第五話

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第五話

 『一刻も 早く早くと 待ち焦がれ』──ドキドキドキドキ。  私は二つの意味で焦っていた。  一つは生まれて初めてのデートだから。二十年生きてきて手をつないだ男性は徘徊中のおじいちゃんだけという私が挑むビッグイベント。今日のこのデートの結果で私の世界線が大きく変わる、まさに分岐点になる。  二つ目は、これまでさんざんやってきた妄想旅行の初めての答え合わせだから。もう何も障害はないはず。私のシミュレーションがスーパーコンピューター並に正しかったのかが判明する。  今は六月。このまま一気に物事が進めばジューンブライドになっちゃう。  そんな風に妄想を逞しくしながら一人ドキドキしていたら──いきなりケチがついてしまった。  妄想旅行では朝七時に待ち合わせをして出発だったはずが、もうお昼を過ぎてしまっていたから。  居ても立ってもいられないしソワソワ焦燥感だけが募る中、ただ待つしかないこの状況は本当に苦痛だった。  でも、もうすぐ報われるはず……!  ピンポーン。インターフォンが鳴った。緊張が一気に高まっていく。リュックを手に深呼吸しながらゆっくりドアを開けると──、 「こんにちは、菜花さん。すいません、すごくお待たせしてしまって」  牛嶋係長だった。いつものダークスーツ姿じゃなくて、白いシャツにグレーのゆったりめチノパンにブラウンの革靴というラフなスタイル。  おお、妄想旅行通りのスタイルだ! やったあ、私!  でもサングラスは予想していなかった。漂ってくるイケメンオーラにハードボイルドさがプラスされて本当に格好いい。 「朝から変な一一〇番が続いて刑事課総出で対処していたのですが、やっと落ち着きました。菜花さん、行けますか?」 「こここんにちは。わわ私のほうは大丈夫です!」  緊張のあまりどもってしまった。 「菜花さん、普段の制服姿と違って可愛いですね」  ここも妄想旅行の時とほぼ同じセリフだった! 可愛いって! うれしはずかしいとおかし!  もう何を喋ればいいか分からないぐらいテンパりながら、寮の外に停めてあった国産車のSUVに乗せてもらう。  何かフローラルな香りのする車内とその助手席に座った自分をミラーで見て、デート感と彼女感が増してきて顔がぼっと火照ってしまった。 「あ、あの……牛嶋係長。今日はどういうコースで……?」 「菜花さんに教えてもらったコースで行きましょう。楽しそうです。しかしお昼になっちゃったのでちょこちょこ急ぐかもしれません。最後はやっぱりマザー牧場がいいかなって思っています。あのあたり土地勘もありますし。その後で海にでも寄れたらなって」 「はい。マザー牧場、楽しみにしてました! 予習もばっちりです。省くところは後でお話しますね」 「了解です。最初は佐原でしたよね? 早速行きましょう」  そうして出発した車内で、私は今日のプランを伝えた。  佐原で船遊びをして匝瑳の龍尾寺で伝説をその目にしてから横芝光町でソーセージを食べた後、マザー牧場で動物たちとふれあう。  本当だったら大網白里市で宮谷県についても話をしたかったけれど、マザー牧場には私も色んなことを確認するために行きたかったから。  行徳から国道357号に入って東関東自動車道に乗ると、いったん千葉まで下って一路北東へ。  車内に流してくれたベイFMを聞きながら牛嶋係長とのお喋りを楽しむ。  何をどんなテンションで話したらいいか悩んでいた私だったけれど、そこはさすが三十歳警部補のエリート。主にお仕事を絡めた楽しいトークで車内を和ませてくれた。  色々質問しても、きちんと淀みなく答えてくれる。  年上だなあと関心する反面、ちょっとだけ寂しい気もした。だって私のことを聞いてくれなかったから。  でもいきなりいっぱいお話したら先が持たないしね。そういう配慮をしてくれてるんだろうな。  そうして一時間後に着いた佐原は、平日ということもあってそれなりに空いていた。小江戸と呼ばれただけあって趣のある古民家が建ち並ぶその景観は、一瞬目をつぶっただけで私を江戸時代へとタイムワープさせてくれる。  辺り一面が時代劇に出てくる街並みそのもの。妄想旅行でもやった通り、町娘の気分になりながら旗本の三男坊ならぬ牛嶋係長の隣を歩く。  まさにシミュレーション通り。 「えっと……最初はここですね。伊能忠敬の家」  スマホでさっと調べながら歩いていく牛嶋係長。頼りになるなあ。  中に入った私は展示されている地図たちに大興奮してしまった。ひたすら歩いて作った地図がこんなにも正確だっただなんて。  そして佐原時代と呼ばれる彼の前半生の話を細かく知ってまた感動する。婿養子で入った酒屋さんを盛り立てながら名主として村の取りまとめ役をこなし、五十五歳で隠居してから学問に励んで日本地図を完成させるとか偉人すぎる。  