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蓬団子と生者の巡礼 6
一瞬目を離した隙に、飛梅は姿を消していた。もう話すことはないと思ったから姿を消したのか、それとも気まずくなって姿を消したのか。笑顔の裏を読み取れない私に真意は測れない。狸たち住む集落が近づくと、満開の白木蓮の木の下、宵満月が笑顔で手を振っていた。
「宵満月、これ橘さんから。蓬団子だって」
「わあ! ありがとう! 花橘のお団子大好きなの。毎年この季節にくれるから楽しみで!」
決して軽くはない包みをひょいと私から取り上げる。私と変わらない人間にも見えるが、やはり彼女は人外だ。
いつもなら怒涛のおしゃべりが始まるのに、今日に限っては言葉が続かなかった。
「あーだめだ。うん。辛気臭くなるのは、よくないと思ったけどだめだ。……いなくなっちゃうんだね、ベニちゃん」
大きく息を吸って、振り絞るようにそう聞いた彼女に私は首肯した。
もう既におそらく橘が伝えているのだろう。そのうえで私を送り出している。私が何も言わずに逃げてしまうことだけは、防ぐように。
「私にとってはね、身体に戻って生きていくことも、このまま死んじゃうのも、同じくらい悲しい。私の傍からベニちゃんがいなくなっちゃうことは同じだから。どちらにしても、私と一緒にはいられないでしょう?」
「……そうだね。ごめん。」
「きっとね、ベニちゃんは生きてって、そう思うのが正解なの。でもね、私は良い子じゃなくて我儘娘だからそんなこと言えないし、思えない」
月のような金の目が私のことをまっすぐに見つめる。
「ねえずっと、ここにいてくれればいいのに」
宵満月の開いた片手が私の手を緩く握る。逃がさないというように強くつかむのでもなく、ただ名残惜しむように触れる。
「いてほしい、とは言わない宵満月は、我儘娘じゃないよ」
ただの願望として、独り言のように言うだけの宵満月は、私に優しい。
「ううん。あなたのためを思っても、結局どこまで行っても自分勝手なの。もしほんの少しだけ、私が我儘を言うならね、私はベニちゃんに生きていてほしい。 だってそうしたら、また一緒に街へ遊びに行けるでしょう?」
どんな姿だとしても。風にかき消されてしまいそうな泣きそうな声で、そう言った。細い指が私の透けかけた指に絡む。街で生きる私に、狸の宵満月が会いに来る。それでもいいから、と。
「本当は私もね、気づいてたの。一緒に街へ行った日、補導員の女の子も、声をかけてきた男の子たちも、人間に化けてる私にしか話かけなかった」
ああ、と嘆息する。
「彼らにはベニちゃんが見えてないって、気づいてた」
そうだ、私たち二人に声をかけていると思っていた。けれど違う。補導員の女性はずっと宵満月を見ていたし、男の子たちは宵満月に向かって「お姉さん一人?」と聞いた。すぐ隣に全く同じせい服の私がいたにも拘わらず。誰にも、私の姿は見えていなかった。
「私、口先だけはベニちゃんに記憶が戻ると良いね、なんて言ってたのに、あなたにヒントも何も上げなかったの。ずるいでしょ?」
「ずるくないよ。宵満月は、優しいだけ。少なくとも、私にもすごく」
あのとき、私の姿が見えていないと指摘されたなら、私はどうしただろうか。パニックになったのか、最初の晩のように泣きわめいたのか、それとも逃げ出したのか。少なくとも自分で記憶を取り戻した時よりも悲惨な状態になったことだろう。
「私は私が楽しいのが一番大事。でもあなたが一緒だと、もっと楽しいの。ベニちゃんも我儘でいいよ。私はただの友達で、まだ1年も経ってない。だから身勝手な友達の勝手な希望だって思ってくれていい」
「身勝手なんて、」
「どう転んでも私は見送るしかないから。ベニちゃんの後悔が残らないのが良い」
身勝手は、私の方だ。宵満月は、もう笑っていなかった。
この優しすぎる狸の友人は、それでも私を引き留めるようなことは言わない。。
彼女と遊んでいると、いつも振り回されてしまう。けど嫌な気はしない。それは彼女がある程度のラインを知っているからだ。だから、私が本当に困ってしまうような我儘は、言えない。言わない。
「ねえもしあなたが、このまま死んでしまったなら、私はきっと月の綺麗な夜にはベニちゃんが作ってくれたお菓子を思い出すわ。降り注ぐ夕焼けを見れば、あなたと歩いた街を思い出すわ。いつか来る終わりが、ほんの少し早く来ただけ。私はあなたの思い出と一緒に生きていける」
宵満月を中心に光が広がり景色が変わりだす。木蓮の花が消え、初めて会った初夏の午後の明るい若葉に包まれる。一緒に街へ降りた日の紅葉と銀杏に包まれる。寒い中こっそり甘酒を飲んだ日の雪景色に包まれる。私はただ彼女の手を握ったまま目を見開くことしかできなかった。
