第三話

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第三話

 『同じ人 違う時間の 同じこと』──今回で二十回目になる呼び出しだけど、時間は毎回違うのが不思議。だけど同じ事案なの。 「高齢女性より特殊詐欺の電話があったと通報あり、駅前交番向かえ」 「まただ……!」  当直の朝六時。  五月も半ば、パトロール中に入電した無線を聞いて、美緒先輩がため息をつきながらいつもの場所へと自転車の向きを変えた。  私も行きすぎて覚えていたので、地図を見ることもなくまたあの人かと思いながら後をついてペダルを漕ぐ。 「いつもだったらお話して終わりだけど……今日はちょっとイヤなのよ。この前、盗犯係が動いた被疑者の張り込みがこの辺らしくて。迷惑かけたくないなー」 「マジですか。足引っ張ったら刑事課長に詰められそう……」  その時には牛嶋係長が何とかしてくれるかな。そう思ってしまうあたり、私には甘え癖があるのかもしれない。  そうしてたどり着いたのは、駅の近くにあるレンタカー店裏の古い民家だった。築半世紀ぐらいの平屋で、周囲を塀で囲んである中に木が植えられていて、玄関ぐらいしか様子が分からない家。  その前で自転車を降りると、美緒先輩が私の背中をぽんと叩いた。行けの合図だ。  玄関に向かうと横開きのドアは開けっ放しになっている。これも過去十九回と一緒。脱いである靴が内向きになっているのも同じ。だから中にいるはず。 「田中さーん。いらっしゃいますかー?」  そう呼びかけると、家の中からジーンズにセーターを着た品のいいおばあちゃんが出てきて、私たちを見つけてにこっと微笑んだ。  あらあらと言いながら靴を履いて玄関先に出てきてくれる。 「すいませんねえ」 「田中さん。オレオレ詐欺の電話があったそうですが、大丈夫ですか?」 「さっきあったんですよ。あ、縁側にお茶とお菓子用意してありますから座って待っていてくださいね」 「あの、お電話の内容を……」 「今日のお菓子はチョコですから。頭もすっきりしますよ? ささ、どうぞ」  ダメだ。また田中さんのペースに巻き込まれてしまった。  美緒先輩も顔で仕方ないと言ってくれたので、そのまま敷地の中に入って縁側に腰を下ろす。  田中さんがお茶を持ってきてくれた。  私が初めて対応した時にはお茶に口をつけないまま帰ったらすごく悲しい顔をされたので、美緒先輩と一緒に普通に飲む。  目隠しの木から降り注ぐ木漏れ日がドラマの一シーンのようにも見えた。だけどこっちは仕事なのでゆっくり悠長にもしていられない。 「お茶ありがとうございます。……それで、電話はどういう相手だったんですか? 男性ですか? 年齢の感じは?」 「あらあら、お急ぎですか? したっけチョコもありますからね。そうそう、トイレが必要だったら遠慮なく使ってくださいね。綺麗にしてありますから」 「えっと……あの、相手の情報を……」 「相手ですね? 男の人でしたよ。若かったような、お年寄りだったような……」  この答えも過去の十九回と一緒だった。  田中さんはいつもこうして一一〇番で駆け付けた私たちをひたすらもてなしてくれるんだけど、肝心の事案の部分についてはこんな感じでボカしてガセを掴まされる。  なので、駅前交番では田中さんをよくいる寂しいご老人のうちの一人として扱うようになっていた。  今日もチョコを二粒食べるまで解放してもらえず、該当の事象は認められないままだったので、やむなく私から切り出した。 「あの……次に特殊詐欺の電話があっても、いつも通りきちんとお断りしてくださいね?」 「もちろんですよ。本当にオレオレ詐欺なんてあったら逆にかっくらかしておきますから」  本当にあったらって自分で言っちゃった。  確信犯なのは分かっているけれど、説諭したところで聞いてくれる相手でもないからそれとなく諭すしかない。  もう行くという私たちを田中さんが玄関前まで送ってくれた。 「あ、そうそう。最近ゴミ捨て場に変なものうっちゃる人がいるんですよ。かたすのも大変で、美緒ちゃんと菜花ちゃんに――」 「菜花、マトワリの邪魔になるから早く切り上げよう」  美緒先輩が後ろからそう言った。聞こえたらしい田中さんがごめんなさいねと食べ残しのチョコを渡してくる。 「あらあら、それは大変ね。体ぼっこさないようにしてくださいね。今日もありがとうございました」  結局そんな感じで諭すこともできないまま駅前交番へ戻ることになった。これもいつもと一緒。  すると交番の中に見慣れないおじさんが二人いた。すわ事件かと思ったら、佐々野所長と佐藤さんだった。  何度見ても見慣れない。制服を着ているのにこのモブ感は何だろう。うん、失礼なのは分かっているけれど、脳がそう処理するんだから仕方ない。  まあ、私もたいがいのモブ顔だけど、お二人は輪をかけてモブモブしい。  事務仕事をしていた佐藤さんがどうだったと聞いてきたので、いつも通りでしたと返すと苦笑いしながら淹れたてのコーヒーを出してくれた。  そして佐々野所長が差し入れっぽいお菓子も出してくれる。モブいけれど本当に優しいおじさんたちだ。 「良かったね、何もなかった上におもてなしまで受けちゃって。私や佐藤くんは田中さんからの一一〇番に当たらないし、前に巡回で行ったらけんもほろろにされたからね。二人は好かれてるんだよ」 「これまで一回でも特殊詐欺の電話あったんでしょうか? もう、そこから気になりますし……それに方言が分からなくて」  私が椅子に座ってコーヒーに一口つけると、美緒先輩がふふっと笑った。 「電話があったかどうかは分からないけど、あった前提で行かないとね。それにあの程度の方言なら文脈で分かるでしょ。何が分からなかったの?」 「『したっけ』はそうしたら、『かっくらす』はぶっ飛ばす? ぐらいは分かりましたけど、『うっちゃる』と『かたす』が微妙で……『ぼっこす』は全然分からなかったです」  佐々野所長がくすっと笑う。 「したっけとかっくらすは合ってるよ。うっちゃるは捨てる、かたすは片付ける。ぼっこすは壊す、だね。ゴミ捨て場の苦情でも聞いたかい? ぼっこすのくだりは体を気遣われたようだね」  美緒先輩と二人でおーと関心してしまった。合ってる。 「確か田中さんはもうすぐ傘寿で、娘さんがたまに来ている以外は誰とも話をしていないんじゃないかな? まあ、これまでと同様、業務に差し支えない程度にお話ししよう。そういうところで拾える何かはあるから」  それはそうだと思う。たった一年の警察官人生だけど、誰とも会話できずおかしくなってしまった人を見てきたから。 「さあ、二人とも。当直はもうおしまいにして署で残務整理ちゃちゃっとやって終わりにしよう。ここのところ忙しかったからね、頑張ってお昼前ぐらいを目途に切り上げちゃって。