十回に及ぶ測量の遠征では天候に弄ばれ病気にもなって、時には命を落とす測量隊員も出る中で大事業を成し遂げたその背中を見た気がした。 「いやあ、これだけの地図を書くのは大変だったでしょうね。あ、次は舟めぐりでしたか? そっちに行ってみましょう」  あれ? 牛嶋係長、まだそんなに見てなくない?  入館してまだ三十分も経っていないけれど……飽きちゃったのかな?  うう、惜しい。もっと見たい。伊能忠敬のそのやりきる力の原動力を知りたい。  でも今日はデートなの。  後ろ髪を引かれながら伊能忠敬記念館を出てすぐの橋を渡り、お店で受付を済ませて並ぶと、ライフジャケットを着けていざ乗船!  船頭さんのお話を聞きながら佐原の街並みを川から見上げる。ゆっくり進んでいく小舟でゆったりしながら時の流れを感じながら。  昔はこの感覚が当たり前だったんだろうな。テクノロジーが便利を生んだその代償は、ゆっくり物事を考える時間だったんだと思う。昔の人が思慮深かったのはそういう理由だった気もしてきた。  牛嶋係長はどうかな? ふとチラ見したらスマホをいじっていた。写真は撮っていないみたい。  舟遊びもつまらなかったかな。でもまだ次がある。 「えっと次は匝瑳でしたか? あそこに何かあったかな……と言っても私は富津と君津ぐらいしか知りませんが」 「分かりやすい観光スポットはないかもですね。でも私は見つけたんです。ドラゴンの物語を……!」  車に戻ると私はカーナビに住所を入れて車を出してもらう。 「龍尾寺。確かにドラゴンだ」 「ここには伝説があるんです」 「伝説、ですか? どんなのでしょう?」 「うふふ。それは行ってのお楽しみですね」  県道をひたすら南下すること三十分。龍尾寺の入口にある駐車場に車を停めて山門を目指して歩いていく。  初夏を過ぎた午後とあって日差しは少し暑いものの、空気が澄んでいて清々しい気持ちにさせてくれる。まさに参拝日和な雰囲気の中、山門をくぐって境内へ。 「あちこちにドラゴンが……!」  石灯籠に龍が巻き付いていたり、手水鉢にも龍が施されていたり。  弘法大師の掘った井戸や梵字の石碑もあって、それらを包み込んでいる庭園には色々な花が咲いていた。  少しだけトゲのあった気持ちもすっと和んでいく。 「菜花さん、ここにはどんな伝説があるんですか?」 「それはですね……」  住人と上司の間で葛藤した心優しきドラゴンの物語。バラバラにされた彼は祀られたことによって訪れる人々からの祈りを受けている。  牛嶋係長はどんな気持ちでその言葉を受け止めてくれたのかな。 「すごいですね。壮大な物語です」  あ、ここも妄想と一緒。 「そ、そうですよね。でもこのお寺だけ印旛沼より遠くてどうしてだろうって……」 「昔の人は想像力豊かだったんですね」 「え? あ、はい。そうですね」  やっぱり妄想デートと同じ反応だった。  お参りをして境内を少し見て回って車に戻る。  もしかして、もしかすると。  牛嶋係長もトロフィー派なのでは? スタンプラリーみたいに、行って、見て、終わり! そんな人なのでは?  私は混乱し始めた。  私の考えた知的好奇心が満たされるデートプランを牛嶋係長に楽しんでもらいたい反面、以前に妄想した私の机上デートのシミュレーションが当たっていたことに自信を持ってしまったから。  それでも、それでも。  私は牛嶋係長に次の横芝光町へと向かってもらった。  駅前にある駐車場へ車を停めて横芝駅前情報交流館ヨリドコロに入り、施設内にあるカフェでランチ。二人ともパスタを注文しつつ、お店の方に無理を言ってお土産用のソーセージを焼いてもらった。 「これが伝説の大木式ソーセージですよ」 「牛ポークソーセージですね。でも……大木式? 聞いたことありません」  食事中の会話としては申し分のないと思う。横芝光町出身の大木市蔵が先見の明をもって挑んだ本格的なソーセージの製法の話を開陳した。  明治維新によってガラッと変わっていく社会。全てが新しく試行錯誤で進んでいく世の中を楽しめる人がいた反面、一方でしっかりした足場のない浮遊感に不安しかない人たちも大勢いたはず。  そんな混沌とした時代にこれから肉食がスタンダードになると肌で感じ取り、それを信念にして異国人に弟子入りまでして突き進んだ彼を褒め称えた。  お店の人からも「地元の人より知っている」と誉められる。  だけど。 「うん、おいしいです。明治の頃にこの味が作れていたのはすごいですね」  という牛嶋係長のコメント。何て言うか、その……薄っぺらい。  どうして? 私の博識ぶりを知りたいんじゃなかったの? 知的好奇心を刺激する旅がしたかったんじゃないの?  もう分からなくなってしまった。  食事を終えた私たちは当初の予定通りマザー牧場へと向かう。  車内では依然として話をしてくれたし、県警本部で起きた面白いエピソードや関わった事件でのトンデモな話題も教えてくれた。  