っぱの和え物だった。 「これは何でしょうか? ホウレンソウ? でも黄色い花……これって……」 「そうです。菜花さんのお名前、菜の花の和え物です。そちらから見て左側がからし和え、右側がシーチキン和えです」  実際に菜の花自体はたくさん見てきたけれど、食卓で出会うのは初めてだった。菜の花の「菜」は食用を意味するのにね。  茹でて鮮やかな緑色になった菜の花の上にちょこんと黄色い花が乗っているのがからし和え。一口食べる。ピリッとした辛さとなのはなのほんのり苦い味が、めんつゆっぽいタレとあいまって食欲を湧かせてくれた。  もう一つのシーチキン和えも食べる。ごま油の香りを感じながら、なのはなの苦みをマヨネーズ和えのシーチキンが旨味で包んでいて、これは完全におかずだった。 「二つともおいしいです。からし和えはおつまみで、シーチキン和えはご飯のお供ですね」 「菜の花は色々なものに合うんですよ。油揚げやスナップえんどうに炒り卵と合わせてもいいですし、そのままおひたしにゴマ和えで食べてももちろんおいしいです。合わせ方によっては何倍にもおいしくなりますよね」 「そうだったんですね。シーチキンのは食べたことなかったかもです」 「昔はせいぜい揚げびたし程度でしたが、今はシーチキン和えはもちろん、パプリカとひよこ豆でサラダにしたりクリーム煮でパスタにされたりもしています。それこそ相手を問いません。でもしっかり菜の花の味はするんです。いい食材ですよ」  作務衣姿のマスターさんがそう言って目尻に皺を作りながら微笑んでくれた。  私はどんな仕事でも合う――そう教えてくれたんだと思った。だけど、少し考えてみたら違っていたことにも気づかされる。  菜の花は時代とともに合わせる相手が違っても、そのパフォーマンスを発揮できるという言葉。  私の時代は今を生きている今の私。そして私の時代が進むということは、ライフステージが変わるということ。今のまま警察官かもしれないし、結婚して家庭に入っているかもしれない。  その時々で生き方を変えても、私らしくいられるということ。そういう風に生きていける私そのものが私のアイデンティティになるということ。  警察官を辞めて作家になろうとチャレンジする私がいてもいい。警察官じゃないといけないわけでもない。 「菜花ちゃんはもう知ってるだろうけど……菜の花の花言葉は『快活』『明るい』なの。まさに菜花ちゃんそのものよね。パッと明るくなるの」  ママさんの言葉が答え合わせだった。心に染み入る。思わずほろっと涙が出そうになるのをぐっと堪えた。 「……菜の花、本当においしいです。ありがとうございます」  照れくさくてそんな言葉しか言えない。でも二人は微笑んでくれた。 「さー、菜花のお悩みも解決したところで……マスター、今日の晩ご飯をお願いします! 私にちなんだ料理とかないんですか?」  湿っぽくなっちゃった空気を美緒先輩が賑やかにしてくれた。 「美緒さんの地元、九十九里で採れたはまぐりがありますから、春のはまぐりと菜の花のクリーム煮パスタができますよ。タケノコと佐倉豚を使った炒め物も」  にっこり笑ってくれるマスターさんに、私はもう全力で頭を下げた。 「おいしそう! それでお願いします! お腹一杯にしてぐっすり寝ます!」  はははと笑って注文を受けてくれるマスター。その微笑みが私にとっては何よりのご馳走だった。  入れ替わり入ってくるお客さんたちの喧騒を背中で聞きながら、おいしいお酒とおいしいご飯。  姉と妹みたいな二人での飲み会。  ちょっとだけ大人のステージに昇れたような気がする私の、非番の日の夜はゆっくりと更けていった。
/7ページ

最初のコメントを投稿しよう!

1人が本棚に入れています
本棚に追加