後は全て私と佐藤くんに押し付けていいから」  佐々野所長の言葉に、佐藤さんはにこりともせずに真顔で頷く。  おじさんたちのこのゆるい感じが好き。警察官がゆるくていいのかという疑問はあるけれど、私たちはお言葉に甘えてお疲れ様ですと二人に頭を下げて交番を後にした。 「今日も平和でありますように」  佐々野所長がいつものセリフを言いながら佐藤さんと一緒にパトロールへでかけていく。  私たちは署に戻ってデスクで未決書類をひたすら片付けた。もくもくとノートパソコンで書類を作っていると、ふと隣の美緒先輩がこんなことを言い出して思わず振り向いた。 「明日非番だしさ、何か予定ある? 動物見に行かない?」 「……え? 動物ですか? いいですね、行きましょう」  動物園での行動でトロフィー派かどうかの判断基準にできるよね。そう思って動物園なのか聞こうとしたら、美緒先輩は用ができたのかどこかへ行ってしまった。  しばらくして戻ってきたら、無言でまたキーボードをカタカタやり始める。  それから三十分ぐらいしてまた美緒先輩がその話をしだした。 「動物ふれあいだけじゃなくてさ、お花も見たいよね。ネモフィラって見たことある? 青い花。一面に咲くの」 「お花畑ですか? すごい綺麗でしょうね、癒されそう」 「でしょー? いいわよねー」 「動物とふれあってお花も見られる場所なんてあるんですか?」 「そうそう。それがさ――」  おーい、加瀬。ちょっと来てくれ。刑事課の人から呼ばれてまた美緒先輩が席を立つ。少し後に戻ってきたけれど話の続きはなかった。  あれ? どうなっちゃった? 恐る恐る聞いてみた。 「あのー……美緒先輩、動物とお花見られる場所ってどこですか?」 「あ、それねー。そうそう、後さー」  それでまた違う話を振られる。あれ? はぐらかされてる? そのうち電話が鳴ったりして続きが聞けなくなった。  モヤモヤしてくる。どこなの? どこへ私を連れて行こうとしているの?  そうしてようやく書類整理も終わった十時ごろ。そろそろ上がろうかというタイミングで一緒に更衣室へ行ったので、今しかないと単刀直入に聞いてみた。 「美緒先輩、明日どこへ行くんですか? 予習しておきたいので教えてください」  着替えながら質問すると、制服を脱いでいた美緒先輩の手が止まった。  シャツの前がはだけてズボンを下ろしながらの下着姿がエロい。私もあんなフェロモンを出せるんだろうか。 「……あ、それさあ。全部ひっくるめて考えたらマザー牧場がいいんじゃない? って思ったの」  マザー牧場? あ、この前、牛嶋係長から無理やり奪ったチケットのことか。  なら最初からそう言ってくれれば良かったのに。 「マザー牧場のネモフィラ見てジンギスカン食べようよ」 「ネモフィラ綺麗ですよね。確かあそこって観覧車とかもあるんですよね?」 「よく知ってるわね。あのあたり景色がすごく綺麗みたいよ? 鹿野山って知ってる? 麓にキャンプ場があって、展望公園から見る景色は――」 「鹿野山……?」  モヤっ。私の中で何か嫌な予感がよぎる。次の瞬間、得体の知れない不安が私を襲った。 「い、いや……その……私、あのあたりは何か方角的に悪い感じがするんですよね。言語化できない何か、みたいな」 「え……? そ、そうなの?」  あれ? 美緒先輩が押してこない。それどころか私の顔色を伺うようにじっと見つめてきた。 「そうなんですよね。自然は大好きですけど、あのあたりは何か……」 「そ、そうよね。じゃあやっぱやめよっか。そうだよね、いきなりは厳しいもんね」  私が迷子になったのはあのあたりなのかな。記憶にないけれどマザー牧場に観覧車があることも知っていたし、もしかしたらそうなのかもしれない。  でも美緒先輩は引き下がってくれた。グイグイプッシュの代名詞みたいな人が珍しい。  そうじゃない。私としてはモヤモヤを克服するチャンスだったけれど、それを逃した形になってしまった。  でも怖いものは怖い。それに美緒先輩と一緒だとトロフィー派の面目躍如で一時間ぐらいで見終わって「帰ろ!」になりそうな気がして仕方なかった。  何だか無言になってしまった美緒先輩。私服に着替え終わって更衣室を出ると、今度はいつもの顔で話してくれた。 「それならさ、鴨川シーワールドとかどう? ドライブデート。運転はあたしがするからさ。たまにはゆっくり走ってみない? 房総フラワーラインとかお花畑がすっごい綺麗なんだって。道の駅でご当地グルメ食べたり」 「お花畑……ご当地グルメ……」  しかも私を気遣うような別の提案までしてくれた。これは伏線なの?  美緒先輩の目的は何? そんなモヤモヤも出てくるけれど、二つのワードで私の気持ちはぐらついた。  いい。お花畑とか乙女心をくすぐられるしご当地のおいしいものもあるなんて、まさに花と団子。そんな旅でモヤモヤを克服できるならと、私の心はかなり揺れていた。  私の心の壁ドレスが脱がされかかっている。 「富士山が見える神社でエレメンタルパワーもらってさ。そうそう、灯台で地球のでっかさを体験できるらしいよ?」 「神社……地球……!」  ああ、もう美緒先輩の素敵ワードに私のドレスはするりと脱がされて肌を晒してしまった。 「あ、鴨川シーワールド近くのホテルで温泉に入ってゆっくりしてもいいよね。アイスか何か食べてさあ。マッサージもいいかも」  温泉にマッサージ! 癒される要素しかない! もう私から心の壁下着を脱いで裸になってしまった。  はい負け。降参。 「美緒先輩、私、癒されたいです……!」  寮の部屋の前で私は九十度のお辞儀で懇願してしまった。うふふと笑われながら頭を撫でられる。 「オッケー。んじゃ癒されよ。まだプランニングしてないけど、まあ、明日行きながら決めよー!」  そんなノリで非番を使った小旅行が決まってしまった。  部屋に戻った私はその五分後ぐらいに自分の決断が早すぎたことを後悔する。  トロフィー派の急先鋒みたいな人の、スケジュールぎっちぎちスタンプラリーみたいな旅についていけるわけがない。  しかもまだノープラン。私は行くところや見るものに多少の妥協はできると思うけれど、プロセス派の私が見たかったりやりたかったりするものに美緒先輩が妥協してくれるわけがない。  それとなく断りを入れてみようかな。  そう思って部屋に押しかけようと玄関に行ってみたら、通路で電話している美緒先輩の声が聞こえてしまった。佐々野所長と地域課長に明日は県内日帰り旅行をすると話している。  そういえば旅行には申請が必要だと聞いた覚えがあるけれど、県外じゃないし泊まりでもない場合は口頭で良かったらしい。  それでも上司に了解を取るという面倒なことをしてくれたということは――退路が断たれたということ。  違う、そうじゃない。