でも、違うの。私が求めているのは旅の話で、佐原の街並みや伊能忠敬の業績について語り合いたいし、ドラゴンの悲しい話で考察したり、明治期の偉人のエピソードで当時に思いを馳せたいの。  これって私が我が儘なだけなのかな。  横芝光ICから銚子連絡道路という有料道路に乗って南西へ。そして千葉東ICで東関東自動車道の館山線に入って一路南へと進んでいき君津ICで降りると、もうそこは山の麓だった。  看板に従って鹿野山を登っていくと、一時間三十分ほどかけてようやくマザー牧場へとたどり着く。  すでに十七時近い。 「すいません。私の仕事のせいで遅れてしまって。あと三十分ぐらいしかいられないようです」 「私のほうこそ色々寄り道させてしまってすいません」 「それじゃさっと見て回りましょうか」  それからは本当にスタンプラリーみたいな観光になってしまった。  広い園内を早足で巡っていく。  ふれあい牧場でヒツジにふれてウールの暖かさを知り、カピバラを撫でて毛の固さを理解すると、次はうさモルハウスでウサギとモルモットを抱っこしようとしたけれどやっていなくて断念。  トンネルをくぐってうしの牧場エリアで放牧されているウシを見たら──タイムリミットの十七時になってしまいあえなく終了となってしまった。  駆け足の牧場。これほど楽しくないものはないと思う。  本当なら動物たちとゆっくりとふれあって、餌をあげてみたりその行動を追ってみたりして、彼らがどんな気持ちで生きているのかを知りたかった。  でも──牛嶋係長は楽しかったのか、直前に買ったお土産のクッキーを手に満足そうにしている。 「バタバタしてしまってすいませんでした」 「いえ……」  取り繕う言葉も出ない。 「……そうだ。近くに展望台があるんです。いい眺めが見られるんですが、どうですか?」 「あ、はい。お願いします」  夕焼けでオレンジ色に染まる空の中、マザー牧場からいったん山を下って富津市の市街地に降りると、そこから東へ進み君津市に入ってから再びマザー牧場のある鹿野山へと登っていった。  そうして着いたのは鹿野山九十九谷展望公園。  美緒先輩が行きたいと言っていた場所だ。  公式サイトでは夜明け前から日の出直前、そして日の入り前の光景が墨絵にも例えられるぐらい幻想的な景色が見られるとあったのを思い出す。 「うわ……綺麗」  雲海のかかった山々。  そこに沈みゆく太陽が雲の切れ間から淡いオレンジ色の光芒を降り注がせている。  遠くに点き始めた街の明かりが、どうしようもなく大きな自然の中で小さく息づく人々の暮らしを映し出しているようにも見えた。  儚く美しい情景の中にも、どこか力強さとしぶとさを感じさせる。  そこには人々の歴史も何もかも飲み込んだ、何かがあった。  でもこんな話をしたところで牛嶋係長は意にも介さず「そうですね」ぐらいで済まされてしまうと思う。  これが美緒先輩なら乗ってくれたり違うことを言ってくれるのに。  少しだけ悲しくなった。 「すみません。わざわざ遠回りするようなコースで来てしまって」  牛嶋係長が遠くを見ながら軽く頭を下げた。 「……日没には少し早かったですもんね。あのままここで待っていたら寒かったでしょうし。お気遣いありがとうございます」 「そう言ってもらえると嬉しいです。ここの景色を菜花さんにも見せたかったので……」  本当なのかな。そう言いたくなった気持ちをぐっと抑える。 「来て良かったです。何というか、すごく懐かしい気持ちになりました」  来たことないはずなのに。これがデジャヴなのかな。でも、前から感じていたモヤモヤが強くなっている気がする。  それは旅行に対する不安なのか、それとも牛嶋係長へのものなのかも分からない。  そう思いながら見上げると、彼の表情は一瞬だけ固くなったように見えた。 「あと数分で日没です。でもここの景色は、太陽が沈んで明かりがなくなってからがいいのですよ」 「お詳しいですね。見てみたいです」 「もちろんです。良く見える場所があるんですよ。良かったら一緒に行ってみませんか?」 「お願いします」  彼の後をついて展望公園の人が大勢いる展望台から少し離れた場所へと歩いていった。  その大きな背中を見て思い出してしまう。前の恋人がここで姿を消したこと。  そこに私を連れてきたのは、七五三の言う通り辛い思い出を私で上書きしたかったから?  途中の自動販売機で缶コーヒーを買って渡してくれる。優しい。  そうして人気のない場所へ連れて行ってもらった。その頃にはもうすっかり陽も落ちていて、周りに街灯もないので深夜はほぼ真っ暗になるような場所。  ここでキスされちゃうのかな。でも今の牛嶋係長にされるのはちょっと違う気がする。  失踪した前の彼女さんはどこで消えたんだろう。これだけは聞きたくても聞けない。私は身代わりなの? それとも上書きしたいほどの相手なの? 