蓬団子と生者の巡礼 10

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蓬団子と生者の巡礼 10

 魔が差したのだ。幻想的なまでの桜吹雪に、現実味なく輝く夕日に誘われた。今なら逃げられると思ってしまったのだ  そうして死に損ねた私は、元の身体に帰ることもできず、一人街を彷徨っていた。  「私は怖いです。父に捨てられることが。いえ、何もかもが怖いんです。母に似てくるこの顔も、いつか顔だけじゃなくて私そのものがあの人に似てくるんじゃないかって、怖いんです」  私がどうあがいたって、どれだけ祈ったって、私はあの人の血を継いでいる。忌々しく、悍ましいほどの事実は決して捨てられない。  「私という面倒ごとを押し付けられた父は、いつ耐えかねて私のことを捨て去るのかと思うと、怖いんです。私のことを好きだと言ってくれる奈子でさえ、いつか私のことを嫌いと言う日がくると思うと、怖いんです」  私はもう、何もかもから逃げ出してしまいたい。  「きっとくだらないと思われるでしょう。他人から見たら些細なものかもしれませんが、私にとってはとても重大でした。でも今の、これまでの苦しさは本物です」  逃げ出したいけど、逃げられない。でも逃げる方法を思いついて、次の瞬間に実行してしまった。その時はこうして失敗してしまったけれど、今再び私の目の前には逃げ出すという選択肢が与えられた  あと数時間で、私はもう戻ることなく、逃げ出すことができる  「そっか、君はずっと苦しかったんだね」   私の肩に触れるその手は優しく、温かかった。握った湯飲みの同じように、体温を持たない私へ、温もりが伝わる。  「君はとてもまじめだ。だから思いつめすぎた。もしものことを考えて、恐ろしくてたまらなくなった。君の言う通り、君の苦しさは他の人にはわからないよ。それは話を聞いてる僕にも、君と1年をともにした炉善にも、僕らよりはるかに長く生きている妖の誰にも、君の痛みはわからない」  「君の痛みも苦しみも、君だけのものだ。どれだけ理解したつもりになったとしても、きっと10分の1も理解することはできないよ。だから僕は、君に生きてとは言えないよ。君の痛みも苦しみも、僕にはわからない。そんな僕が軽々しく君の生を望むことはできない。最初に言った通り、僕はただ君の決断をサポートするだけだ」  「……」  「君はまだ知らないことがある。君は君の苦しみを知っているけど、他人の苦しみは知らないだろう?」  「……他人の、ですか。でもそれは、きっと聞いたとして10分の1も知ることはできないんでしょう」  「そうだね。きっとそれくらいしか知ることはできないよ。たとえば、君は君の友人の苦しみを、ほんの少しは知っているだろう?」  ほんの少し、飽海はそう表現した。涙ながらに、嗚咽交じりに、私を待っていると言った奈子。怪しげな噂に縋り、私に会う方法を探し出した彼女の苦しみも、私はきっとほんの少ししか知らない  「君の苦しみも、人には伝わってない。でも君は今まで人の想いを推し量ったことがあるかい?」  「推し量る……?」  「自分がどれだけ相手に思われているか、愛されているかを推し量ったことはあるかい?」  「……」  「きっとないだろう。だって君は君のことがとても嫌いだ。だから君は素直に他人の好意も受け取れない。もし君がこのまま逃げ出そうと思うなら、最後に一度だけ振り返ってくれないかな。君の自己嫌悪は置いておいて、他人事でいい。客観的に、自分がどう思われているのかを」  「推し量るって、誰からのですか。というより、どうやって?」  私はこの二日間で、いろんな話や思いを聞いてきた。  生きろと言う橘の言葉を。  ただ幸福を祈るという梓乃の言葉を。  別れは寂しいという飛梅の言葉を。  ずっとここにいてと言う宵満月の言葉を。  勇敢な旅路だと言う信楽と五社の言葉を。  死んでもいいと言う縛兎の言葉を。  何を選んでも応援するという伊地知の言葉を。  