私はまたしても自分が愚かだったことを思い知った。  美緒先輩は私との旅を楽しみにしてくれている。それが何より大事なの。  ノリが合わないとか考え方が違うのは誰だって一緒。プロセス派の友達がいたとしても、その子と私のプロセスの捉え方が合わないことだって普通にあるはず。  一人旅も旅行だけど、ペアやトリオで行くものも立派な旅行。  警察官になって一年間、ここまで教育してくれた恩人に何てことをしようとしていたのか。私のバカバカ。  よし。言い訳はこのぐらいでいいかな? とりあえず自分にそう言い聞かせて美緒先輩との旅行を楽しむことにした。  私はこれから妄想旅行に旅立つ。  美緒先輩の言っていたキーワードから、何を想定していたのかシミュレーションするの。  鴨川シーワールドは大きいテーマパークだし、そこで温泉って言っていたから最終目的地のはず。その途中に房総フラワーラインなるドライブコースがあって、富士山が見える神社と灯台がある。  謎解きだ。いや別にそこまで謎でもないし聞けばいいだけなんだけど、でも探す楽しみはまた別。  こういう手間を楽しむのは性格的に得か損かを何度も考えたことがあったけれど、答えが出たためしはない。時短とか丁寧な暮らしとか、そういうのとは別なのかな。  まあ、楽しめているんだから得なんだよね。損に気づいていないだけだとは思うけれど。  そんなことを思いながら私はノートパソコンを開いて美緒先輩の言っていたキーワードを調べ始めた。 「あ、きっとこれだ……」  次々とヒットしていく。それはまさに初夏の房総、おすすめドライブデートコースみたいなキュレーションサイトがたくさん引っかかった。  よし。必要なデータは揃ったと思う。  まだスポットしか見つけていないみたいだし、トロフィー派の美緒先輩も満足させつつ私も楽しめるようなものを先に提案して、機先を制する。  先手必勝。イニシアチブ奪取。行くぞ!  私はお昼ご飯も食べずに目を閉じた。 「……トリップ!」  いつだって旅の始まりはこの部屋から。  今日はコソコソしなくていい。思いっきり女子旅な雰囲気にしよう。  海岸沿いにお花畑と言えば──やっぱり白いワンピースに麦わら帽子でしょう。おとなしめのサンダルに小さめのリュック。  鏡を見る。素材はもうどうしようもないけれど、格好は可愛い。でもあと一つ何か足りない。  そうだ。私はポーチの中からお試しで一回使っただけの口紅を引いてみた。淡いピンク。  よし、少しだけ色気が出たかな?  時刻は朝の六時。さあ、美緒先輩はどう来る?  インターフォンが鳴っていそいそと玄関のドアを開けると、待っていたのは──胸元を大きく開けたビスチェにハイウェストのデニムという大人可愛いスタイルの美緒先輩だった。 「美緒先輩、素敵です。中身が二階級上の巡査部長だなんて信じられません。完全に女子じゃないですか」 「菜花も攻めたわねえ。逃げる万引きの腕をひねりあげた子には見えないわー」  なんてよく分からないポイントで誉め合いながら二人で駅前のレンタカー屋まで歩き、借りた軽自動車に乗り込んでいざ出発。  運転すると言ってくれたものの、交代制で行きましょうと提案してまずは私がハンドルを握る。  走り出した瞬間、ぶわっと広がる旅行感に包まれるの。それは解放感。  パトカー乗車時のような、誰に見られてもいいようにお手本みたいなハンドルの持ち方やブレーキの踏み方をしなくちゃと緊張することもない。  窓なんて開けちゃったりして。最初はラジオを流すの。もちろんベイFM。トラフィックアップデーツのBGMはもはや千葉県の県曲だよ、とは佐々野所長の弁。  歩いてきた道を戻って東京湾へひた走り、左に折れて国道357号へ。千葉の湾岸エリアを通り、東京を横断して羽田まで繋がっているこの流通の大動脈を通っていく。  出勤で毎日通る道なのに、旅行となるとぜんぜん違う見え方をしちゃうのから不思議。  そして湾岸市川ICから高速道路に入った。一気に加速して車の流れに乗る。 「菜花、見た? あのワンボックスのイケメン、めっちゃ好み──あっ、こっち見た!」 「マジですか! もうそれナンパですよ! ウィンク打ち返してやりましょう!」  変なテンションの上がり方をして、車内も変なアッパーエアーに包まれてはしゃぐ私たち。  いつも渋滞しているこの東関東自動車道も、朝早いせいか下りは快適すぎるぐらい空いていた。高速から見えてくる東京湾の海がさらにバカンス気分を盛り上げてくれる。  稲毛を脇目に千葉市へ入り、宮野木JCTから館山方面へ。そして館山自動車道へ入る頃にはもう気分は最高潮に達しているはず。  きっとその頃にはラジオを止めた美緒先輩が流行りも混ぜながら、それ系に音痴な私でも分かる曲をセレクトしてスマホで流したりしてくれるんじゃないかな。  でも、きっとこんな話も出る頃。 「菜花、ちょっとおなか空かない? この先に市原SAがあるんだって」 「完全に同意です。というか寄る予定でした。公式サイトだと一番人気は桜海老のかき揚げ蕎麦だそうですよ。でも私はあえて三番人気のカレー蕎麦にチャレンジしたい……!」  サービスエリアも人と車がまばらで観光地感が半端ない。  まずはトイレを済ませて一直線にフードコートへ。美緒先輩は二番人気の担々麺、私はやっぱりカレー蕎麦を注文。 「ヤバ。昇進試験より緊張するわ」 「私は警察学校でやった鑑識のテスト思い出しました。盛大に水をこぼして証拠隠滅しちゃって……」  ズル……スルスルスル。二人とも色の強い麺類だったのでそっとすすって何とか被弾ゼロに抑えて完食する。そしてショップをさっと見て飲み物を買うと、車に戻って出発。  また館山自動車道をひたすら下っていく。お腹六分ぐらいで青空の下、そこまで強くない太陽を左から浴びつつ、また窓なんか開けちゃって。  それに合わせて美緒先輩も疾走感のある曲をチョイスしてくれて、一緒に歌ったりしながらドライバーズハイに飛び込んでいく。  そんな絶頂の最中に到着したのは鋸南保田ICで、降りてすぐのところにあった道の駅保田小学校に寄った。  廃校の小学校をリフォームさせたそこは、まさに大人の小学校とも言える施設だった。教室にある小さな机をそのまま使って給食を提供するレストランや地元農産物の特売所もあって、さらには教室に泊まることもできるらしい。 「たまに学校荒らしとかで校舎には入るけど、教室は久しぶりだわ。椅子ってこんなにちっちゃかったんだ。お尻はみ出しちゃう」 「私、卒業して八年ですけど、もう記憶ないですもん。全部ちっちゃいし可愛い」  机とか椅子とかをさすさす触りながら、きっとあの頃を思い出して懐かしむんだろうな。  何も考えてなかったわけじゃないけれど、目の前のことしか見えていなかった時代。何をしても楽しいし、何をしても物足りない毎日。