「おお……」  そんな気持ちを晴らしてくれたのは──天の河だった。  時間が経つにつれてはっきりと見えてくる空一面に広がる星たち。一番明るいのは宵の明星、金星かな?  そしてその中をミルクを零したような白い星の帯がさあっと流れている。  私たちの銀河がそこにあった。  東京に近い市川では見られない光景。  ううん。生まれてからこんなに綺麗な空を見たことがない。 「あれ……?」  違う。私はこの空を見たことがある。 「どうしました?」 「あ、いえ……」  あった。それもかなり前。  気持ちの奥にあったモヤモヤが形を作っていく。  私は確かにここへ来たことがある。 「……もしかして思い出しましたか?」 「え……何をですか?」  思い出した? この景色を? 「菜花さん。いえ……なのはなちゃん」  なのはな。それは私が小さい頃に呼んでいた自分の名前。濁点が言いづらくて同じ意味の言葉でずっと呼んでいた。 「どうしてそれを……?」 「どうしてでしょうね?」  そう言ってふふっと笑ってから、牛嶋係長は飲み干した缶コーヒーをくしゃっと潰して地面に置いた。  風に吹かれてころんと転がっていく。 「あ……」  ママ! パパ! そんな声が頭の中に響いてきた。  次の瞬間、私は頭の中に映像が流れるのをしかと見た。それは、あの展望公園で迷子になってしまった私の見ていた視界だ。  真っ暗な空にミルクを流したような、あの綺麗な天の河がどこに落ちているのかを探していたら両親とはぐれてしまった。  周りに誰もいない。ママもパパも見えなかった。  綺麗に見えていたはずの星空が次第に怖くなっていく。ただ星が煌めく世界に取り残されてしまったように感じた。  心細い。怖い。  びゅうと風が吹く。すると目の前にコーヒーの空き缶が転がってきた。 「あの時の……!」  頭の中にあったモヤが晴れていく。  そうだ。私は市川から東に行ったことがある。  四歳ぐらいの時に両親と一緒にマザー牧場を訪れて、夜景が綺麗だからとこの鹿野山へ連れてきてもらったんだ。  どうしてそれを忘れていたんだろう。 「……思い出したようだね」 「あっ……」  その声に顔を見上げた。  いたのは笑みをたたえている牛嶋係長の顔ではなく、あの夢に出てきた醜悪な顔の化け物だった。  そいつに落とされ、悲鳴も上げずに闇の中へ消えていった女の人。  びゅうと風を切る音だけが聞こえていた。 「あ、あの時……迷子になって右往左往していた私は見たんです。あなたが恋人を突き落としたその瞬間を、その顔をしていたのを……」 「やっぱりお前だったか」  口調も変わった。そこにイケメンは残っていない。まさに化け物がいた。 「ど……どうしてあんなことを……!?」  はっと笑われる。 「ヤバい女に手を出したらガキができたから結婚しろ、さもなければ署に行くと脅されたからな。正当防衛だ。完璧な計画だった。実際にここまで逃げ切れてたしな。でも『なのはな』とか言うガキに見られてたのだけが心残りだったんだよ。あれから十五年も……」 「まさか私を捜してたんですか……?」 「いいや? 本部勤務の頃には忘れかけてたさ。でも市川南西に来て『菜花』のお前を知ってピンと来た。こいつだ。調べたらお前の親がうろ覚えのナンバーと同じ番号の車に乗ってた。間違いない。もう覚えてないようだが思い出されても困る。だから──」  一瞬だった。  その両手がすっと伸びてくると、私の喉を掴んだ。 「うぐっ……!」  力が強い。私は両手でその指を外そうとしたけれどビクともしなかった。 「女なんてのは顔のいい男にはコロっと騙される。警察官のお前ですらな。あいつもそうだった。ここで死んでもらう。そうすりゃ俺も枕を高くして寝られるってわけだ」 「わ、私は……」 「どうでもいい知識ばっかり披露してバカみたいだったぜ? オタク女にしちゃカラダはそこそこいいから、せめて一発してから殺せば良かったな。ははは」  ひどい。こんなところでこんなヤツに殺されるなんて。  助けて。誰か助けて……!  声も出ない。こいつの手も腕も解けない。  息が吸えない……!  頭の中が熱くなっていく。酸素が足りない。目の前がかすんでいく。何もかもが真っ暗になっていく。 「み……みおせんぱ……」  絞り出すように言った、次の瞬間だった。 「とうっ!」  ドン! 衝撃があってヤツの手から力が抜けた。その隙を突いて咳込みながら逃げ出す。 「てめえっ、待てっ!」 「た……たすけ……!」 「もう大丈夫よ! 菜花!」  すっと差し出される手。  思わず掴んだその手は柔らかくて、でも力強く私を引き寄せて抱き留めてくれた。  お巡りさん? そうだ。私の大好きなお巡りさん! 「み……美緒先輩!」 「もう大丈夫よ。呼吸を整えて」 「お前は……加瀬か。どうしてここに……」 「ペアっ子のピンチはペア長が助けるものなんです。……私もしかと聞きましたよ。