おしら様と夏野菜の天ぷら 3

1/1

27人が本棚に入れています
本棚に追加
/62ページ

おしら様と夏野菜の天ぷら 3

 「お前はものが食べられない。そうだな?」  橘の言葉に、雪天は緩慢な動作で頷いた。  食べられない、というのはどういうことか。生き物でないからものが食べられないのか。いや、飛梅も伊地知もよく食べるし、味もわかる。初めから食べられなかったわけでもない、はずだ。少なくとも雪天が兄と一緒にいたころの話に食事時の思い出があった。  「どこから来たかわからず、家族を探している、と言ったな。けれど記憶は曖昧で抜け落ちが激しい。覚えているのは兄や兄弟について、周囲は山に囲まれ、いつも階上にいた。なにより、その白い毛。これだけであんたが何者かはわかる」  白い躰を震わせた雪天の前に、橘は籠に入ったままだった丸い桑の葉を一枚差し出した。  「あんたが食べていたのはこの葉だな。……あんたの正体は蚕。正しくはカイコガだ」  蚕。それはかつてこの国の主要産業を担っていたものだ。  雪天は、黒い眼を見開いて、そして静かに涙を流した。  「ああ、そう、そうだった。私は蚕。繭を茹でられることなく、兄に飼われ成虫となったカイコガだった」  絞り出すような震える声で、雪天は口を開いた。  「本来なら、私は兄弟たちと同じように蛹となったところヒトに茹でられるはずだった。私たちを釜で茹で、そうして繭から生糸を取り出す。そういう生計を立てているヒトたちだった。けれど、ヒトは、キョウジはどうしてか私のことを可愛がっていた」  どうして数多いる兄弟たちの中で雪天が選ばれたのかはわからなかった。躰が大きかったからか、それともよく食べる個体だったからなのか、それはキョウジしかわからない。手づから千切った桑の葉を差し出して、食べる様子をじっと見ていた。今日は天気がいいだとか、桑の実がなっただとか、お八つの饅頭がおいしいだとか、キョウジはたくさん雪天に話しかけた。彼の話を聞いても、相槌を打つことすらできないのが、歯がゆかった。  あれは、いったいどれほど前のことだろう。彼と過ごした春から、どれだけの時間が流れているのだろう。雪天にはわからない。けれど。  「ああ、ああ、あの子は今どこにいるんだろう」  「……少なくとも、ここ付近に今養蚕業をしているところはない。あったとすれば戦前、1930年代だ。世界恐慌、第二次世界大戦で日本の養蚕業はほとんど壊滅。それ以降は絹よりナイロンの化学繊維が主流になってる」  養蚕業はかつて日本の主要産業だった。けれど経済危機や戦災によりほとんどが廃業してきたという。だとしたら、雪天は半世紀以上、家を、家族を探し彷徨っていたのだろうか。  彼はまた思い出すように、しまわれていた大切なものを一つ一つ日のもとに晒すように口を開いた。  「そう、そうだ、あの子は、私を育ててくれた。繭に包まり蛹となった私を茹でることなく。あの子は繭からできてた私を、かわいいと言ってくれた」  あの子のために、生きたかった。恩を返してみたかった。  「けれど私には何もできなかった。私はただ見ていた。見ていることしかできなかった。このものも食べれぬ口は、声を出すことができず。この短い手足は駆け寄り抱き起すこともできず。大きいばかりの厚い翅は、空を飛び避難させることも、できなかった」  打って変わって、雪天は絞り出すように、ほとんど呻くように悔恨を吐き出した。  悲痛な声に耳を塞ぎたくなる。けれど私は聞かなくてはならない。彼の助けになりたいと思ったから、彼を家族のもとへ返してやりたいと思ったから。最後まで聞いて、その悠久の歩みを終わらせなければならない。その結末が、もう想像がついたとしても。  「……雪天、何があったの」  「夜。深い夜だった。動物も草も、みな一様に眠る時分だった。一瞬にしてすべてが燃えたんだ。屋根裏部屋の兄弟たちも、柱も、屋根も吹き飛ばされ、真っ暗い空に鬼火が舞っていた。とてもとても暑かった。兄弟たちが、音にならない悲鳴を上げていた。