一日一日が長くてもどかしくて、一人ぼっちになるとその時間が永遠にも感じられたあの頃。  子規先生。私は当時と変わらず妄想に浸っています。 「何か体だけ大きくなって、中身あんまり変わってないかもしれません。私」  レストランで房州びわサイダーを飲みながら呟く。 「あたしだってそんなもんよ」美緒先輩が市川の梨サイダーを飲みながら同意してくれた。「日がな一日、男のことか体動かすことしか考えてないしね。佐々野所長だって体操と歴史スポット探検は小さい頃からのライフワークらしいよ。あたしに言わせりゃ、大人になってガラッと変わっちゃうのはまだ自分の芯が見つけられてない人。だから所長もあたしも菜花も幸せ者ってことなのよ」 「ハピネス認定ありがとうございます」 「ところで菜花は小さい頃旅行に行ったりしたの? どうなの?」 「あれ?」  私の妄想旅行なのに、美緒先輩が予想外のことを話し始めた。何でこんな流れになったのかな。  マザー牧場に連れて行く話をしていたから? あ、そっか。探りを入れられたから、妄想旅行でもそんな流れになっちゃったんだ。  止め止め。  時間も押しているしと、保田小学校での休憩もそこそこに私たちは出発した。  東京湾沿いを走る国道127号線の内房なぎさラインを走っていくと、建物の切れ間から海が見えて、鼻を通り抜ける磯の香りと肌で感じる潮風がまた旅行感を高めてくれる。  そのまま南房総市に入り、まだ開いていない海水浴場を横目に館山市へ突入。そのまま海岸に沿ってを走っていくと、たどり着いたのは海水浴場がたくさんあるリゾート地だった。  ここは房総フラワーライン。でも今の目的地はお花じゃなくて、ゆっくりと上っている山の先にある──、 「おー、灯台だ!」 「意外とちんまりー!」  そこにあったのは、洲崎灯台だった。  高さは十メートルぐらいで、白塗りのザ・灯台って感じ。登ることはできないけれど、ここからの眺めは対岸の三浦半島を一望できる絶景らしい。  そして灯台から歩いて行けるほど近くにある洲崎神社へ向かった。  ここへ来たのにも訳がある。あの浮気征夷大将軍の源頼朝が戦勝祈願したおかげで鎌倉幕府ができるまでになったのとは違って、 「おおーっ!」 「これですよ、これ!」  拝殿で私たちの素敵な出会いを神様にお願いした後、県道と反対側にある浜の鳥居へ向かって歩いていくと──そこに映っていたのは鳥居の中に見える富士山だった。  神々しい。その一言に尽きる。  絵画のように切り取られた美しい富士山なんだけど、静かに佇むその姿を見て、どこか自分の心を映し出しているようなさらけ出しているような心細さもあって、ただただ私たちは見入ってしまうの。  きっと写真を撮ることすらも忘れて、何とも言えない気持ちになりながら洲崎神社を後にする。  そして私たちは車に戻って旅を続けた。  旅の気持ちを取り戻してくれたのは、房総フラワーラインの花々たち。  もう初夏だから菜の花は終わっているものの、この辺りに立ち並んでいる花摘み園で咲き乱れている黄色や赤のポピー、白とピンクのキンギョソウにオレンジのキンセンカたちが私たちの目を潤してくれる。  アレをやりたい。そう決めた私たちはそのうちの一つに入園料を払って入ると、さっそく実行に移した。 「待て待て~!」 「あはは!」 「うふふ!」  お花畑の中での追いかけっこ。後できっと「何やってたんだ」系の気持ちで後悔すると思うけれど、私たちの中に流れる乙女の血がやれと言うのだから仕方ない。  ひとしきり女子らしい遊びをした後に、美緒先輩が花束をプレゼントしてくれた。 「これを私にですか?」  それは黄色や赤の素敵な花束。特に多いのはピンクのポピーだった。 「もちろん。このピンクのはオリエンタルポピーって言って、五月の誕生花なんだって。花言葉はいたわり、思いやり。菜花の誕生月でもなんでもないけど、ぴったりかなーって」  きゅん。私の胸がときめいた。  色々厳しいことも言われるし部屋に入り浸られて四六時中付きまとわれているような関係だけど、私、やっぱりこの人のことが大好きだ。  思わず抱きしめてしまうはず。妄想なのにプレゼントも貰って嬉しくなっちゃって。  美緒先輩が男子ならここで襲いそうなぐらいに気持ちが盛り上がっちゃうの。妄想なのに。  貰った花束をペットボトルで作った即席の花瓶に入れると、レンタカーの席の間に差してドライブ再開。  車の中は穏やかで和んだ空気に包まれている。旅行の楽しい気持ちが成熟してきたような雰囲気になった。  そして数分ほど走らせた先にある野島埼灯台に到着する。公式サイトによると国内で十六ヶ所しかない登れる灯台のうちの一基で、日本では二番目に点灯したものだとか。  さっき寄った洲崎灯台は立入禁止で、中に入ることができるのは千葉には他に犬吠埼灯台ぐらいしかないらしい。  中は展示室にもなっていて、この灯台のことを教えてくれる。今年百五十歳になるらしいし、きっと物知りでためになる話を聞かせてくれるはず。  でも私は知っている。灯台は去りゆく時代の遺物であることを。  海上での位置把握の手段はGPSに奪われてしまったし、携帯電話や無線でいとも簡単に陸地や船同士で連絡を取り合うことができる。  実際のところ老朽化や耐震問題もあって、日本各地にある三千基の灯台は十年で六百基もの廃止が予定されている状況だとか。  こうして風情のある観光地の一オブジェクトとして、かつて灯台が使われていたという記憶を語り継ぐだけの存在になってしまうのが少し悲しく思えた。 「でもさあ、あたしも行政側の人間だから考えちゃうわけ。災害でGPS使えなくなった時はどうするの? 補完すべき存在として残しておくべきなんじゃないの? って」  妄想中の美緒先輩が私の妄想に割り込んできた。 「結局はお金ですよね。少ないパイを分け与えるだけのポテンシャルが観光オブジェクトとしてしかないんです。だからレトロブームなんですよね、きっと」 「どゆこと?」 「昭和の時代に作ったあれこれ全てが同じ状況じゃないですか。もはやレトロって付加価値をつけて懐かしさで目を潤ませるしかないんです。それでお金を落としてもらって維持する。全国にいっぱいあるそれらにレトロ可愛いオプションを付けちゃったので、必然的にレトロブームが来ちゃった、みたいな」 「全てがRになる、って感じよね。レトロとかレガシーとか。だとしても、この景色は無関係でしょ?」  さらに侘しい気持ちになりながら灯台を登っていくと、そこには千葉最南端の、ここでしか見られない景色──一面の水平線が広がっていた。 「確かに……!」  持ってきていたことにしたオペラグラスを覗いてみる。  どこまでも青い海。  押し寄せる波濤を眺めていると、海の果てから船が顔を覗かせた。