蓬団子と生者の巡礼 11

1/1
前へ
/62ページ
次へ

蓬団子と生者の巡礼 11

 「いらっしゃい、桜良さん。娘さんのご様子はいかがですか」  なぜ私の父親がここにいるのだろう。見間違えようもない、横顔だった。早朝に家を出て、真夜中に帰ってくる。話すどころか顔を見ることすらできなかった父が、どうして平日の夕方にこんな神社にいるのだろう。  心臓を握りこまれたように、胸が痛い。厭な汗が背筋を伝う。今すぐここから走り去ってしまいたい。そう思うのにどうしてか、足は地面に縫い付けられたように動かせなかった  ここから逃げてしまえば、私はもう自由なんだ。鳥居を出て、その向こう側で待つ伊地知が迎えてくれる。それでやっぱり死ぬことにした、と言えば伊地知はきっと責めることなく、私を抱きしめてくれるだろう。もう何もかも終わるとしても、それを肯定してくれる人たちもいる。  それなのにどうして、この透けかかった身体はこんなにも私の思い通りにはならないのか。  「よく、ありません。……もう1年が経ちます、あの子が事故に遭ってから」  「ええ、桜の季節も巡ってしまいましたね」  「あなたには何度も同じ話を聞かせてしまって申し訳ないです」  「いいえ、何度でも聞かせてください。話すことで、桜良さんの心が少しでも楽になるなら。祈ることであなたの希望になるなら」  彼らの話していることが理解できなかった。  父は、何度もこの神社に足を運んでいたのか。あんなにも忙しそうであったのに。何度も飽海に話をしていたのか。私と話す時間を作ることはなかったのに。  「……私があの子にしてやれたことが、何か一つでもあったでしょうか」  ぎしり、と身体の奥底からブリキがきしむような音がした。まるで私の心の声が、まるまる父のところまで聞こえているようで。  「私が不甲斐ないせいで、あの子から母親を奪ってしまった。……もっと私はしっかりしていれば、母恋しい幼少期に寂しい思いをさせることはなかっただろうに。私はもっと彼女と話していれば、もうちょっと別の結果だってあったはずだ。私が、私が臆病なばっかりに」  喉の奥から引き攣るような妙な音がした。  今私の目の前にいるのは誰だ。  懺悔するように飽海に話す、この男性は誰だ。  私の父親とよく似た顔をしたやつれた男はいったい誰だ。  「私は逃げたんです。少しずつ何かがずれ始めたことに気づきながら、彼女と向き合うことから逃げたんです。真正面から向き合ったら、とてつもなく、自分自身が傷つけられるのではないかと、そう怯えて。仕事に没頭していた。けれどその私は、妻とあの子をただ蔑ろにしているだけだった。そうしてあの子は母親を失った」  私の知っている父親は、こんな風に卑下したりしない。自信なさげに言葉を吐いたりはしない。私の中の父親像と、あまりにも乖離していた。あの人は私を省みたりしない。私を見ない。冷徹で過ちなど認めず、自らをも疑わない、それがあの人のはずだ。  「私はもっと早くに向き合っていれば、せめてあの子が大きくなるまで傍にいてくれたかもしれない。あの子ときちんと話をして、別れたかもしれない。彼女がいなくなってからだってそうです。私は結局、臆病なまま。あの子にどう接していいかすらわからなかった。……仕事に逃げ続けていたつけですよ。私はあの子の好物一つも知らなかった。あの子が何を好み、何を見て、何を聞いていたか。私は何一つ知らなかったし……知ろうともしてこなかった。父親失格です」  私の知っている父親は、こんなにも父親であろうとはしない。父である前に一人の人間だった。家族という小組織の父親というロールを演じようともしなかった。  「あの子を大切にしようとすればするほど、あれ以上傷つけないようにすればするほど、あの子の心は離れていく気がしました。まるで腫れ物に触れるようにしてしまったんでしょう。私は幼いころから紅於に、十分な愛を伝えてやれなかった」  私をこんなにも、想ったりはしない。  静かに話を聞いていた飽海が口を開く。  「……そうかもしれませんね。桜良さん。自分の気持ちというものは自分の思っている以上に、相手に伝わっていません。あなたが10の愛を娘さんに渡したとしても、彼女が受け取るのはきっとその1割くらいかもしれません。今もし、ここであなたの話を娘さんが聞いていたとしても、あなたの想いの数割しか、きっと受け取ってはいないでしょう」  「それは、宮司さんにも伝わっていないのでしょうか」  「いいえ、最初はきっと私もその1割程度しか受け取れてはいなかったでしょう。けれどあなたは何度もここを訪れ、私に話しました。