朝有紅顔の賛歌

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朝有紅顔の賛歌

 視える者の鉄則その一。  何も視てはならない。 「…………」  たとえ道を曲がった先に巨大な目玉がいようとも、決して目を合わせてはならない。  視える者の鉄則その二。  何も聞いてはならない。 「ああ、こうも暑いと参ってしまう」 「いやはやまったく。最近は水も減っておるしなあ。近場の水辺と言えば殿田川じゃが、あそこはいかん。近頃移り住んできた河童どもが小競り合いしておる」 「どこぞから来たか知らんが、余所者にでかい顔をさせるとは、土着の河童は何をしておるのか」  塀の上で駄弁る何かの声に耳を傾けてはいけない。余計な情報は遮断し、奴らの領分には近づかないこと。  視える者の鉄則その三。  まかり間違っても、やつらに返事をしてはいけない。 「面白い話してるのね」  鉄則は、少なくとも視える者の常識だと思っていた。  近づいてはならない、かかわってはならない。  なのに背後から、人ならざる者の会話に参加しようとする者の声が聞こえた。 「何じゃ人間、わしらが見えるか」 「視えるだけでないぞ。こやつわしらの話を聞いておった」 「いやはやまったく、人の子よ。ちょっと付き合っていかんか」 「なあに。さっきの川の話?」  しれっと参加しようとする馬鹿はいったい何者なのか、とその姿を確認したくなったが、振り向けなかった。  俺には振り向く勇気がない。いや、彼女を助ける勇気も、奴らと関わる度胸もなかった。  鉄則は、力もなく、ただ視えるだけの俺の生存戦略だ。  子供のころから恐ろしい目に何度もあった。経験から学び、同じ轍を踏まない。それが俺の信条だ。  だから俺は、俺のために振り向かないし、足を止めない。 「どうしたん善弥。機嫌がやたらと悪いじゃん」 「別に悪かねえよ」 「朝から変なものでも視た?」  昼休み、半ば確信めいてそう聞いた隣のクラスの飽海に舌打ちをする。態度が悪いだなんて小言が飛んでくるが、その顔は穏やかなもので特段怒っているわけではないのがわかる。 「イチゴミルク飲む?」 「……もらう」 「ん、120円ね」 「くれるわけじゃねえのか。しかも自販機の金額より高い」 平然と手のひらを差し出してくる飽海に仕方なく120円を渡す。 「自販機は1階にあるからね。3階から階に行くことを思えばプラス10円は妥当じゃない?」 「妥当じゃねえよ生臭坊主」 「坊主じゃないからねえ」  紙パックのイチゴミルクは見慣れたもので、釈然としない思いのままストローを咥える。いつも通りの甘さにもやもやとした気持ちが少しだけ晴れた気がした。 「変なもんじゃなくて、変なやつ見たんだよ」 「なに? 不審者? 善弥ってそういう引き悪いよね。うける」 「うけんな。ってか不審者じゃねえよ。……顔も見てねえけど、やばい女」 「痴女?」 「引っ叩くぞ。その辺にいた妖怪の会話に自分から首突っ込んでいくやばい奴」 「……それは、やばいね」  困り眉でへらりと笑うが、そのまずさを飽海もよく知っていた。  小学校からの幼馴染である飽海は神社の子で、物心つく頃には人でない者たちがはっきり視えていたという。俺が心に決めた鉄則は俺だけではなく飽海もまた遵守していた。 「どんな人だったかは見なかったんだね」 「俺が妖怪の前を通りすぎてから話しかけてたんだ。立ち止まっても振り向いてもない。声しか聞いてねえし、その後どんな話になったかも知らねえ」 「ちなみに妖怪たちはなんの話をしてたの?」 「殿田川の河童の縄張りが侵されるって話」 「それだけ聞くと昔話の導入で和やかに聞こえちゃうなぁ」  乾いた笑いをこぼしながら飽海は購買で売っているアイスシューにかじりついた。  昔話なら、きっとなんやかんやあって円満解決するだろう。だが現実にそれが起こっていて、人間が自ら巻き込まれに行くのは自殺行為だ。大抵の妖怪は人間より強く、無論河童も例外ではない。人間の臓腑を取る者もいれば川に引きずり込み溺死させる者もいる。少なくとも関わって得する類のものではない。 「さて、その変わり者の女性は無事かな?」 「……俺が知るか。自分から巻き込まれに行くやつは自己責任だろ」  パックの中身をいっきに吸うと、軽い音を立ててパックが潰れた。  そうだ、ただの馬鹿だ。妖怪なんて人の理から外れたものなど避けて生きるのは当然だ。  ふと、周囲の話し声が不自然に止んだ。  天使でも通ったかと思ったが、皆一様に扉を見ており、その視線を追っていくと一人の女子生徒がいた。  ぼさぼさの黒髪、既定よりも短いスカートにハイソックスすら履いていない。  条件だけ上げれば盛大に遅刻してきた不良にも見えるが、一目でそれではないというのはわかる。 「た、橘さん、どうしたのそんなびしょ濡れで」  その女子生徒は全身ずぶ濡れだった。  