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送り狼と紅花の炊き込みご飯 2
促されて入った中はどこか古めかしかったが小綺麗で統一感のある店内だった。木目のあるテーブルが並び、カウンター越しに調理場があるのが見える。それだけ見れば小綺麗な和カフェや小料理屋に見える。店の雰囲気を変えているのは店の奥の壁一面の木箪笥だった。床から天井の際までびっしりと小さな引き出しが付いていて、中身が書いてあるのだろう札が下がっている。
「お釜発見! いい匂い! 炉善よそっていい?」
「勝手に触んな。食いたきゃ出すもん出せ」
「うふふ、今回はじゃーん! 私の抜けた歯!」
そう伊地知が取り出したのは大きな牙だった。彼女の口の中どころか手の中にすら収まあないサイズの牙を、彼女は自分の歯だと言ったのだ。
思わず身体を固くするのに気づいてか、橘が両肩を強くつかみ椅子に座らせた。ばくばくと心臓が嫌な音を立てる。へらへらと笑っている伊地知は、人間じゃない。
「……まあ使えそうだな。蒐集家には売れる」
「やった! 何食分?」
「今月いっぱいは突然来ても問題なく飯食えるくらい、だ」
「おお……私の歯、結構高いわね」
「毎日は来んな。いつもの頻度での話だ」
頭上で繰り広げられる会話はひどく軽々しいが、人としておかしいことばかりだ。理解が追い付かず、頭がパンクしそうになる。また逃げ出したくなるが、ここよりもずっと夜の山の中の方が怖かった。何より、私の肩にかかったままの橘の手がひどく温かくて、落ち着いた。緊張も焦りも手のひらから吸われている気分になる。
「……大丈夫だ、落ち着け。俺もそこの黒い女もお前に何かしようってわけじゃない。ここに連れてこられたのはあいつがお節介焼いただけだ。俺もお前が帰りたいっていうなら夜明けに街へ帰す」
ゆったりとした低い声が降ってきて、いよいよ力が抜けてしまった。そもそも私にはここにいる以外の選択肢がない。わけのわからないものたちが夜の山にいるとわかった以上、一人で逃げられないことは明らかだった。ならもうこの状況に順応してしまった方がいい。きっと何か悪い夢だ。夢なら理解できなくて当然。朝が来たら何もかも消えてなくなるのだから。
「とりあえずご飯! ご飯だ! 私はお腹が空いたぞ炉善!」
「黙って席に着け」
伊地知から受け取った牙を臙脂色の布で包み、小さな引き出しの中へとしまった。
調理場へと向かうと湯気が上がりいい匂いが店の中へと広がる。きっとさっき伊地知の言っていた炊き込みご飯と煮魚なのだろう。どこか懐かしいような匂いを嗅いでいると、空腹であることを思い出した。お腹が鳴るほどではないけれど、つい調理場に立つ橘の背中を見てしまう。
「もう逃げないでよ。ひとまず一緒にご飯を食べる。もう夕食時も過ぎてて遅いけど、晩御飯を食べずにお腹空いたまま寝るなんてお嬢ちゃんも嫌でしょ?」
私の斜め前に座った伊地知に、あいまいに頷いた。なんと返したらいいのか分からなかった。隠すことなく、彼女の頭の上の耳はぴんと立っているし尻尾は落ち着きなく揺れている。さっきとは違い、なぜか怖くはなかった。目の前にいるのは人じゃない。けれど私に対する敵意だとか、害意だとかがまるでない。私のことを怖がらせないように気を使っているのがわかった。
「ううん、自己紹介がまだだったわね。私は伊地知。見ての通り、人間じゃないわ」
ぴくぴくと耳を動かして見せる伊地知に、頷いた。
「狼女、とか?」
「半分あたりで半分はずれかな。私は”送り狼”」
「おくりおおかみ?」
送り狼、というと帰りに「家まで送るよー」などと言ってぺろりといただくアレのことだろうか。送り狼をすると言えば男性のイメージだが、目の前の人外の伊地知は確かに肉食系に見える。
「絶対考えてること違うわね。送り狼っていうのは帰り道の人の後を追ってその人が家に帰るまで守る妖のことよ。俗っぽいやつじゃないわ」
「あ、妖……。妖だけど、守ってくれるんですね」
「基本的には守るわよ。送り狼に憑かれながら転んだりすると食い殺すけどね。でも送っていった後にお礼をくれたりする相手のことはよく守るわ」
簡単な自己紹介、とでも言うように伊地知は話すがしれっと食い殺すと言われた。口元からは人にない鋭い犬歯が見え隠れしている。
「伊地知! 無駄に怖がらせるな」
