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蓬団子と生者の巡礼 9
「……さて、話が途中になってしまったね。僕らができるのはお手伝い。君が判断を下すにあたって、まだ情報が足りてないと思うんだ」
「……まだ、情報が足りませんか」
渡されたほうじ茶を受け取るが、今の私は食べることも飲むこともできないと伝えそびれてしまった。
「そうだね。君は自分自身の判断を下すために、きっといろんな人たちの話を聞いたはずだ。少なくとも、君の周りにいる者たちは、君のことが大好きで、君のことを心配して止まないだろうからね。炉善なんか、主張が強かっただろう」
黙って頷く。橘は自分の意見を激しく主張する。私の意見を全うから否定し、責め立てる。けれどそれは私を心配して、残される人たちのことを心配しての言葉だとよくわかっていた。どうでも良いことに、あの人は口出ししたりはしない。
「彼は一番君のことを心配してる、真面目な奴だからね。君はまだ幼くて無知だから、道を間違えないようにしてやらないといけない、って思ってる」
「それは、わかります」
「でもって言葉がぶっきらぼうでうまく伝わらない。感情が入れば入るほど、なんとなく反駁したくなるよね。彼は自分に自信がありすぎる」
顔も怖いし、なんて言いながら蓬団子に齧り付いた。無意識だろう、目が細くなる。飽海は好きなものを本当にうれしそうに食べる。
「ベニちゃんは食べないの? 前来てた時はおはぎを食べていただろう?」
「……最近、お腹が全然空かなくて、食べられないんです」
飽海は一瞬逡巡し、何か思い当たったような顔をしたが、それ以上掘り下げることもなかった。
「そっか。じゃあお茶だけでも。香りをかぐだけでも落ち着くからさ」
甘く香ばしい香りが鼻孔をくすぐる。手に持った湯飲みから伝わる温度が、春の夕暮れの冷えを解いていく。このままこの温もりとともに溶けてしまいたい、という思考が脳裏をよぎるが振り払う。それよりも聞かなくてはいけないことがある。
「それで、私がまだ知らないことって何ですか?」
私は記憶をすべて取り戻した。もう花橘へ来る前の私と変わらない、統合された桜良紅於だ。忘れていることは何もないし、以前の私が飽海にかかわっていたこともないため私以上に何かを知っていることはないはずだ。
「……そうだね、本当はこういうのはとても良くない。他人から相談を受けたら、それは人に内容を話してはいけない。僕には守秘義務がある。でもね、人の命に係わるなら、それは別だ」
誰に対する言い訳かわからないが、自分を納得させるようにぶつぶつと言い聞かせた。神社の宮司さんと言うのは参拝者の相談にまで乗るのか、と思うと同時に飽海は人から相談されそうなタイプだと勝手に納得する。
「自分の命を天秤にかけて、今君が選択をするなら、僕は僕にできる最善を持って、君に伝えたいことがある。それはきっと君を傷つけることになるし、相談者も傷つけてしまうだろう。でも傷つけたとしても、それで救われる心や命があるなら、それに越したことはないと思うんだ」
「飽海さん、待ってください、それってどういう意味で」
「君が戻りたくない理由、それは君の家族が関係しているんじゃないかな」
呼吸が止まる。まさかそのことを言われると思っていなかった。母のことを他人に話したのは、昨日が初めてだ。聞いていたのは鬼女の梓乃と橘だけ。昨日の今日で橘は飽海に話したのか、と腹の底が厚くなる。挨拶の順で飽海が最後なのも、橘にとっての切り札で、彼なら私を説得することができると思ったからなのか。
「ベニさん、僕は君を苦しめたいわけでも辱めたいわけでもないんだ。……ご両親は君が小さなころに離婚しているね、それからずっとお父さんと二人暮らしだった。君は昔から物分かりのいい子だって聞いてるよ。おとなしくて、手のかからない子だって。不平不満、我儘文句、何一つ言わない、静かで、大人びた子だった」
「……それなりに暮らしてきました。不平も文句もありませんよ。常に満たされて生きてきました」
食うに困ったことはなく、屋根に困ったこともない。豊かなこの国の庇護されるべき一人の子供として、私は恩恵を受けてきた
「じゃあ君は何が嫌で、元の身体に戻りたくないんだろう」
「…………」
「君自身、わかっているはずだ。そうじゃなきゃ、もっと別に聞くことがあるだろう?」
思わず俯いて、優し気な視線から逃げた。何もわかってないふりもできた。あちこちに過去のヒントになるものがありながらも看過してきたこの1年のように。けれど何もかも知らないふりをするには、さすがに往生際が悪すぎた。
「ベニさん、君は一体何が嫌いなんだい?」
「私、は」
ざわりと身体の奥から寒気が湧きたった。厭なものだ、とても。
なぜこんな思いをしながら、嫌いなものを話さなければならないのか。