他に誰の想いを聞けばいいのかわからなかった。  「君はまだ、お父さんの話を聞いていないだろう?」  「え……」  思わずまじまじと顔を見るが、飽海は真剣そのものだった  今の私は見鬼以外には見えていない。父がいたとして、私は父を見ることができるが、父は私を見ることができない。その状態でどうやって私への想いを推し量れというのか。  「今更、あの人に何を聞けと……。それにあの人は一緒に住んでいても顔も合わせないくらい、遅くまで帰ってきませんよ」  家の思い出はいつも一人だった。一人でご飯を食べて、行ってきますも、ただいまも言う相手はいなかった。休日である土日祝日さえ、父は家にいなかった。ただ夜中、家の中に気配を時たま感じるだけで。  「お父さんはどんな人なんだい?」  どんな、そういわれ顔を思い浮かべた。  「つまらない、人ですよ」  あいまいで、生真面目で、面白みのない人だ。娘であるのに、その印象は驚くほど薄かった。子供のころから通してあまり話した覚えもない。  その顔を思い浮かべたのに、浮かぶのは横顔だけだ。  「義務感の強い、人だったんじゃないですかね」  子供だった私のことを捨てないで、こうして育てるくらいには。  父は必要なお金を惜しまなかった。そのためずっと一人でも、衣食住に不便を覚えることはなかった。たぶん何も言わなくても、大学まで行かせてくれただろう。きっと進路相談に乗ってくれることはないだろうけど。  「あまり、話をしてこなかったんじゃないかい」  「そうですね。話す機会も時間も、家にはなかったので」  「君は今、その命の最後の淵に立っている。今こそ君は向き合うべきだ」  「でも、もう遅いです。父に会うことなく、深夜という機嫌を迎えますよ。それに、あの人に私は見えない」  目に見えないものを信じる人ではなかったはずだ。家には神棚も仏間もなければ、初詣に行った記憶もなく、お守り出さえ自宅で見かけたことはない。  けれど飽海は首を横に振った。  「まだ、遅くなんかない。君は逃げ続けてきたんだ、その恐怖に打ち勝つこともできず、ただただ恐れ、逃げてきた。ベニさん、君に人並みの誠実さがあるなら、最後にお父さんの顔をちゃんと見てくると良い」  「あの人に会うことがありませんよ。あの人はきっとまだ職場どこかにいるのでしょう。私は父がどこで働いているかすら知りません」  思い出せば思い出すほど、皮肉なことに父もまた、私の生みの親であるだけの人だとわかった。ただ、父である義務感から私を養育しているだけの、生真面目な人間だ。  これ以上、ここにいてもどうにもならない、と私はパイプ椅子から立ち上がり社務所から出た。  私は飽海が好きだ。橘よりも優しくて静かで、大人のわりに可愛くて頼りになる人だと思っていた。だからこそ、こんな終わりにしたくはなかった。  伊地知の待つ鳥居へ向かおうとして、一人の参拝者の姿が見えた。細身のスーツの男性、おそらく仕事終わりと思しい姿。一瞬足を止めたが、私の姿は見えないのだと思い出し歩き出す。夕日を背に負った男性は足取り重く、幽鬼か何か見えた。  逆光に目が慣れ、再び男性を見た時、私は足を止めた。  「お父さん……?」  なぜこんなところに、と思う前に私は自分の目を疑った。人違い、他人の空似、そもそも私が父の顔を正しく覚えていない可能性もある。しかし私を追いかけてきた飽海は私の肩を掴んだ。  「ベニさん、そこで見ていて。人の相談を聞くのも見るのもナンセンスだ。でも生霊になってる今の君の特権でもあると思うんだ」  独り言のように、視線をスーツの男性に向けたまま、囁くように私に言う。  「見たくないものから目を逸らす気持ちも、迫る苦しみから逃げる気持ちもわかるよ。でもね、ほんの数分だけ、耳を塞がず、目を逸らさず、ただここにいてほしいんだ」  「宮司さん」  呼びかける声は、どこか懐かしさのある低い声だった。
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