轟々と燃えていた。何もかもが赤く、熱く。あの子の褒めてくれた翅が燃えて、千切れ落ちた。飛ぶこともできず、私は床に落ちていた。あの子がいたはずの寝床は、燃える柱に押しつぶされていた。姿は見えなかった。そうして」  雪天はゆるゆると頭を振った。  「そうして私は、燃え尽きたのだ」  ふわふわと、指先で撫でられた毛も、羽衣のようだと言った翅も、何もかも、風に舞う灰になった。真っ暗い夜を切り裂く赤い明りの中、白い灰が、ひらひらと舞っていた。  「けれど、どれもこれも悪い夢だと。あの子は今も生きていて、あの炎の中で助かったのだと。だって私は今もここにいるのだから。あの恐ろしい夜が明けて、そうしたら、いつものようにあの子は私を撫でるのだ」  戯れに私の身体を指で撫で、何でもない日常を、あの子は語り聞かせる。そんな毎日が、夜明けさえ来れば戻ってくるのだ。  「あの夜の闇も、燃やし尽くす炎も、灰になっていく躰も。すべて悪い夢なんだ。ただ、今日も夜明けがやってこないだけで」  黒い目から、次から次へとやむことなく涙が溢れては零れ落ちていく。  黙ってただ聞いていた橘が口を開く。  「あんたはもうここにいてはいけない。あんたの兄弟は死んだ。少年もきっと。……あんたはただ気づいていないふりをしていただけだ。とうに夜は明けている。誰もがもう夜明けを歩き出している。今も夢の中にいて、夜明けを迎えられていないのはあんただけだ」  「ああ、ああそうだ。あの子はもういない。そして私も、もういない。もうあの日の夜明けはとうに過ぎた。ええ、ええ、知っていた。知っていたけれど、見たくなかった。あの夜の火の匂いを、私は知っていたのに。……ようやく、ようやく思い出した。あの苦しみも、そして忘れたくなかった、思い出たちも」  噛み締め俯く雪天に、かけられる言葉がなかった。けれどきっとただ聞くだけでいい。  「橘さん私はその匂いを知っている。あの子が食べていたものだ。薄い紙に包んで、私の前で食べていた。私にはものを食べる口がないから、あの子は私に可哀想と、いつか食べさせてあげたいと、あの子は私にそう言った」  光のさす蚕室で、少年は薄黄色の衣のついた桑の葉をお八つに食べていた。もう桑の葉も食べられない白い成虫の前に座って、慈しむように、憐れむように一匹のカイコガの首元を撫でていた。  「私は変わらず口がない。食べることは叶わない。だがその匂いをかぐことができただけで、私はあの子と、食卓を共にする「いつか」を味わえた気がした。あの子の食べるあれの名すら知らなかった。あれは”てんぷら”というんだね」  ありがとう、震える声でそう言った。  「……食べてみればいいだろう」  少し考えてから橘はそう言いだした。  「た、橘さん、雪天はものが食べられないって、あなたが言ったんじゃないですか」  泣いていたはずの雪天も目元を赤くしながら橘を見た。  「カイコガは口がないわけじゃない。退化していて何にも使えないだけだ。そして同じように、カイコガは筋力がことごとく退化していて、地を這うことも満足にできず、大きな翅で空を飛ぶこともできない。だが雪天は歩いている。本来なら退化していて動けないはずなのに」  根本的な話、もし雪天がただのカイコガであれば何もできず地面に落ちていることしかできない。けれど雪天はカイコガだったものだ。今はカイコガをベースとした霊、妖なのだろう。  「それ、実質なんだってできるってことじゃ……」  「個体により差がある。それでもって、妖はなってみないとわからないことが多い。試す分にはタダだ」  「セッテン、あーん」  どこか無責任な物言いの橘に戸惑う雪天の口へと、飛梅が笑顔で箸を向けた。箸の先にはさくさくに揚げられた桑の葉の天ぷら。  雪天は恐る恐る、襟巻きをずらして小さな口で天ぷらをかじった。  「……どう? 雪天、大丈夫? 無理そうだったら吐き出していいよ」  ほんの小さな一口を、ゆっくりと咀嚼する雪天を固唾をのんで見守る。