本当はわかっていた。それが今、必要だからだ。
「私は、私が大嫌いです」
「素直になれない、私が嫌いです」
「うまく言葉にできない、私が嫌いです」
「必要とされない、私が嫌いです」
「母に捨てられた、私が嫌いです」
「私を捨てた、母が嫌いです」
息が上手くできなくなる。すべて吐き出したいのに、それを言ってしまえば私の根本が崩壊してしまいそうな予感がして。
「それから?」
「……年々、私を捨てた母に似てくる私の顔が、姿が、嫌いです」
鏡も写真も見たくない。
あの記憶の中にある悍ましい母の顔に、否が応にも近づいてくる自分自身が、いやでいやで、仕方がなかった。
「……それから?」
ああ、この人は何か、答えに近いものを知ってるんだ、と思った。私に何かを言わせたがっている。喉の奥から、乾いた笑いがこぼれた。
「母に捨てられた父に、この顔を見られるのが、嫌いです」
厭だ厭だ、何もかも。
私を捨てていったあの母親が嫌なのと同じくらい、この顔が嫌いだ。
「あの母親に似ていく顔を、父はどんな思いで見てるんでしょうか。恨めしいのか、憎らしいのか」
一度口にしてしまえばせき止められていたものが溢れるように流れ出る。
「ねえ、外に男を作って出ていったあの人と、私はどんどん似てきてしまいます。似たくもない、思い出したくもないあの顔を、否が応でも見せつけられる。どこまで行っても逃げられない。忘れたくても、気にならないふりをしても、あの人が付いて回る! あの人は私たちを捨てたのに、私たちはあの人の欠片をどうしたって捨てられない!」
「君は、寂しかったんだね」
違う、寂しかったんじゃない、悔しかったんだ。置いて行かれたことが。いなくなったくせに、私たちを忘れたくせに、私たちには自分の存在を感じさせ続ける理不尽さが。
「君は悲しかったんだね」
違う、悲しかったんじゃない、憤ったんだ。あの人の身勝手さに。産むだけ産んで去ったことに。血のつながった私より、赤の他人を選んだことに。
反駁したいのに、声にならない。喉の奥が、鼻の奥が熱い。
「君は、怖かったんだね」
はたと、胸が静かになった
怖い、そんな風に思ったことがあっただろうか
恐れる相手はいない。ただ胸の内で恨み、憤ってばかりいる。それだけだ
「君は怖かったんだ。だから逃げ出したくてしょうがない」
「……何から」
「君は、君のお父さんが怖いんだ」
父。私の生みの親の、もう一人。
「君は、また捨て去られることを恐れている。君のことが嫌いな君は、お父さんもまた君のことを嫌いに違いないと思っている」
どうしてか、反論の言葉は出てこなかった。腑に落ちているわけじゃない。けれど飽海が何を知っていて、私に何を伝えようとしているのか、聞きたかった
「君は、お父さんはお母さんのことを自分と同じように恨んでいると思ってる。だから顔立ちが似てきた自分のことも、疎まれるんじゃないかって怯えてるんだ」
「……」
「疎まれることを、また捨てられることを、君はとても恐れてる」
「……疎まれるなんて、そんな今更」
そう、今更だ。父である人を思い浮かべて出る言葉はそれだった。飽海は悲し気に眉を寄せた。
「少し違ったかな。君はもう、お父さんから疎まれてると思ってる。そしていつ捨てられるのかと、怯えてるんだね」
「あ、」
ああ、そうだ。初めて言語化されて、思いは途端に確固たるものとなる。今まで名付けられることのなかった感情が実体を持ち、みるみる育っていった。
幼い私を押し付けられ、妻に逃げられたあの人は、どんな思いで私を育ててきたのだろう。
どんな思いで、妻に似てくる私の成長を見てきたのだろう。
そして、いつ私を捨てようと決断するのだろう。
私は私が嫌いだ。母親が嫌いだ。母に似たこの顔が嫌いだ。捨てられるのも置いていかれるのも嫌いだ。
捨てられるのも置いていかれるのも、恐ろしくて恐ろしくて。
「ええ、そうでした。私は怖かった。怖かったから逃げ出したかったんです」
逃げ出したくても、逃げられないことはわかっていた。私はどれだけ時間がたっても二人の子供であることに変わりはない。その事実を捨てることはできない。成長すればするほど、私の顔はあの人に似てくるだろう
学生のうちに整形するなんてできない。そんなお金も時間も工面することはできない。父に捨てられる前に家を出てしまおうかとも思ったが、お金はないし逃げていく先もなかった。いっそ死んでしまおうと思った。そうすれば本当の意味で、私はこの顔からも、捨てられるかもしれないという恐怖からも逃げられる。けれど生来臆病な私は決断などできないまま、鏡の中の私は日々、あの人に近づいていく
だからあの日の夕方、奈子がわざとふらついた瞬間、私は「ちょうどいい」と思ってしまった。
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