前の恋人をどうやって殺したのかを」 「証拠にもなり得ないただの戯れ言がどうしたと?」 「だとしても菜花への殺人未遂は立派な犯罪ですよ? この目で見てますからね」 「だったら二人まとめて──」 「それでよく警部補になれましたね。私がここにいるってことは、応援がいるはずだと気づきませんか?」  美緒先輩が後ろをちらっと見やる。  そこには数人の人影があった。そのうちの一人は今にも噛みつきそうな目をした七五三だった。 「牛嶋係長。朝の一一〇番の悪戯はあなただったんですね? それで夜になるまでの時間稼ぎをした。殺人未遂に偽計業務妨害も追加ですね」 「くそっ!」  舌打ちをしたヤツがポケットからナイフを取り出す。そして襲いかかってきた。  違う。ナイフで威嚇しながら逃げるつもりだ。  ドン。私は美緒先輩に突き飛ばされた。七五三が私の体を受け止めながら声を張り上げる。 「牛嶋係長! 諦めてください!」 「くそガキどもがっ!」  ヤツがまっすぐ美緒先輩へ向かっていく。  ナイフの刃が星明かりに煌めいた。 「あぶなーいっ!」  私も叫んでいた。  でも。  美緒先輩は初撃をいとも簡単にあしらうと、手首に手刀を打ち込んでナイフを落とし、それをつま先でけ飛ばした。 「くそっ!」  殴りかかるヤツ。でもその拳は宙を切った。  美緒先輩がヤツの伸びきった腕を掴もうとしたものの、はね飛ばされる。 「所詮女だな!」 「せいやーっ!」  七五三が掴みかかっていった。  その体に蹴りを入れるも、避けた七五三が足を持った。だけどもう片方の足で頭を勢いよく蹴り飛ばされる。 「柔道バカが! のろいんだよ!」  蹴った反動で倒れそうになった体を元に戻すと、ヤツは勢いよく駆け出した。  私は体が動かなかった。逃げられちゃう。 「まずい!」 「待ちなさいっ!」  二人が追いかけようとしたその時。  彼は突如として現れた誰かにぶつかってよろめいた。 「どけ! じじい!」 「それが先輩に対する口のききかたかな?」  それはジーンズにティシャツ姿をした怒れるプロレスラーだった。  違う。眉を吊り上げ歯を食いしばっている──佐々野所長だった。  ぶっとい腕にぶっとい体。その場にいる誰よりも大きく、その視線は天敵に睨まれたような怖さがある。  でも今は何より頼もしい上司。 「私の部下たちをひどい目に遭わせてくれたようだね。やるかい? 骨折で済むかどうか自信ないよ?」  ニヤリと笑う佐々野所長。一瞬ひるんだヤツも強ばった笑みを浮かべた。 「は、はは……聞いてた通りの筋トレ馬鹿っぽいな。トレーニングと実践は違うんだよ。黒帯の俺にかかれば……」 「筋トレ馬鹿とは言ってくれるね。ただの筋トレだと思っていたら大間違いだよ?」 「何の話だ? 上司が馬鹿だから部下もあんなオタクになるんだな」 「では本物の格闘を見せてあげよう」  それがゴングになった。怒れる佐々野所長がヤツに掴みかかっていく。  私は上司の本気を見た。そして私は恐ろしい出来事を目の当たりにする。  大の大人が大の大人を、まるで子供を相手にするようにいたぶる姿。圧倒的な力の差。満腹のライオンがネズミを弄ぶような、王者だけに許される行為。  逃げようとしても捕まえ、寝ころんでも立ち上がらせる。そしてひたすら技を食らわせ、痛めつけた。  分かった、負けだ。そんな声も届かない。ただヤツはなぶられ続けた。  そしてそれは五分ほどで終わる。  白目を剥いて倒れたヤツに七五三が手錠をかけて──全てが終わった。    *  それからの一週間は休暇をもらった。  一つはあの人に殺されかけたショックを癒すよう、心療内科や警察嘱託の医師に診察を受けてゆっくり過ごすようにと言われたため。  じゃあ実際のところゆっくり出来たのか? 答えはノーだった。むしろ普段より激務だったと思う。  千葉県警察本部の捜査一課から受けた何回もの聴取。  あの人からの安易な誘いに乗った私にも過失があるなんて言う人はいなかったけれど、デートの詳細を詳しく聞かれて「妄想癖のある歴女」扱いにされてしまったし、両親も同席しての聴取ではエリート刑事を前にテンションの上がった父親が小さい頃の私の恥ずかしいエピソードを開陳していらない恥をかかされてしまった。  鹿野山での立ち会いにも数回連れて行かれた。  あの人は黙秘を貫いていたため私の記憶が唯一の手がかりになってしまい、両親と一緒に当時の記憶を思いだしながら犯行現場の特定作業にも駆り出されちゃったの。  あれから十五年も経っているから無理だよねと思っていたものの、崖下で動物にも荒らされていなかったのか──遺品と遺骨が見つかった。  詳細な鑑定結果は出ていないけれど、骨盤から女性なのは間違いないらしい。  近くの掘り起こし作業では参考人で療養中のはずの私も手伝うことになって泥塗れになった。  