状況からして、雪天が最後に食事をしたのははるか数十年前、幼虫だった時だろう。数十年ぶりの食事、それも摂食機能がない可能性も高いというのにいきなり揚げ物など食べて大丈夫なのか。  「うっ……」  「おい、だめなら吐き出せ。無理して飲み込むな」  「いえ、違うんです、本当に」  嚥下し、頭を振る。止まったはずの涙がまたあふれ出す。今度は自分の箸で、皿の上の天ぷらを口に運んだ。  「これが、あの子が私と食べたいと願ったものなんですね……!」  小さな口でサクサクと噛み切り、飲み込んでいく。流れる涙を拭うことなく、ただただ、少年とのいつかを咀嚼していた。  「ありがとう、橘さん、飛梅、ベニ。君たちのおかげで忘れたくなかったはずの大切なものを思い出せた。これでようやく、私も夜明けを迎えられる。感謝しても、し足りない」  店の外へ出ると雪天は深々と頭を下げた。その顔はとても晴れやかで、もう迷子ではないのだとよくわかった。  「少年と会えるといいな」  「ええ、ええ、いくら時間がかかろうとも、あちらで探し出して見せます。私は私の思いを、彼に何一つ伝えられていない」  雪天は大きな翅を広げた。目の覚める雪のような白だった。  「お三方、このお礼はまたいつか。かならず」  そう一礼した雪天は一陣の風と共に、光る糸が解けるように消え去った。雪天のいた場所には何も痕跡は残っていない。  「幽霊や、妖がいなくなる時って、こんな風に何も残らないんですね」  なんだか置いて行かれたようでひどく寂しかった。まるで今さっきまで話していたことが一時の夢のように思える。  「知らん。ものによる。盛大に痕跡や置き土産を残していくやつもいる。雪天がそうじゃなかったってだけの話だ」  「ベニちゃん、あとね、セッテン別に消えてないよ」  口の端に抹茶塩をつけた梅が雪天の消えたあたりを歩く。  「多分、お空に行っただけ」  「天国ってこと?」  「いわゆる彼岸だ。雪天はもともと死んでるが、死後現世を彷徨っていたおかげで別のものに変質した。本来身体が死んだ生き物は現世を彷徨っても数年もすれば魂が擦り切れて消滅する。だがそれこそ何十年も形と自我を保ったまま彷徨っていればより高位のものに昇華される」  なんでもないように話しながら店の中へと戻っていく橘を飛梅とともに追いかける。  「高位って……神様ってこと?」  「いや、雪天はただ彷徨っていただけで、信仰を集めてない。自然に発生し、ただある事象ならククノチやハツチと同じ精霊が近いだろうな。純粋な祈りや願いは崇高なものとしてただある。反対に恨み辛み……執着は変質し、精霊にもならず、妖と呼ばれるものになる」  雪天はただ願っていた。もう一度家族に、少年に会いたいと。きっと何十年、その願いが変わることがなかったのだろう。何もかも奪われた怒りよりも、恨みよりも、一点のくすみもない祈りを抱き続けた。  「精霊は自由だ。彼岸だろうと現世だろうと行き来できる。どうせまた来るだろ。そんなことより」  そんなこと、と片付けられることでもないだろうに、橘は冷めた天ぷらテーブルから取り上げた。  「あっちょっと待ってください、まだ食べます! まだ鰆食べてません!」  「食欲の権化か。捨てねえよもったいねえ。冷めると衣がべちゃっとするだろ。霧吹きとトースターで復活させる」  呆れたような橘の視線に思わず目を逸らす。そうだ、彼はぶっきらぼうだが食べ物を無駄にしたりはしない。特に今日のような旬のものを集めた料理の時は。手慣れた様子で水を吹きかけトースターの中に天ぷらを並べる。べちゃっとした衣を復活させるために水をかけるのは、不思議だ。  「橘さん、どうしてあんなにすぐ雪天の正体がわかったんですか」  「見た目。白い襟巻きにでかい翅、完全にカイコガだろ。ほかに間違いようがねえ」  「……蚕なんて養蚕に使われる幼虫しか見知りませんもん」  また自分の無知さを責め立てられているような気分になる。  「せめて飛梅は気付け。