彼女の記憶の中の私との世界は、果てしなく美しかった。
雪の積もった木蓮が再び花を咲かせたとき、気が付けば私は宵満月を抱きしめていた。
「宵満月、ごめん。ごめんね……でも」
それでも私はもう終わらなくちゃいけない。彼女の優しさに甘えて、私は彼女に縋りつく。逃げるくせに、置いて行くくせに、これからもどうか忘れないでほしいなんて思ってしまう。
「ベニちゃんは、他人のことなんて気にしなくていい」
本物の我儘娘は私の方だ。
「あなたの人生はあなたのものなんだから」
狸の少女は私が思っているよりずっと大人で、ずっと優しかった。
我儘なんて言うくせに、別れ際に我儘の一つも言えない優しい子。
死んだら、彼女との記憶はどうなるのだろう。ふと思った。どうかそうなってくれるなと願ってしまう私は、彼女なんかよりずっと我儘娘の名にふさわしいだろう。
真っ白い花が私たちのすぐそばに落ちた。明日にはきっと茶色に色を変えてしまうとしても、落ちた花弁は美しかった。
「ああ、もう行くのか」
集落の中を探しても見つけられなかった信楽の声が私を呼び止める。集落から少し離れた木の下で、巨大な酒樽を抱えどひっくり返したパラソルのような盃で酒を飲む信楽と五社がいた。今日は二人とも巨大な狸と狐の姿をしている。なんだかんだでこの二人は仲がいい。
「1年間、お世話になりました」
「目が赤いじゃあねえか、決心が鈍ったかあ?」
「いいえ」
雷鳴のように腹に響く信楽の声に負けないように声を張り上げる。
決心は鈍っていない。たとえ未練ができたとしても、罪悪感が胸に溜まったとしても、それでも私の決心は覆らない。
娘を溺愛する信楽狸なら、私のことを説得するだろう、という私の警戒を他所に、信楽は大声で笑い、盃を掲げた。
「おお、小さい人間の門出を祝おうじゃあねえか」
「……え」
言葉をうまく呑み込めない私の思考を掻っ攫うように、五社が巨大な口を開ける。
「未だ死なず、生きる君よ。死は終わりではない。あらゆる形で、死せる君は続いていく。死ねば地獄へ行くだろう。裁定を経て、そのまま責め苦を受け償うこともあれば、善い者として高天原へ行くこともあるし、はたまた再び転生することも、あるいは異形となる者もいる」
我らのように。我らのように。
化け狸と化け狐。花橘に置いてあった本を思い出す。彼らはただの狐と狸じゃない。ある種の神性を持った狸と狐だ。ただの狸や狐から、今の姿になったわけではない。
「死は、決してそれで終わりではない。定命の者がいつかたどり着く道の先にすぎん。人も獣も、それは変わらん。不変の道理だ」
「生きる人の子よ、君が再び生を歩むなら、困難に立ち向かい歩を止めないことを讃え、その道がどうか苦難ばかりでないことを祈ろう」
「もしお前が死へと歩むなら、未知へと挑み、手に持つものをすべて此岸に置いていくその勇敢さを讃え、その道がどうか愉快で悔い無きものであることを祈ろう」
二柱は愉快気に、しかし慈愛を込めて私を見下ろす。
「きっと橘の奴は、お前に生きろと言うだろう」
「彼はああ見えて良識ある“良い大人”だからな」
「俺たちは良識のないちゃらんぽらんな大人だ。真面目に悩むのが苦しくなったら俺たちのことを思い出せ」
「我々は君がどんな道を選ぼうとも、可愛い君の選ぶことだ。無責任にただ讃え、祈るよ」
二柱は笑い、私に巨大な盃を向ける。
戸惑いつつ受け取ろうとするとまた笑う。
「いや、お前には大きすぎる。これでどうだ」
ふう、と信楽が息を吹きかけるとみるみる杯は縮んでいき、私の手のひらに収まるサイズとなった。
「さあ小さく勇敢な可愛い子よ、景気づけに飲んでいくといい」
「そうだそうだ。お前にはこれくらいの甘酒しか出せんが」
「飲むも飲まぬも、酔うも酔わぬも君次第だ」
「どうかその未来が、面白おかしく、楽しいものであることを。悪い大人は願っている」
小さな盃に薄く入った甘酒を、私は飲みほした。甘い香りが鼻に抜け、飲み込んだつもりの甘酒は喉を通ることなく、口の中で消えていった。
飲むことも食べることもできない私だが、彼らはそれでよかったらしかった。
酒を飲み込むことはできなくとも、この悪くて自由な大人たちの、祝福は飲み込むことができた気がした。
人を心配し気を揉む橘が良い大人だというなら、彼らもまた、良い大人だろう。
言ったところで、否定されるのはわかっていたから、その言葉を飲み込む。
「行ってきます」
だからこの門出を祝ってくれる大人たちには精いっぱいの笑顔を置いて行きたかった。
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