まさしく地球が丸いことの証拠だ。  地球が球形なのは四十五億年も前からで、そしてこの先、太陽の寿命が尽きる五十億年先まで変わらない。そこにレトロは関係なかった。ただただ自然の大きさに見とれてしまう。  でも私にとってはちょっぴりレトロではあるの。実はここへ来たのにはもう一つ理由がある。  それはやっぱり子規先生で、彼も房総旅行でこの灯台を訪れたていたらしい。明治の頃からあるこの灯台は当時も観光名所だったものの、修理中で灯台には入れなかったそう。  だけど、私は彼と同じ水平線を見ている。このあたりに句碑はないから何を思ったのかは分からないけれど、きっと同じことを思ったはず。  地球の大きさと自分の小ささ。先生の心も房総半島を越え、日本すら飛び出して空へ大きく羽ばたき、大気圏を抜けて宇宙へと抜けていったに違いない。 「そうだ……! 夜! ここの夜景が素敵らしいですよ!?」 「だろうねえ。でもお泊まりはできないし夜遅いと色々面倒よね」 「任せてください!」  何せこれは妄想。つまり私の自由。だから時間すら超越できるの。  えいっ。ほら、夜になった。 「うわ……何これ」 「ヤバ……うえぇ、これマジですか。ヤバ……」  空一面に広がる星空。東京近郊では見られない宇宙の絶景が灯台の上に広がっていた。  一瞬にして二人ともボキャブラリーが消え失せる。感動? 驚き? ううん。そんな気持ちすら宇宙に吸い込まれてしまった。  星空を横切っている天の川銀河。その中を二人で飛び回る。ただただ圧倒的なスケールの大きさに怖くなった私たちは手を繋いでいた。  太古の昔から連綿と繋いできた命の結晶たる私たちが、その生命を生み出した宇宙という超低温で虚無な空間に身を晒している。それは母親の胎内に戻るような温かい感覚じゃなくて、物質として還元される、吸収される、再構成される、そんな三次元空間との一体感だった。 「な、菜花……菜花? 戻っておいで」 「は……はい」 「……ここで旅が終わっちゃいそうだから、次に行くよ」  美緒先輩に現世へ連れ戻してもらうと、私は時間を昼間に戻してレンタカーに乗り込む。次に寄ったのは道の駅ローズマリー公園だった。  緯度が地中海と同じことに着想を得たらしく中世ヨーロッパ風の建物が見所で、中世イギリス風の劇場をイメージして作られたシェイクスピア・シアターに、ショップ、そして名前の通りあちこちに薄紫の花を咲かせているローズマリーが目を癒してくれる。  でも今の私たちに必要なのは、胃の癒し。はなまる市場という施設内のフードコートにたどり着くと、美緒先輩はうに・いくら・まぐろの贅沢丼を、私は贅沢クジラめしをいただいた。  この時点でお昼が近いか過ぎているはず。  きっと黙々と食べる私たち。佐々野所長がしきりにおいしいと言っていたクジラは味の想像も妄想もつかない。現地でしっかりと味わおうと心に誓う。  お腹を満たしたら、いよいよ最終目的地の鴨川シーワールドへ。  平日だし空いているはず。駐車場に車を停めて入園すると──目前に広がる太平洋の青い海と青い空、その下にあるのは白とベージュを基調とした白浜を思わせる解放感のある園内。  もうここはリゾート地だ。私たちは平日の昼間に遊びに来ている!  後はもう楽しむだけだった。水族館で見たこともない魚を見てあれこれお喋りし、大きなサメやエイに圧倒され、水槽いっぱいのクラゲにまた宇宙を垣間見る。  そしてイルカのパフォーマンス。水面からの華麗なジャンプや立ち泳ぎにただただ拍手喝采を送った。  そして再び館に戻りアザラシを見てその躍動感のある動きに見とれ、ペンギンを目で愛で、外でアシカのショーを立ち見席から覗いて楽しむと、今回のメインに据えたシャチのショーへ向かう。 「あれ? 結構人いっぱいだけど一番前の席が空いてるわね」 「本当ですね。折角だからかぶりつきで見ましょう」  先頭の席に腰掛けると何か違和感があった。後ろにいたお姉さんが声をかけてくる。 「ここ初めてですよね? ポンチョを買われたほうがいいですよ」  見るとそのお姉さんと連れの人も、その周りの人も、前に近い座席の人たちはほとんどがポンチョを着ていた。 「水、凄いんですか? 濡れちゃったり?」 「濡れるというより浴びる? 溺れる? そんな感じですから」  目を見合わせる私たち。急いで売り子さんからポンチョを買って着ると――すぐに始まったショーで、私たちはまさしく溺れた。  目の前で空高く飛び上がるシャチの巨体。それが着地と同時に大量の海水うを観客席に浴びせてくる。水しぶきが跳ねるとかの程度じゃないの。もう水の固まりが振ってくる。  髪も顔もびっしゃびしゃのぐっちょぐちょ。ポンチョで覆われた首から下も無事とは言えないレベル。  でも。 「たっのしいー! シャチすごーい!」 「お姉さんカッコいいー!」  思わず黄色い声が出てしまった。  ボディスーツを着たお姉さんが華麗にシャチを操り、時にはその背中の上に乗ったり、鼻先につま先立ちして大きく飛んだり。  ジェンダーフリーの時代にこんなことを言うのはアレだけど、やっぱりシャチのペアは女性がいい。  自分が同性だからなのかもしれないけれど、シャチのなだらかな曲線のフォルムが女性の柔らかなボディラインとあいまって、本当に美しいと思ったから。  何度も何度も水を浴びているうちに会場にも一体感が生まれてくる。ライド型のアトラクションも楽しいけれど、こういうのもいい。純粋に声が出ちゃう。  そうしてショーが終わり役目を終えたポンチョを回収してもらうと、 「ち、ちょっと、菜花! 服!」 「え? あっ、ヤバっ」  美緒先輩は透けない色のビスチェだったから良かったけれど、私はもろスケスケの白いワンピースだった。  トイレに連れて行ってもらったり着替えを買ってきてもらったりすると思う。何か対策せねば。  でも楽しい。これも大切な思い出。旅のハプニングは全部笑い話にできちゃう。  そして私と美緒先輩はショップでお土産を探し、シャチとアシカのぬいぐるみをお迎えして帰るの。  車内はシャチの話で持ちきりになるはず。  でもまだまだ旅は終わらない。これはきっと美緒先輩からのリクエストで出るはずだから、外せない。  そのために飽きない道も選んだの。 「す……すごい道通るのね」  鴨川シーワールドから安房小湊方面へ国道128号を走っていき、そこから県道81号、通称清澄養老ラインをひたすら北上する。 「任せてください。美緒先輩に誉めてもらったこのドライブテクニックでこの峠を制してみせます!」  山の中を通る険しい山道。まるで沢を車で遡上していくような気分になると思う。  途中で片側一車線が消えて待避所までバックで戻らないといけないような狭い道や、ガードレールがなかったら間違いなく転落しそうな崖上の道に、落石注意の看板が恐怖を煽ってくる。  