そんな毎日を過ごしていたらあっという間に休暇が終わってしまい、地域課長からの電話で来週から通常勤務への復帰を言い渡されてしまう。  もちろんPTSDとかで業務遂行に問題が出たらサポートしてもらえる前提だけど、私はもう心身ともにくったくただった。  もうダメ。誰か。  助けを呼ぼうと思ったら――女神が来てくれた。 「本当に、本当にお疲れさま。さ、ご飯食べに行こ!」 「美緒先輩……!」  平日の夕方。  駅から帰ってくる人、向かっていく人。その流れに乗って美緒先輩の後をついていくと、たどり着いたのは──ふさのいえだった。  でも何かおかしい。  もうお店はやっている時間帯のはずなのに人の気配がしないし、そもそも店の入口には準備中の札がかかっていた。  どういうこと? だけど美緒先輩が躊躇もせずに引き戸を開けて入っていく。すると中にはママさんとマスターさんしかいなかった。 「いらっしゃい。美緒ちゃんに菜花ちゃん」 「いらっしゃいませ。今日は美緒さんからのリクエストで貸し切りですよ」  えっ。私が美緒先輩を振り返ると、照れくさそうにえへへと苦笑いした。 「できたら二人でゆっくりご飯を食べながらお疲れさま会をやりたいなって話をしたら、ママさんとマスターさんが貸し切りにしてくれるって……本当にありがとうございます」  美緒先輩が深く頭を下げる。慌てて私も倣った。 「何言ってるの。二人が本当に大変だったのは私たちも分かってるんだから」  ママさんがそう言ってレモンサワーを私に、梅一輪を美緒先輩に出してくれた。  戸惑う私。貸し切っちゃっていいの? お店だって他のお客さんを入れたほうが儲かるはずなのに。  するとマスターさんがにこっと微笑んだ。 「さあ、乾杯をどうぞ。私もお二人におつまみを出したいのです。とっておきのものを……!」  そう言われてありがとうございますと言いながら、美緒先輩が私の無事を祝って乾杯してくれた。  二人して一口つけた後、視線が合って思わず笑ってしまう。何だか照れくさいな。 「さあ、まずは海鮮の盛り合わせです。これを店で出すのは初めてですね。緊張します」  そう言ってマスターさんがカウンターの脇から持ってきてくれたのは、大きな船盛りだった。  一目見て分かるのは尾頭付きのタイと、サシの入ったマグロ。それ以外にも三種類ほど乗っていて、人生初の船盛りに私のテンションは爆上げだった。 「すごーい! 私、初めて見ました!」 「それは光栄です。ぜひお二人にと探してきたのです。尾頭付きは飯岡のマダイです。ビンチョウマグロと上りカツオは銚子、イワシはもちろん九十九里で、マアジは勝浦からです。どれも今朝水揚げのものですから、新鮮ですよ」  えっ。そんなに色んなところのお魚を今日の朝に?  恐れ多くなっちゃったけれど、せっかく造ってもらったのだからとマダイをわさび醤油でいただいた。  うん。身が締まっていてほどよい歯ごたえと甘みがおいしい。  次はカツオ。前に食べた時は少し癖があった魚だったなと思いながら、ママさんに出された別のお醤油で食べる。  上に乗せた薬味のネギと生姜の香りとともに、甘い醤油がカツオの淡白な味と絡まって大人な味わいをさせてくれた。  カツオってこんなに食べやすかったんだ。  それから順当にマグロとマアジを食べたところで気が付く。 「ふふっ。おいしくて無言になっちゃうね」  美緒先輩もうっとりとしながら箸を進めていた。 「そうですね、おいしすぎてバクバク食べてました。……それで、その……こんなタイミングで恐縮ですが」  きちんと面と向かって言わなきゃいけない。私は椅子を座り直して美緒先輩を振り向くと、深く頭を下げた。 「あの時は、助けていただいて本当にありがとうございました。私、助けてもらわなかったら、きっと……」  すると美緒先輩が唇に人差し指を当てる。 「お礼はいっぱい聞いたからもう大丈夫。だって大切なペアだし、千葉県の治安の将来を担う大事な後輩なんだから。あたしは菜花を守るから、菜花も守るものができたら全力で守ってね」  嬉しい。私にも守るべき後輩ができたら同じように振る舞えるか心配だけど、それは美緒先輩から渡された大事なバトンだから、やらなくちゃいけない。 「……はい。私、頑張ります!」 「うん。一緒に頑張ろ」  美緒先輩が手を差し出してきた。私は迷うことなくその手を握った。 「それにね。このタイミングだから言うけど……お礼を言わなきゃいけないのはあたしの方なのよ」  そう言って美緒先輩がまたお酒を飲み始めた。 「え? ……どういう意味ですか?」 「捜査一課の聴取でも知らされてなかったでしょ? あの場所になぜ私が来たのか。七五三くんや佐々野所長まで連れて」  そう。そこだけが疑問だった。  あれから美緒先輩とは別々に聴取されたし、勤務時間も分からないから会って話すタイミングも分からず、メッセージで聞けるような内容でもなかったからそのままになっていたの。 「……どうしてあの場にいたんですか? 