「おっと、怒られちゃった。でもお嬢ちゃんのことは食べたりしないわ。あなたは今帰り道じゃないし、送っていくっていうより私がここまで連れてきたしね。そもそもあなたの後ろをついてくるどころか、あなたを背中に乗せながら来ちゃったし!」
心底おかしいという風に笑うが私はまださすがに笑えなかった。ただ黒い尻尾がぶんぶんと振られているため機嫌の良さが察せられてそっと安堵する。うっかり機嫌を損ねてパクリ、なんてされては敵わない。
「それと私は元人間。普通のOLだったのよ。だからあなたが私のことや山の中のモノたちを怖がる気持ちはわかるわ」
「えっ……」
ふ、とどこか寂しそうに笑う彼女に息を止めた。尻尾は先ほどの勢いをなくしている。しかし思えば彼女の格好は私の思う「妖」のものじゃない。黒いライダースーツにフルフェイスのヘルメット。大きな黒いオートバイ。そのどれもが時代錯誤でなく、街で見かけたときも景色に馴染んでいた。それを思うと昔からいる妖というよりも現代を生きていた人間だと言われて納得できる。
「じゃあ、橘さんもなにかの妖怪なんですか?」
「んははは! 炉善は違うわ、ただの人間よ! 私よりもなんだか妖っぽいけどね。妖っていうより世捨て人かしら。でもあなたを連れ戻すときに言ったでしょ? 人間のとこに連れてってあげるって。変わり者だけどちゃんと生きた人間よ」
ちら、と橘の方をうかがうが、こちらの話が聞こえているのか否か判断がつかない。少なくともこちらの会話を気にしていないようで何の反応もない。梔子色の着流しに痛んでそうな赤毛の髪。伊地知の言う通り、彼女より橘の方が現代の人間らしくない。二人がもし街にいたなら不審者と呼ばれてしまうのは橘の方だ。
「おら、できたぞ」
「待ってましたー!」
橘が机に皿と茶碗を三人分並べていく。手伝いを申し出るべきなのか、大人しく座っておくべきなのか、おろおろとしているうちにすっかり食事の準備を整えられてしまった。
ふと慌ててスカートのポケットの中を探すと財布が出てきた。ひとまず無銭飲食は避けられそうなことに安堵する。
「おい、財布はいらん。しまえ。伊地知が勝手に連れてきたんだ。代金はこいつに持たせろ」
「オッケーオッケー! 気にしないでね! お姉さんの歯は高く売れそうだからお嬢さん一人食べさせるくらいモーマンタイよ!」
「でも、」
「でもも何もない! おばさんやおじさんってのはね、若い子に奢るのが趣味なのよ」
あれよあれよと丸め込まれ、財布は再び私のポケットの中へと戻っていった。申し訳なさはもちろんあるが、空腹の状態で目の前に温かい食事が出されている。この状況で払う払うなの押し問答はあまりに無粋で、耐えられなかった。
「余計なこと気にせず、ひとまず食え。話をするのもそのあとだ。腹が減ってちゃ碌なことにならん」
「は、はい」
「今日の晩飯は紅花の炊き込みご飯と鰈の煮つけだ」
一通り準備を終えた橘は私の前の席に着いた。初対面の人間、人外と数十分後同じ食卓についているのはなんとも言えない違和感がある。
「それじゃ、いただきます」
静かに手を合わせる二人に倣うように合掌する。けれど静かなのは一瞬で、伊地知はとびかかるように鰈に箸を向けた。
「ふおお……おいしい……! 鰈おいしい……!ふわふわでほくほく! 味も染みてておいしいわあ。煮つけいいわね、日本人の心って感じがする。まあ今は日本狼なんだけどね!」
「うるせえ、黙って食え」
「褒められるとうれしいくせに」
夫婦漫才を見せられている気分になりながら、飴色に照った鰈に箸をつけた。ほろほろと箸の先でほぐれていく白身にゴクリと唾を飲み込む。口の中に入れると伊地知の言う通りふわふわと軽く熱い。醤油とみりんの柔らかい甘さと、よく効いた生姜の香りが鼻を抜ける。しっかり味が染みているのにくどくない。ついつい一口もう一口と箸が進む。飴色に柔らかく煮られた葱も相まって永遠に食べていたい。
「おいしい……」
思わず口から零れた言葉に、正面からふ、と雰囲気が緩むのを感じた。
一旦煮つけから離れ、茶碗に盛られた炊き込みご飯にも箸を向ける。ほんのり色づいた米の間から小エビやシイタケが顔をのぞかせる。一口食べると思った以上に具材が入っていて、食感に意識が集中する。見えていた小海老と椎茸のほかに厚めに切られた牛蒡、人参、さらには細かく刻まれた帆立まで入っている。味付けは薄めだがその分贅沢に使われた食材たちの香りが際立って、ゆっくりと味わって咀嚼してしまう。けれどどこか慣れない少し辛味を感じる。
炊き込みご飯の中ではあまり見ない赤色。鷹の爪かとも思ったが辛さや刺激がない。