美緒先輩はアシストグリップを握りしめ足を突っ張らせながら乗っている。私も私でそんな道を走ったこともないからおっかなびっくり、怖さを打ち消そうといつもより二割ほどお喋りになっている。  そんな道をひた走って大多喜町の養老渓谷を抜け、市原市の高滝湖を越えた先にある牛久で一軒のお弁当屋さんに寄った。  それは。 「え、嘘!こんなとこにあったの!?」  それは地元で有名なとしまや弁当だった。あのアイドルも通い詰めたという話を聞いていたし、美緒先輩が小さい頃に食べていた話を聞いて今日の晩ご飯に買うの。  イカフライ弁当にゴージャス弁当。手作り感半端ないマカロニサラダやポテトサラダの付け合わせも一緒に購入。お土産にはロゴ入りタオルも。  そしてまた一時間ほどかけて国道14号と357号の渋滞に巻き込まれながらなんとか行徳駅に到着し、レンタカーを返却して寮に戻った。  だけど、まだ旅は終わらない。  私の部屋で思い出話をしながら甘めの味付けがされたお弁当を食べるの。  それがフィニッシュ。 「……ウェイクアップ!」  はあーっ。私は大きなため息をついた。  今回は一人きりじゃない美緒先輩との二人旅。でも楽しかった。  上司と部下の関係ではあるけれど、先輩と後輩、そして同じ女同士、気持ちを楽にして旅を満喫できたと思う。  美緒先輩が考えてくれた大きな道筋の細かいところを私が決めたのだから、プランはこれで確定でしょう。夜の野島埼灯台は惜しいけれど、さすがに一泊はできないし、夜遅くなっての長距離運転は正直慣れていないので怖い。やっぱり元通りのルートと時間で行こう。  善は急げ。美緒先輩に旅行プランを書いてメッセージで送ると、考えてくれてありがとう、明日はこれで行こうと返してくれた。  よし、明日はかなりの長丁場になるし今日はゆっくり休もう。  でもその前にちょっと……と、明日の服装チェックを始めてしまう。  白のワンピースに麦わらなんて引かれちゃう? もう少しおとなしめのほうがいい? でも乙女旅だしなあ。モヤモヤ。  こうなったら――と、駅前にある四階建ての総合スーパーに行って服をあれこれチェックする。でもお姉さま方向けのしかないから却下。今度は駅前の何でもあるディスカウントショップで物色。もうコスプレかよみたいなものに心惹かれる自分を再発見したけれど、明日の旅行には絶対合わない。  うーん。やっぱり元のプランで行くしかないかな。あ、でも温泉に入る予定だし下着は可愛いのを買っていこう。  そうして帰宅した私はまだ残るモヤモヤを押さえつけて何とか寝た。 「いやあ……まさしく旅行日和じゃない。見てよ、菜花。この空」 「二人とも晴れ女だからですよ。大気から水分を奪ってやりましたね。まさに日照り姉妹」 「ぷっ。朝から笑かさないでよ」 「うふふ」  朝六時。寮の前で待ち合わせをした私たちは――まさしくシミュレーションと同じ格好をしていた。  私は腹を決めて白いワンピースと麦わら帽子、美緒先輩は胸元が開いたビスチェにハイウェストのデニムで、小さめリュックを背負ったサングラス姿。  そんな私たちの頭上に広がるのは雲一つない青空だった。もうそれだけで勝ち。  最初からいい気分で駅前に向かう。いつもは仕事をしに行くのに今日は遊び。何ていい気分なんでしょう。  これで私のモヤモヤも払拭できて、晴れて千葉県内を旅できるようになるはず。 「本当、いいドライブ日和ですよね。ちなみに何の車を借りたんですか?」 「え? 借りてないわよ? 平日の朝イチだし何でもあるでしょ」  うぇっ。えずきそうになってしまった。  入念な準備はしたくないプロセス派だけど、まさか交通手段も準備していないとは予想していなかった。  この人はトロフィー派な上に行き当たりばったりのバックパッカー派に違いない。  まずい。これで車を借りられなかったらいきなり計画変更の憂き目を見ることになる。 「あのですね、念のため──」 「あれ? あの制服、所長じゃない?」 「え?」  美緒先輩の視線を追うと、そこには確かに見覚えのある制服、Policeの字がはっきりと分かる広い背中があった。側にいるのはベテランの佐藤さんだ。  私たちの声が聞こえたのか、佐々野所長がやあと手を上げる。合流して歩きながら話した。美緒先輩が道の先を眺めながら聞く。 「おはようございます。通報ですか? ……まさか田中さんですか?」 「そうなんだよ。二人がいない時に例の田中さんから特殊詐欺の一一〇番でね」 「あたしたちがいない時に、ですか?」  佐々野所長が頷いた。いつものことなのに、その顔はいつになく真面目だし緊張しているようにも見えた。 「昨日の今日で……すいません。特に変化はなかったと思いますが……ねえ、菜花」 「はい。特に変わりなかったと思います」 「そうだよね。あったら引き継ぎしてくれてたはずだから。まあ大丈夫じゃないかな。……ところで、二人がここらへんを歩いているということは──レンタカーだね? 事故には気をつけてゆっくり楽しんできてね」 「はい。ご迷惑おかけします。後はよろしくお願いしま……」  ちょうど田中さんの家の前を通った時。  いつもと同じように開けっ放しの玄関が見えた。でも、いつもとちょっと違う。何が違うのかと思ったら、靴のつま先が外を向いているだけだった。  だけど美緒先輩の顔が一瞬にして険しくなる。 「所長。昨日と違います」 「……悪い勘は当たっちゃったようだね。二人がいない時の通報だったから、少なからず何かはあると思っていたけれど……」  ドタドタ。家の中から鈍い足音が聞こえたと思ったら、 「皆さん、逃げてください!」  田中さんが叫びながら出てきた。顔面蒼白だ。次の瞬間、奥から何人かが勢いよく飛び出してきた。  覆面姿で手にはバールやハンマーのようなものを持っている男たち。  私は頭がパニクって動けなかった。 「菜花っ! 下がって!」 「佐々野、佐藤、現着しました。暴漢三名に襲われています。至急応援をお願いします」  やけに冷静な佐藤さんが無線で応援を呼んだ。 「マッポが! 死ねっ!」  一人が佐々野所長へ、もう一人が美緒先輩へ突っかかっていく。後ろにいる一人は手にナイフを持って私を睨みつけてきた。  あ、あ……。そうだ。何かしなきゃ。そう思ったら体が動きにくかった。  私は何でこんな時にワンピースなの!? あいつらは本気だ。人が本当に見境をなくした時の目をしている。  佐々野所長と佐藤さんはおじさんコンビで、術科訓練とかもあまり参加していなかった。やられちゃうかも。そうなったらどうしよう。ワンピースじゃ制圧どころか防戦すらできない。  殉職。そんな言葉すら浮かんだ。  美緒先輩しか頼りにならない──そう思った瞬間。 「うおおっ!?」  男の人が大きく宙を舞った。背負い投げだ。