捜査一課から口止めされてたんですか? いつからあの人を疑ってたんですか?」  子供みたいにいっぱい質問してしまった。でも美緒先輩はにっこり笑顔で受け止めてくれる。 「一課には私から口止めしてもらったの。これは私だけの大切な思い出だから。いつからかと言われたら、最初から疑ってたのよ。それもね、あの人がうちの署に来てからでもないの。もっと前……十五年前から」 「じ、十五年前……?」 「……あのね」美緒先輩が私をまっすぐ見つめてきた。「あの場所が二回目だったのは菜花だけじゃないの。あたしもなのよ。……あの日、あの時、あの場所で──あたしは四才だったなのはなちゃんと会ってるの」  私はスマホアプリで補正されるよりも大きく目を見開いた。 「ま……マジですか」  すっと横からテーブルに出されたのは焼いたハマグリだった。  美緒先輩を真似して私も醤油を少し垂らしてだし汁をすすると、その大きな身にかぶりつく。  これもまたおいしい。出汁が詰まっている。うま味の固まり。  レモンサワーが進む。 「何度か言ったけどさ。あたし、十七の頃にスクーターで千葉一周旅行したのよ。端から端まで、チーバくんの輪郭をなぞるようにね。何でやったかって言うと……まあ反抗期よね。あたしにとっちゃ親への抗議みたいなもんだったけど」  ぽつりぽつりと話してくれた。  美緒先輩の家は物心ついたころから父子家庭で、お父さんは半グレみたいな感じで法律のグレーゾーンとかダークゾーンで蠢いてはお金を稼いでいたらしい。  アロハとスラックスにサンダル姿のサングラスおじさんという外見の通り、性格は荒くて周囲とはしょっちゅう揉め事を起こし、美緒先輩とも毎日にように口喧嘩をする関係だったとか。 「反面教師よね。あたしはあんな風になりたくなかった。だから警察官採用試験を受けるって言ったら大喧嘩になってね。まあ半グレ親の敵になるんだから反対されるのは分かってたけど……だから自分探しの旅に出たの。まあ体のいい家出よね。実際、親の財布からお金盗んでいったし」 「さすが美緒先輩……女子高生でその行動力はすごいです」 「すごかないわよ。ただの衝動だったんだから。結局やりたいことなんて見つかんないし、途中で何回もナンパされて襲われかけて、むしろ警察官になる意志が固まったようなもんよ」 「すごい大冒険だったんですね。想像もつきません」 「妄想旅行してたのに?」  ニヤっと笑う美緒先輩。あっ、この感じ。私がシミュレーションと称して妄想旅行していたのを捜査一課から聞いたな? まあいいや。 「それより、何で四才の私を知ってたのか教えてください」 「想像つくでしょ? チーバくんの輪郭はなぞったけどまだ日にちもあったから、マザー牧場でのんびり遊んで夜に鹿野山九十九谷展望公園に寄ったの。もうその頃はさ、何だか全部面倒臭くなって、地元の適当な会社に就職しよって半分決めてたのよ」  美緒先輩ならどんな会社のどんなポジションでもやっていけるとは思うけれど。 「寝袋もあるし、空一面の天の川を見ながら野宿しよって場所を探してたら……迷子でギャン泣きしてる幼女が登場してね」 「それが私だったんだ……」  うんと頷く美緒先輩。  ママさんが横からそっと差し出してくれた貝と野菜のお味噌汁をいただく。  ハマグリみたいに旨味の詰まった大きな貝はホンビノスという船橋の名産らしい。野菜はセリというらしく、三つ葉みたいな外見と似た味がした。 「自分のことを『なのはな』って呼んでてね。一緒にパパとママを探して引き渡したの」 「あ……」  記憶がフラッシュバックする。  優しく手を握って落ち着かせてくれた人。星明かりをバックに微笑んでくれたその人は確かにイケメンで、まっすぐな目をしていて、背が高くてしっかりした体つきで……。 「あの時の……お巡りさん……!」 「ふふ……思い出したみたいね」  無条件に安心できる人。それは顔だけイケメンなあの人じゃなかった。 梅一輪をお代わりして顔を赤くさせているけれど、私を警察官として育ててくれている大好きな人。 「あの時のあたしは迷子だった菜花を助けたけど、あたしも菜花に救われたのよ。女だと見られたくなくて、髪もバッサリ切ってブルーのワイシャツにズボン姿だったあたしを『お巡りさん』って言ってくれて。こんな私でもそう見えるんだ……そう思ったら決意してた。あの時、菜花に言われなかったら、今頃親父と毎日口喧嘩の日々だったわよ。……って、きゃあっ!?」  私は思わず美緒先輩に抱きついてしまった。なんかもう言語化できない。好き。好きすぎる。 「どうどう。ほら落ち着いて。レモンサワー」 「あい……!」酸っぱ甘いお酒で呼吸を整える。「美緒先輩はその時に見たんですか? あの人の犯行を?」 「その瞬間は見てないわよ。でも女の人と一緒に入っていくあの人は見た。その後に一人で出てきたのがおかしくて、観察してたら菜花の後をついてくるじゃない。