あなたの知る限りの、娘さんとの思い出を。あなたの歩んできた道程の後悔も。不器用でもどかしく思うあなたの心を。なんども聞いてきました。回数を重ねるごとに、あなたの想いは正しく私に伝わるようになります。パズルのピースを受け取ってはめていくように、あなたの見る世界は、私にも鮮明に見えてくるようになります」  なぜこんなことを私に聞かせるのか。こんなこと聞きたくなかった。それなのに、足は動かない、耳は塞げない、目は逸らせない。  賢いつもりでいる私は、何もわかっていなかった。  「桜良さん、あなたは娘さんに対して悔いてばかりです。悔いて悔いて、自分を責める。けれどその思いのどれだけを、娘さんに伝えましたか?」  「……こんな情けないこと、あの子には聞かせられませんよ」  「ではあなたは、その娘さんを大切に思う気持ちを、どれだけ彼女に伝えてきましたか。どれだけの言葉を重ね、どれだけ触れ合いましたか」  「私は、いつだって逃げてばかりいた」  「ええ、だから向き合ってください。今度は逃げ出さず、目を覚ました彼女に伝えてください。自分がどれだけ彼女のことを大切に思っているか」  父は顔を伏せ、耐えるように握りしめた拳を震わせていた。  飽海は父から私へと視線をずらした。明確に、私に向けて語り掛ける。  「きっと最初は信じないでしょう。それでも言葉を重ねれば重ねるほど、娘さんの受け取ったあなたの心は鮮明になる。積もり積もった言葉は、いつかあなたの想いを正しく彼女に届けます」  「……あの子は、あの子は本当に目が覚めるんでしょうか」  記憶をどれだけ漁っても、こんなにも弱弱しい父の声を聞いたことがなかった。ハタハタと地面に染みを残す水滴を、見たこともなければ想像したことすらなかった。  「思うんです。もう身体が回復しているはずのあの子が目を覚まさないのは、もう死んでしまいたいと思っているからではないか、と」  私はずっと、父は何も知らない、興味もない、私のことなど考えもしない、と思ってきた。けれど違った。父は、私のことをよく見ていて、何も言わないだけで、よくわかっていたのだ。私の失望も、不信感も。  「もしそうなら、私はどれほどあの子を傷つけてきたんでしょう。死んでしまいたいと思ってしまうほど、私はあの子に生きていく希望を与えることができなかったんでしょう。一番にあの子を愛して、いっとう大切に扱うことができていれば、ほんの少しでも、あの子の生きていくよりどころになれたかもしれないのに」  「あなたも彼女も、不器用だったんですね。嫌っていたわけはないのでしょう。ただかかわり方を考えあぐねていた。ねえきっと、何かが悪かったという話ではありません。……何もかもが遅い、そう思うには早計です。娘さんはまだ生きている。あなたの手の届くところにいる」  「ですが、」  「いえきっと、間に合うはずです。あなたはこんなにも祈り、彼女を思い、願っているのだから。何も届かないなんてことはありませんよ。きっとすべては伝わらなくても、その欠片を、きっと彼女は拾ってくれています。届かない祈りほど、辛く厳しいことはありません。けれどあなたの祈りもあなたの願いも、きっと彼女のところへ届いているはずです」  飽海は笑った。きっと父には、彼がただ沈みゆく夕日に向かって微笑んでいるように見えているだろう。  「そうそれは、きっと間もなく。あなたの祈りも願いも、決して無駄なんかではありません。あなたの言葉は紅於さんに届いていますよ」  日が沈み切る前に、父は鳥居をくぐり姿を消した。正しく誰もいない家へと、一人変えるのだろう。 力なく、くたびれて見える背を見送った。深い夕陽で真っ赤に染まる神社の境内で、二人たたずむ。長く長く、飽海の影が伸びていた。  「さて、ベニさん。君が今まで見えていなかったものは見えたかな」  いつもの通り、静かで落ち着いた声の飽海に、返事をしようとして、言葉が出なかった。喉に何か詰まったように息ができない。そこで初めて、私は嗚咽が漏れ出そうになるほどに泣いていたことに気が付いた。  「ごめんなさい、飽海さん。私、帰らなくちゃいけない」  「今日の夜が縛兎と彼岸にいく約束だね。君は、どこへ帰るんだい」  「私は、生きて私の身体に戻らなきゃ」  縛兎は、きっと今花橘で待ってくれている。私が来ると思って、それが最善と思い待っていてくれている。私も今までそう思っていた。けれど、  「だって私は、まだお父さんに何も言えてない。私だけが勝手に聞いて、お父さんは私のことなんか全然わかってなくて」  父は、私の思っている以上に、私のことを知っていた。けれど足りない。全く足りていない。