誰がやったの? ……佐々野所長だ!  背中からアスファルトに叩きつけられてのびる男の人。 「佐藤くん、ワッパを!」  無線を終えた佐藤さんは顔色一つ変えず、倒れてピクピク痙攣している男の人に駆け寄るとすっと手錠をかけた。 「死ねーーっ!」  ハンマーの男が美緒先輩に襲いかかった──はずが、いつの間にか割り込んでいた佐々野所長がその腕を取って大きく背中側に捻った。 「っててて! くそが! うらっ!」 「遅い!」  ハンマーを落とした相手は暴れながら回し蹴りをしてくる。だけどその足は佐々野所長には当たらなかった。  腕で受け止められた足は太股ごと佐々野所長の脇で固められると、勢いよく回転して、そいつはきりもみみたいに何回転もしながら地面に叩きつけられた。  テレビで見たことある! ドラゴンスクリューだ! 「佐藤くんっ!」  佐々野所長が自分の手錠を投げると、受け取った佐藤さんがまた何事もなかったかのようにのびている人に手錠をかけた。 「うおおおーっ!」  後ろにいたナイフの男が飛び込んでいった。佐々野所長がカットしようとしたけれど間に合わない!  佐藤さんが刺されちゃう……! と思ったら。  えっ? 佐藤さんが一回転した。違う。襲いかかってきたそいつの顔を蹴りながらバク転した。サマーソルトキックだ!  勢いの止まった男が盛大に鼻血を吹く。何が起きたか分からず一瞬呆然としたけれど、思い出したようにナイフを振りかざした──のを、今度は佐々野所長がその手をチョップで叩き凶器を落とさせると、相手が殴ってくるその顔にエルボーを決めて──ノックアウトした。  すかさず佐藤さんが倒れた体を抑える。 「あ、あ……私も……」  何かしなきゃ。オロオロする私を見て、佐々野所長がいつものようににこっと笑った。 「もう大丈夫だよ。ほら」  見ると、他の男の人たちはそれぞれ道路のカーブミラーと細いガードレールに手錠で繋げられていた。  佐藤さんがやったんだ。いつの間に? 鮮やかすぎる。もう私はぼけっとしているだけだった。 「それより加瀬さんのほうに行ってくれるかな?」 「菜花はこっち! 田中さんを! あたしは応援を誘導するから!」  そうだった。まだできることがある。  美緒先輩と一緒に家の中に入って座り込んでしまった田中さんの介助をしながら、少し怪我をしているようだったので救急車を呼び──そのまま病院へと付き添うことになった。  軽い捻挫だったことが分かったものの、私はそのまま田中さんの被害調書を取りつつ娘さんに連絡して付き添いをしてもらい、寮に戻って制服に着替え直した私と美緒先輩は捜査の応援に駆り出された。  あいつらは牛嶋係長たちの盗犯係が追っていた連続空き巣犯だったそうで、塀と木のせいで外から様子を窺いづらい田中さんの家をねぐらに決めて戦利品の整理をしていたらしい。  残されていた物品は百点以上にも上り、軽く見積もっても余罪は数十件以上で全ての捜査が終わるのに半年ぐらいかかるぐらいの大事件だった。  私たちは地域課だからお手伝いで夕方に解放されたけれど、刑事課は徹夜になる雰囲気だった。特に盗犯係はこれから眠れない日が続くと思う。七五三はザマーミロだけど、牛嶋係長には頑張ってくださいとその背中に視線を送って部屋を後にした。  駅前交番組の四人ともかなりぐったりだったのを知った地域課長が別の交番から応援を出してくれたので、佐々野所長も含めて四人、一緒に上がることができた。  やっと帰れる。美緒先輩と一緒に更衣室で一緒にため息をついた。 「結局、旅行行けませんでしたね。せっかくワンピース着たのに」 「可愛かったのにね。でも終わりじゃないから。次の非番に行こ。なにせうちの交番は大手柄だから有給も優先して取れるしね。またプランは考えよう」 「そうですね。旅行は行けなかったけど悪いヤツらは捕まえましたもんね」  あれ? プランは考えようって言った? 私が出した計画はお気に召さなかったの?  そこで思い出した。美緒先輩は最初にマザー牧場へ行こうと言いつつも別の場所へ行きたがっていた。そして美緒先輩は山への憧れが強い海の民。つまり――、 「その次の非番の行き先ですけど……もしかして美緒先輩、本命は山なんじゃないですか? マザー牧場近くの鹿野山」 「ギク」目に見えて狼狽える美緒先輩。やっぱりビンゴだった。「そ、それはさ、あの──」 「私に気を使って鴨川シーワールドを提案してくれましたけど、白里のマーメイドって呼ばれてた美緒先輩が今さら海はないなって思ったんです。よくよく考えてみたら、山に憧れていたりキャンプの話をしたり……ハイキングしたかったんですよね?」 「えっ……?」  あれ、違った? 美緒先輩の驚く顔を見てまた間違えたかな、また失敗しちゃったかな? と思ったけれど、それもまた思い違いだったらしい。 「い、いやあその……そうなのよ」美緒先輩が苦笑いしながら頭をかいた。「菜花の言うとおり、あたしって海育ちじゃない? それに十七の時に千葉一周旅行したりして、房総半島の海岸はどこも行き尽くしてるのよ。でもね、あの鹿野山に寄ったときに……その、私、すっごく感動しちゃって」  美緒先輩がまるで物怖じするような感じで私の様子を伺いながら話し出す。 「人生観変わったのよね。あの時に思ったの。警察官になろうって。で、なった後に、その……お礼参りみたいなことついでに、ずっとやりたかった山登りとかハイキングとかしたくて。調べたら初心者でもお手軽に行ける場所らしいじゃない? 房総三山の一つだけど、標高は四百メートルも超えないし」 「一番高くて三百八十メートルぐらいですもんね」 「うん。でもさ、ペア相手で仕事もプライベートもまとわりつかれてるあたしからハイキングに誘ったら断れないじゃない? いや、断ってくれていいんだけど、菜花の性格だから喜んで! とか言わせちゃいそうだし。それで……」 「多分私、なんかあっち方面に行ったことがある気がするんですよ。でも何かしくじったかやらかしたかで、モヤモヤした気持ちがあって……正直怖かったんです」  私の告白に美緒先輩の顔が固まる。まあこのタイミングでそんなこと言われてもだよね。 「でも、美緒先輩と一緒なら大丈夫だと思います。それを克服しようともしていたので。なので……喜んで!」  私も照れそうになったのを笑いで誤魔化した。 「ホント?」美緒先輩の顔がぱっと明るくなる。「キャンプブームが来たときは正直流行りもので乗る気はしなかったけど、今になってやりたくなってさ。澄んだ空気の中でぼんやりしながら好きなお肉焼いて食べたり、朝のコーヒーを楽しんだり」 「いっつも汗とか泥とか腐臭の匂いでぼんやりもできませんし、朝のコーヒーは所長が仕入れてる超安いインスタントですもんね」 「あのどこから仕入れてきたか分からないやつね」くすっと笑う美緒先輩。