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蓬団子と生者の巡礼 8
「炉善の奴は全く、損な性格してるわね! 死なせたくないなら縛兎に帰れって言っちゃえばいいのに」
バイクの後ろで伊地知の背中にしがみつく。橘はそうだ。頑固なくせに、道理は通そうとする。縛兎の言った通り、真面目過ぎるのだ。
「ねえ伊地知さん」
轟轟と風の中を走っていても、密着しているから声は聞こえるだろう。
「伊地知さん、今は苦しくない? 悲しくない?」
「苦しくないし、悲しくないよ。私は至極楽しく日々を過ごしてる」
「寂しくなったりしない?」
何を言わんとしたいるのかは分かったのだろう。うーん、と少し考えるような唸り声が聞こえた。私と伊地知さんとの間にある真っ黒の尻尾が悩ましく揺れた。
「寂しさを思い出すことはあるよ。大切な人たちとあいさつできないまま別れてしまったこと、会う約束をしてた人に会えなかったこと。それはとても悲しくて寂しい記憶だ」
伊地知さんは、突然殺された。今の私のようにあちらこちらへ挨拶もできずお別れも言えず、人間としての彼女は死んでしまった。
「でもね、その感情に溺れたりはしない。アルバムをめくるみたいに、ただ思い返すだけだよ。からめとられても、足止めされてもいけない。でも忘れるべきものでもないんだ。喜びも悲しみも、私を形どってきたものだから。生きて積み上げてきた私も、死んで積みあがる私も、全部私なの」
語り掛けるように、歌うように、私なんていない独り言のように、伊地知は風の隙間を縫うように言う。
「全部大事、区別なんて付けないわ。私は私のことを愛してる。大事な私。だからきっと、誰もいなくても私は立っていられるわ。でもね、誰かがいた方が私は楽しいの。こうだから、生きていけない、とかこうじゃないと生きられない、なんて思わないでね、すべてプラスアルファで考えたいの」
いつも自由で食べることばかり考えてるヒトなのに、静かに語るとき、彼女がかつて社会人の大人の女性であることを思わせる。いつもの楽しげな様子も、気の強い言葉も、死んでしまった彼女を覆い、守っているように見えるのだ。
「他人からの承認も愛も。他人に向けた愛も優しさも、私が生きていく上のただの楽しみよ」
一人で、あるいは一匹で生きていくと決めるのに、どれだけの時間がかかったのだろう。それは私にはわからない。わからないけれど、私は強く彼女の身体に腕を回した。
飽海のいる芦原神社は花橘からそう遠くない。伊地知のバイクなら間もなく到着するだろう。話しても話しても話足りない気がするのに、いざ口にしようとするとうまく言葉にできなかった。だからせめて一つだけ、どうしても聞いておきたいことを背に投げかける。
「ねえ、どうしてあの夜私を拾ったんですか?」
道行く人たちはいるのに、誰も座り込む私を見なかった。皆どこかへ帰ろうとしているのに、私は帰り道も帰る場所もわからなかった。晩春の夜に、呆然とする私を拾い上げ、彼女は花橘へと連れ出した。
「あなたが途方に暮れ、泣きそうだったからよ。誰にも見えないのに、見えてないことに気づかない。死んでしまったことにも気が付いてない、幽霊だと思った。優しいお姉さんは泣きそうな女の子を放っておけないの」
あの夜の出会いは偶然だった。もし伊地知が通りかからなければ、私は今もあの場所に立ち尽くして、深夜を迎えるとともにそのまま死んでいたのかもしれない。自分が何者なのか、そんなこともわからずに。
「伊地知さん」
「なあに?」
「本当に、ありがとうございました」
この一言で、どれだけ私の想いが伝わっているのかはわからない。けれどこれ以上の言葉が見つからなかった。どれだけ言葉を重ねても、この一言に勝る言葉はない気がした。
「もうすぐ芦原神社よ。人食いの送り狼は、鳥居の前までしか送れない。神社に入ったら、生きた人間としてあなたは一人で歩くの。生きた人間として、飽海さんと話しなさい」
西日に染まりつつある坂道を下りながら、私は初めてこのヒトと会い、逃げ回った夜を思い出した。一人では何もできず、暗い山の斜面で夜を怯えていた。
けれどこれが別れなら、私は一人で立たなくてはいけない
「でももし、ベニちゃんが死んだその先の道を選ぶなら、花橘に帰る前に少しだけ寄り道しましょう。夕方の山を思いっきり駆け回るの。人間には出せないスピードで、獣だけが通れる道を駆け抜ける。死に行くあなたが、少しでも希望を抱けるように」
鳥居のちょうど目の前でバイクが止まる。平日の夕方、誰も送り狼のバイクを見る者はいない。
「さあ、私が付いていけるのはここまで! あとはベニちゃん一人で行くのよ。私はここで戻ってくるのを待ってるわ」
積んであった蓬団子の入った風呂敷を渡される。ずっしりとそれは重かった。
伊地知は、私の味方でいてくれようとしている。けれど彼女の言葉の端々から、私が死ぬことを選ばないでいてほしいのだとわかった。楽しく今を過ごしている、と彼女は言う。けれどきっと、永遠に元には戻れないからこそ、あったかもしれない未来を夢想し、それを手放そうとする私のことを止めたいと思うのかもしれない。
被ったままのヘルメットを取り上げて、伊地知は私を抱きしめた。
「どんなあなたでも応援するわ。私の可愛い迷子。だからあなた納得できる答えを出しておいで」
「伊地知さん……」
伊地知は私の肩を持って反転させると、私の背中を押した。半ばつまずくように、私は鳥居をくぐることになった。
私一人で参道を歩き始める。振り向くと鳥居の向こうで夕日を背負った伊地知がこちらに手を振った。すっかり歩きなれた参道。いつものお使いと同じなのに、これで最後になるのだ。そう思うと不思議な心地がした。少し先、社務所の前に、竹ぼうきを持った飽海が見えた。
「やあ、いらっしゃい」
「……もう、聞いてるんですよね」
「うん。本人の知らないところで勝手に話を進めていてごめんよ」
静かな声は同じなのに、いつも以上に困った顔をする飽海。おそらく橘が飽海に話した、あるいは相談したのだろう。人が良く、優しすぎるこの人に、死ぬことを選んだと話すのは気が引けた。たとえ橘から先に聞いてたとしても。
「私はね、君に生きろとも死ぬなとも言わないよ」
意外な言葉に目を丸くする。彼は生者で聖職者だ。それこそ、命大事に、とでも言われると持っていたのに
「君は子供だ。庇護されるべき子供だ。でもね、君は同時に小さな大人でもあるんだ。君は君なりにモノを考えることができるし、判断することもできる。決断するのは君自身で、僕らが強要するものでも導くものでもない。僕たちにできるのは、君が悔いのない選択をできるようサポートすることだけだよ」
「サポート、ですか」
「そう。あくまでもお手伝いだ」
少し話そうか、といわれ社務所の中へ案内される。ふと見た窓ガラスには飽海の姿しか映っていなかった。そう言えば、夏祭りで会った袴の青年の一人も、私の姿は見えていなかった。
「せっかくお団子もあるんだ。お茶も淹れてくるね」
そこに座って、と促されるまま社務所の中にあるパイプ椅子に腰かける。古そうだが軋むこともない。
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