いろんな家に住む間に養蚕農家もいただろ」  「他の仲間はいたかもしれないけど、私は虫嫌いだから養蚕農家には住んでないもん。一回仲間の家見せてもらったけど、幼虫がワサワサいて無理。私は商家専門だもん」  蚕は桑を食べ、糸を吐く。吐いた糸でできた繭の中で蛹になる。そうしてその繭を釜で茹で、生糸を取り、それが絹となる。雪天は、たまたま少年が数多いる蚕の中から茹でることなく愛玩動物として傍に置いたのだろう。けれど成虫になったカイコガの雪天には、餌を食べる機能もなければ飛ぶこともできず、這うこともままならない。  「……雪天は、人間のことも、少年のことも恨まなかったんですね」  雪天はほかの蚕たちのことを兄弟と呼んでいた。決して認識してなかったわけでも、切り捨てていたわけでもなかった。自分のことを可愛がる少年が、一方でほかの兄弟たちを茹でて殺していることを、彼は知っていた。  「カイコガは、絹の材料である生糸を作るためだけに品種改良された。改良され、あらゆる器官が退化した。幼虫のころから枝につかまることもできなければ餌を探すこともできない。野生回帰能力を完全に失った家畜だ。蛹になれば茹でられ、繭をはぎ取られる。羽化し成虫になっても餌も食べられず、飛ぶこともできず、ただ交尾をして卵を産む。成虫になってからは10日程度しか生きられない。……ベニ、お前はどう思う」  漠然とした質問だった。けれどだからと言って投げ出していい質問じゃない。涙を流す雪天を思い出した。  「……可哀想、だと思います」  「そうか」  「でも私は養蚕について、全然知りません。カイコガの成虫の姿を知らないくらいに」  私は養蚕業について知識がない。かろうじて、かつて日本の輸出の大部分を担ってきた重要な産業であることを知っているくらいだ。どういう経緯で養蚕が発展したのか、家畜化される前の蚕がどんな姿をしていたのか、私には想像もつかない。  「だから、一側面だけを見て、答えることはできないと、思います。どうして蚕が必要とされたのか、退化するほどの長い時間、人の生活に寄り添ってきたのか、それを知っていないと、判断できません」  食べさせ、糸を吐かせ、殺す。それだけ聞けばなんと残酷なことだろう。けれどそれに至るまでに、どんな道を辿ってきたのか。もしかしたら、それを知れば私は、仕方ないことだと判断するかもしれない。それくらいに、私は彼らについて知らなさすぎた。  「何より、きっとそれだけじゃなかったんでしょう。雪天は兄弟を茹でた人のことを恨んではいませんでした。キョウジという少年のことを心底愛し、慕っていました。何十年も求めるほどに。ならきっと、外から見ただけではわからない何かがあると思うんです」  人間はひどい生き物で、蚕は可哀想な生き物だ、だなんて言ってしまうのは簡単だ。けれど雪天を見た私には、そんな乱暴な結論を口にすることができない。  「たった数十日、一緒にいただけの相手を、何十年も愛し続けることができるなら、雪天と少年の間には搾取するものと搾取されるものという関係以上の交わりがあったんでしょう」  ほんの一欠けらしか知らないのに、彼らのことについて、語りたくはなかった。  しんみりとした空気を破るようにトースターが軽い音を立てる。  「そういう橘さんはどう思うんです?」  「なんとも思わんよ。そういうのは門外漢が首突っ込んでもろくなことにならねえ。ただ恵みを享受するからにはある程度のことを知っておくべきだ。おら、できたぞ。座れ」  再び香ばしい香りに意識を持っていかれる。揚げたてとはまた違うが、湿気っていた衣はまたサクサクに戻っていた。桑の葉の天ぷらを口に入れる。これが雪天に食べさせたいと少年が心から願った味なのだろう。数十年、彼に会うために現世を彷徨っていた雪天。彼岸というのがどういう場所か私にはわからない。けれどどうか、あちらで二人が並んで同じものを食べていてほしいと願わずにはいられなかった。
/62ページ

最初のコメントを投稿しよう!

27人が本棚に入れています
本棚に追加