「最初はさ、軽いハイキングだけにしようよ。疲れ過ぎちゃっても息抜きにならないし」 「そうしましょう。あ、あのあたり行くなら、私、下調べしてあるんです。としまや弁当が──」 「え、マジ!? あのあたりにあんのっ!?」  他の何より一番大きい声で食いついた美緒先輩。思わずドン引きしてしまった後に爆笑してしまった。  釣られて美緒先輩も笑う。そして鳴る二人のお腹。そこにタイミング良くかかってきた電話は佐々野所長からで、今日のお手伝いのご褒美にご馳走してもらえることになった。  佐藤さんは用事があるということで合流した三人で向かったのは──ふさのいえ。  テーブル席が埋まっていたのでカウンターに並んで座る。ママさんが両手に華ね、なんて言いながら私と美緒先輩にレモンサワーを、佐々野所長には日本酒を出してくれた。 「改めてお疲れさま。明日も平和でありますように」  その合図で乾杯、そして一口つける。うん。仕事上がりの一杯はおいしい。非番だったけれど。 「今回は二人がいてくれて本当に助かったよ。日帰り旅行を潰しちゃって本当に申し訳ない。課長には言ってあるから、次こそ行ってきてね」  美緒先輩がレモンサワーを半分飲み干しながら苦笑いした。 「そもそも予約も何もしてなかったから大丈夫ですよ。もしかしたら行けなかったかもしれませんし。それより所長、最初から気づいてたんですか? 田中さんが元同業者だったって」  そこは私も気になっていたところだった。 「薄々ね。昨日までの十九回は全部二人がいる時だけだったよね? 行けばいつも休憩をさせてくれる。しかし世間話もそこまで長くない。そもそも娘さんは定期的に来ているし近所付き合いも良好。じゃあ他は? マトワリという単語で忙しいから体をぼっこさないように、なんていう人は……? そう考えたんだよね」 「あー……」  女性警察官は用を足すのにズボンを脱ぐ必要があって、だけど装備を外すのが大変すぎてトイレを控えようと水分を抜きがちになる。それで脱水症状を起こすことも結構あったりして、そういうのを知っていたからこそ、田中さんは私たちのトイレや水分に気を使ってくれていたんだ。  後輩の私たちを気づかってくれていた。その気持ちがお年を召してあんな形になってしまったのは残念だけれど、でも嬉しかった。 「美緒先輩も気づいてたんですか?」 「根拠はなかったけどね。だからちょっとカマかけてみたの。わざと聞こえるようにね。そしたら当たってたってだけだから」 「……だとしても、どうしてあの人たちがいるって分かったんですか?」 「菜花は部屋に誰か来たら、靴はつま先を外に揃えておくでしょ? でもあのおうちはいつも内向き──誰もいないから。だけど今日は外向きだった」 「泥棒をあげたんですか? でも勝手に入ってきたって……」 「違うわよ。誰かに気づいてほしかったの。玄関で靴を直すぐらいなら気づかれないでしょ?」 「あ、そうか。『お客さん』がいるって教えてくれてたんだ……」  はあ。もう私はため息しか出なかった。 「さあさあ。美緒ちゃんに菜花ちゃん。今日はお手柄だったそうね? 所長さんからあらかじめ連絡を受けておいたから、マスターにいいものを用意してもらったのよ」  ママさんが小皿をいっぱい持ってきてくれた。するとマスターがカウンターごしに料理を出してくれる。見るとお魚のマリネみたいなものだった。 「九十九里出身の佐々野さんは大のイワシ好きなんです。なので突貫ですがイワシのフルコースを用意させてもらいました」  おおっと声が上がる。誰かと思ったら隣の佐々野所長だった。本当に大好きみたい。 「イワシのゴマ漬けと南蛮漬けだ。これは私の大好物なんです。さあ、二人とも。いただきましょう」  そう言いながらも取り箸でささっと私たちにも分けてくれて、待ちきれない勢いで頬張る佐々野所長。その顔はいつも見せてくれる微笑みから三割増しで崩れた笑顔だった。 「さあ、次は団子汁ですよ。これも浜の名物です」  マスターがお椀を出してくれる。 「ああ、いい匂いです。うん? 違う匂いもする……もしやマスター、さんが焼きも……? 覚えていてくださったんですか?」  ふふっと笑うマスター。 「フルコースですからね。さんが焼きに天ぷら、なめろう丼まで控えていますよ? いま作っているので楽しみにしていてください」 「おお……!」  もうその目はうっとりとしていて、とても普段の顔からは想像のつかない表情をしていた。  それを見たママさんが笑いながらやってきて日本酒を注ぐ。 「所長さんはいつも忙しいし、こうして美緒ちゃん、菜花ちゃんに贔屓にしてもらってますからね。なので今日はマスターのお礼なんですよ。……さあ、飲んでください」 「ああ、申し訳ない。それではお言葉に甘えて……!」  ラベルを見ると梅一輪というお酒だった。九十九里にも地酒があるらしい。 「それにしても所長さん、ずいぶんと大立ち回りをしたそうね。しかも相棒が佐藤さんだったんですって?」 「それをどこから……!?」  ニヤリと笑うママさん。 「美緒ちゃんと菜花ちゃんは良かったわね。伝説のタッグを見られて。何せ二人は――」 「ああっ、ママさん。そこから先は……!」  どうやら佐々野所長には謎な時期があったらしい。ヤンチャをしていたのか、それとも……。しかもママさんとマスターさんはその頃の二人をよく知っているようだった。  苦笑いしながら二人と話す佐々野所長。その横顔越しに美緒先輩と目が合って苦笑いしつつ、頷きあった。  今日は佐々野所長をもてなそう。  まずは私から。 「所長。今日は確か奥様が迎えに来てくださるんですよね? じゃあ私からもどうぞ」お酌をする。「なので聞かせてください。あの技をどこで覚えたのか。まさか練習生だったんですか? それとも元プロレスラーなんですか?」 「えっ? いや、それは……」 「あたしのもありますからね?」お酌の手真似をしながらにっこり笑う美緒先輩。「あたしが聞きたいのは、術科訓練でやる気なさそうにしてたのは本気出すとまずかったからですか? それを副署長も知ってたから注意されなかった? 教えてください!」 「いやいや、その……あの……」 「さあ、二人とも。その調子でたくさん供述させちゃってね」  ママさんが煽る。両脇からお酒を注がれながらの尋問。それを想像して笑った。  佐々野所長もまんざらじゃない顔だった。  もう独り立ちしている二人の娘さんと私たちが重なってたりするのかな。  嫌々言いながらも話をしてくれる佐々野所長。なんだか私も姉と一緒に父親を労っているような気持ちになって、思わず微笑んでしまう。  そうして家族みたいなチームのささやかな晩餐は盛り上がっていった。
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