「この、赤いのって何ですか?」
「紅花だ。菊の花を乾燥させた漢方。血行促進、高血圧や生活習慣病を予防する効果のある生薬だ」
「薬なんですね」
「一応『薬膳茶寮』を名乗ってるんでな」
「薬膳……」
あまり馴染みはない。浮かぶのは漢方薬やハーブを使ったような料理、というイメージくらいだろうか。漢字のラベルが貼られた木箪笥の中はきっとこの紅花と同じような薬たちが入っているのだろう。
「薬膳は医食同源の考えをもとにしている。食べものも医療もどちらもルーツは同じ。だから体調が悪くて服薬するような西洋の薬学とは根本的に違う。常日頃からの食事もまた薬だ。それを摂取することで病を予防する。うちは基本予防の食養だ」
「炉善の話は難しいけど、要するに身体に合ったもの食べると健康になるよねって話さ! 夏バテの時には精のつくものを、冷え性には身体の温まる食材を、みたいなね。まあそれはそれとして炉善の作るご飯はおいしいのよ!」
ふん、と鼻を鳴らす橘はにこりともしないが、満更でもない顔をしていた。
よくよく思い巡らすと心なしか身体が温まっている気がした。つい数十分前まで寒さの残る春の山中を走り回り、得体のしれない何かと遭遇し、突き刺さす視線を受けて私の身体は固く凍り付いていた。けれど今は身体の芯からほかほかと温まっている。鰈の煮つけに効いた程よい生姜や具沢山な炊き込みご飯の中の紅花のおかげだろうか。いつの間にか緊張は解け、目の前の料理に熱中していた。
「さて、一心地ついたところでお前の話だ」
一通り食事を終えて多幸感の余韻に浸っていたところを、現実に引き戻される。そうだ、言われるがままこの薬膳茶寮花橘でご相伴に預かっていたが、私は今とても危機的状況にいる。
何から説明したら良いものか、と逡巡していると、明け放したままの玄関から一陣の風が飛び込んできた。
「橘、橘はいるか」
バタバタと嬲られる朱色の暖簾の向こうに大きな人が立っているのが見えた。顔を模様の書かれた紙で隠し、淡い緑の着物が風にはためく。
「……客だ、お前らはそのまま座ってろ」
「はいはーい。……お嬢ちゃんもここで待機。怖いお客さんじゃないわ。ただ高貴な方だからじろじろ見ちゃだめよ。大人しく私とここでお茶飲んでて」
少しだけ声を落とした二人に息を潜める。高貴な方、とはいったいどんなお客さんなのだろう。声からして男の人のようだった。けれど何となく、先ほど見えた姿からして普通の人ではないのだろう。温かい湯のみをぎゅっと握った。
「いらっしゃいませ天咲さま、本日はどうされましたか」
「ああ橘。先日娶ったばかりの妻の体調が優れないのだ。今までの生活とは一変したため、負担が掛かっているのだろう。可哀想なことをした」
「奥方の様子は?」
「どうも落ち着かない様子で、眠れていないようだ。それから貧血も。以前から貧血気味だと彼女から聞いているが、どうにも痛々しい。私が連れだしたからには何とかしてやりたいのだ」
平坦でどこかのっぺりとした声。けれど冷たいわけではない。純粋に奥方のことを心配しているようであった。
橘はそれを聞くと壁の箪笥へと手を伸ばす。二か所抽斗を開け、いくらかを紙袋に入れ暖簾の向こうの面の男へと寄越す。
「蓮の実と金針菜です。不眠や貧血、鬱傾向に効果があります。水に戻し、汁物などに入れて食べさせてください。それと食材としては和蘭三葉が、飲料としては茉莉花の茶が心を落ち着ける作用があります」
すらすらと饒舌に話す橘に目を丸くする。いくつか症状を聞いただけでそれだけたくさんの言葉が出てくるのか、と思っているとなぜかお茶を啜る伊地知が得意げに口角を上げた。
「ほお、花托にそんな作用があるか。あれであればいくらでも作れる。食事についても気を付けて作らせよう。流石は橘だな」
「光栄です。しかしより合った処方をするのであれば一度お会いしてみないと難しいところかと思います。食事で効果が見られないなら太白に一度相談を、」
「ははぁ、考えておこう。これは少しばかりだが取っておいてくれ。花托もそちらの役に立つというなら持っていかせよう」
「……ええ、ありがとうございます。どうぞ、お大事に」
「ではさらばだ」
再び風が吹いたと思うと面の男は姿を消し、玄関に立つのは橘一人だった。ため息とともに戻ってくる彼の手には小さな巾着が収まっている。
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