ヤバって思ってあなたを保護したの。全体的におかしかった。瞳孔が開いてて呼吸も浅くて早くて……まるでうちの親父が人を半殺しにしてきた時みたいだった。直感でね、あいつが何かやったのをこの子が見たんだろって思ったんだ。案の定、あいつはしばらく後をつけてたし……」 「知らなかった……」  それをずっと覚えていてくれたんだ。  私の名前が特徴的だったせいもあると思うけれど、やっぱり美緒先輩の観察力と記憶力がすごいからだ。 「もしかして、あの人から渡されたマザー牧場のチケットを奪ったのも……」 「あっちは気づいてなかったけど、こっちは気づいてたからね。二人きりにさせたくなかったんだ。よくないことしか想像できなくて」  守ってくれていた……! 「美緒先輩がマザー牧場に誘ってくれたのは、事件のことを思い出させるためだったんですね? 早く思い出せ、危険なヤツだって気付け、って」 「うん。あのイケメンで口説かれたら、普通はデートぐらいしちゃうでしょ? 実際そうだったし。なるべく張り付いてブロックしてたけど、それでも勤務があるし限界もあるからね」 「でも……行きませんでしたね。行けなかったのもありますけど」 「だって、いざそうなったら……怖くなっちゃったのよ。菜花は知らないと思うけど、当直とかで寝てるときにうなされてたの。迷子になって、パパとママを呼ぶけど見つかんなくて、最後はギョロっとした目で見ないでって……あたしのせいでトラウマが蘇って菜花が壊れちゃったらどうしようって……」  胸の奥がじーんと熱くなる。高鳴りもしてきた。  それと同時に流れ出す涙。もう止まらなかった。 「わ、私……何度も何度も美緒先輩に助けられて……!」  声を上げて泣いた。何て素敵な人なんだろう。  つきまとってるとかお節介とかトロフィー派とか言ってた私を殴り飛ばしたい。私のバカバカ! 「ちょっ、菜花!」  目の前の女の人にいますぐ石油王が求婚して何の苦もない人生が送れますように! もう誰もがうらやむスーパー幸せになってほしい! いや、なるべきだ! 「なに自分の頭叩いてんのよ! 落ち着け!」  それから私は何度も美緒先輩に謝りながら、お水を一杯もらって落ち着いた。  取り乱してしまった。でも美緒先輩大好き。  あやうく事案になるところだった。でも美緒先輩愛してる。  ダメだ、まだ脳がバグってる。 「これは私からお二人へのプレゼントです。下手くそで申し訳ないですが……」  そう言って少し恥ずかしそうにマスターが持ってきてくれたのは、海苔巻きだった。でもただの海苔巻きじゃない。 「すごーい! 切り口に絵がある! 字も! ……祝、菜花、美緒……!」 「これは千葉の郷土料理で太巻き寿司というものです。ハレの日に海苔巻きの中に絵や図柄、字を入れてお祝いをするんです。二人がきちんとつながった、それをお祝いして……おっと!」 「マスターさん大好き!」 「菜花ちゃん? お水を──」 「ママさんも大好き!」 「ああ、もう酔っぱらっちゃって……」 「美緒先輩愛してる!」  ちゅっ。 「ちょっ……! ほっぺにキスしないでよ! あんたのことは大事だけど、そっちの趣味はないんだからね!」 「安心してください! 私もありません! でも私につきまとってたじゃないですか! あの人から守るためだけですか!?」  何聞いてんだ、私。 「それもあるけど、ただあたしが淋しがり屋ってだけだから! ああ、もう! 離れなさいって!」  それからはマスターさんとママさんも混じって四人でのパーティーとなった。  玉子焼や桜でんぶに高菜、干瓢で作られた太巻き寿司をいただきながら、残ったお魚のアラ汁を飲み、私は何杯目か分からないレモンサワーに、美緒先輩は千葉の地酒をいくつも味わっていた。  次第に美緒先輩のテンションも上がってきて、こうなる。 「よし、明日は非番! 乙女二人で南房総デートドライブしよう!」 「賛成です! 私の考えたとっておきのデートプランを開陳しますよ! あ、そうだ! いいもの持ってきたんです!」  そうして私はリュックから妄想旅行で使った地図を広げると、ベタベタ貼ってある付箋を指さしながら美緒先輩と行ったプランの全てを伝えた。  それはもう情感たっぷりに。野島埼灯台で無理やり昼を夜にした下りでは笑ってもらえた。  マスターさんからも色々と情報をいただきながら、今度こそはと美緒先輩がレンタカーを予約する。ママさんにクーラーボックスを借りてもう準備万端。  後は行くだけ。 「さ、そうと決まればまだ飲むよ! 菜花には男を見る目もしかと教えなくちゃいけないんだから!」  美緒先輩が日本酒のグラスを掲げると、ママさんもアドバイスしてあげるとノリノリになって、マスターさんが苦笑いしながらゆっくり飲み始める。  そうしてふさのいえの夜は更けていった。
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