きっと父は、私の想いの10分の1もわかっていない。  「私はまだ行けない。話さなきゃいけない。私のことを、今までのことを……これからのことを」 どうしてか涙が次から次へと零れては地面にたどり着く前に夕日を反射させて消えていく。  ぼやけた視界で飽海は笑った。  「聞いてくれてありがとう。耳を塞和がないでいてくれたね。戻ってあげると良い。彼の後悔を払い、希望を取り戻すために」  みっともなく流れ続ける涙を拭おうと手をかざして、手のひらの向こう側がくっきりと見えるほど透けていることに気が付いた。  「身体が……!」  「もう戻ろうとしてるんだろうね。君はもう戻ることを選択した。きっと辛いことも苦しいことも、君の人生にはあっただろうし、今後も君に降りかかることがあるだろう。それでも君は生きることを選んだ。彼岸に行くという選択肢は捨てられたんだ。そうなれば、君は君の身体に戻るほかなくなる」  「戻る、戻らなきゃいけない。でも私はまだ橘さんにお礼を言えてないんです」  ここに送り届けられるまで、私のことを思って橘は説得し続けていた。それでももういなくなってしまいたかった私はそれを跳ねのけた。私を受け入れてくれたお礼も、たくさんのことを教えてくれたことも、1年間一緒に暮らしてくれていたことも、私のことを考えてくれていたことも、何一つ、私はお礼を言えていない。縛兎だってそうだ。私の我儘を聞いてくれて、私の意志を尊重してくれて、私を連れて行ってくれようとした。きっとまだ彼は待ってる。それなのに、私が勝手に選択して、勝手にいなくなるなんて、いくら何でも不義理が過ぎる。  「ベニさん、大丈夫。これで終わりじゃないよ」  「え……?」  飽海がすっかり透けてしまった私の手を取った  「君はきっと元の生活に戻っていく。一人の高校生として、勉強に遊びに頑張って日々を生きていくだろう。確かに花橘や妖たちと交わらない生活だ。でも決してこれで終わりじゃない。生きていても、縁がすっかり切れてしまう訳じゃないんだ」  もう手を触れられているという感覚もないのに、飽海の手のひらの体温だけは夕日とともにじわじわと伝わってきている気がした。  「生きて、挨拶に来ればいいよ。もう二度と会えないわけでも花橘に行けないわけでもないんだ」  「飽海さん、」  「桜の季節に花見、は少し難しいかもしれないな。満開になるころでも、山に行けるほど体力が回復してないかもしれない。初夏くらいになるかな。君がいけると思った日に、行きたいと思った日にまた行けばいい。君が帰った後、僕がみんなに説明に行くよ。花橘で待ってる炉善たちにも、境内の外で君を待っている伊地知さんにも」  生きてまた、花橘に。決してこれで終わりじゃない、という飽海の言葉がじんわりと私の中へとしみこんでいく。  「誰も君を拒んだり、怒ったりはしない。炉善はきっと生きて歩く君を見て安堵するし、伊地知さんは君の頭を撫でまわすだろう。梅さんは君の手を取って喜ぶし、縛兎さんは君が納得のいく選択をしたことを褒めこそすれ彼岸へ連れて行けなかったことを怒ったりはしない」  ふと手のぬくもりが消える。見慣れた冬物のセーラー服も夕日の中に溶けていく。足も手も下半身もなくなって、身体が風の中にほどけていく。  「花橘はいつだって、客人を待ってるんだから」  その一言で、私の不安も一緒にほどけていった。  「飽海さん、伝えてください」  「なんだい。なんでも聞くよ」  「みんなに、ありがとうございましたって。みんながいたから私は迷わずに1年生きてこられた。みんながいたから私は戻れるようになった。それから急にいなくなってごめんなさい。いっぱい心配かけてごめんなさい。でも私は戻ってくるから、私はまだみんなに会いたいし、一緒にいたいから。これでさよならなんかにさせない。私はまた会いにいくよ」  腹がほどけ、胸がほどけ、肩がほどける。  「だからみんな待ってて。必ず戻るから」  とうとう口もほどけてなくなった。ほどけていくたびに私の意識も溶けていく。風の音に混ざるように、夕日の光に燃えるように。  私はみんなが、花橘が大好きだから。  最後の言葉は声にならなかった。それでもいい。足りない分は会いに行って、言えば良い。  一際強く風が吹いて、私は影も形を攫われた。眠りに落ちるように五感も意識も溶けてなくなった。  「伝えるよ必ず。桜良紅於さん、またあなたと会える日を楽しみにしています」  何も見えなくなった掠れた世界で、芦原神社の若い宮司が優しく笑っていた。
/62ページ

最初のコメントを投稿しよう!

28人が本棚に入れています
本棚に追加