彼女が歩く度、黒髪からプリーツスカートから水滴が落ちる。 「河童と相撲してきた」  勇気をもって声をかけた生徒は返事もできず絶句した。  けれど橘と呼ばれた彼女だけは平然としていて、黒いスクールバックを机に置くと平然とサンドイッチを取り出し頬張り始めた。  教室中の視線は静かに霧散し、彼女に関する何かしらがささやかれていた。 「飽海、なんだあいつ」 「あの子は橘さん。休みがちな……まあ見ての通り聞いての通りの変わった子だよ」 「あの女だよ、妖怪に話しかけてたやばい女」  飽海が目を瞠り、信じがたいように俺を一瞥して、もう一度彼女をみた。 「はははは、河童の縄張り争いにひと肌脱ぐなんて、優しい子だね」  まるで笑っていない笑い声を聞きながら、びしょ濡れの橘を眺めた。  妖怪の小競り合いに首を突っ込むやばい女。  それが隣のクラスの橘紫苑の最初の印象だった。  一度目につけばつい、その姿を追ってしまう。  教室の南側の後方窓際。この上ないほど居心地のいい席で、眠気と戦いながら倫理の授業の板書をする。  校庭から教師の張った声が聞こえてきた。サッカーをしているようで度々ボールが視界にちらつく、何となく校庭に目をやると、隣のクラスの授業だったようで、だまになって笑っている集団の中に飽海の姿を認めた。そして校庭の端、植え込みにしゃがみこむポニーテールが見えた。 「…………」  授業に参加もせず、一人で植え込みにしゃがみこむ橘紫苑、件のずぶ濡れ女。  周囲からはきっと協調性がなく、独り言を言い続けるやばい奴、良くてオカルト好きの不思議ちゃんと言ったところだろう。だが先日のずぶ濡れ事件のことを思えば不思議ちゃんなどというふわついた言葉では到底片付けられないのではないだろうか。  今もきっと、彼女はそんな目で見られている。  そして彼女のいる植え込みには、小さな人ならざる者がいるのだろう。 「馬鹿じゃん」  声に出せない言葉を、ノートの端に書きなぐった。  馬鹿だ、馬鹿。普通の人間には見えない何かに構い、周囲の人間から浮く。人間社会でやっていけない、やっていこうとしない。人間のくせに、馬鹿だ。いくら人でない者と仲良くなったところで、あっという間に裏切られ、奴らの飯にされるに違いない。友好的に見える人食い、言葉すら通じない怨念の塊、人間への嫌がらせを生きがいとする奴。どいつもこいつも、ろくでもない。  無視もせず、目も逸らさず、声かけて見せるあいつは、馬鹿だ。  一瞬、橘の横顔が見えた。  屈託のない、笑顔だった。 「……馬鹿だ」  ああやって人間に笑顔を振りまいていれば、簡単に周囲と馴染めるだろうに。  たとえクラスが違えども、行動が目立つ奴は噂になりやすい。  奇人、変人、橘紫苑。  制服を着崩していることが多い。やたらと走ってる。よく遅刻をしている。休むことが多い。しゃれっ気はない。クラスメイトとはほとんど話さない。何があっても笑わない、表情を歪めることもない無表情で無感動。友達と呼べる存在も学校にはいない。  幽霊が見えるという構ってちゃん。オカルトや黒魔術に傾倒する奇人。  両親がいない。実は二人とも自殺している。山の中に住んでいるホームレス。  嘘とも本当ともわからない噂から、明らかに好奇を孕んだ心無い陰口まで。だが誰もが彼女の存在を知っていた。 「っていうより、君が周囲に興味なさすぎるんじゃないの。クラスメイトの名前ですらあやふやじゃん」 「そこまでじゃねぇよ」 「周囲に興味がない、というよりも余裕がないっていう方が正しいかな。最近眠れてるかい?」  気軽に顔に触ってこようとする飽海の手を振り払う。そしてそれからわずかながら自己嫌悪に陥る。こういったスキンシップを嫌がったり言葉を惜しんだりするから俺は友達が少ないのだろう。こいつと違って。 「眠れないならうちに来なよ。うちの神社周辺だと変な奴はぐっと減るし」 「……さすがに悪い」 「気にしないでよ。君の不安とか危機感は僕だって多少なりともわかるんだから」 「……おう」  自分の周りに、人でない者を視ることができる人間は飽海以外にいなかった。  子供のころは自分に視えているものを家族や友人に理解してもらおうと躍起になっていたが、どうあがいても、視えない奴には視えないと気づいてからは諦めた。両親も、子供が構って欲しくて作り話をしていたのだ、という見解に落ち着いている。  たぶんそれで正解だった。  本当に見えないものが見えていると中途半端に信じられて気味悪がられるよりずっといい。そういう意味で、両親は実に現実的で良識的だった。  もし俺に人でない者が見えるだけではなく、撃退するような才能があれば。漫画やアニメの陰陽師やエクソシストのように祓う力があったなら、と夢想したことは数えきれない。けれど俺は、ただ見えるだけの凡人で、それ以外の才能など何もなかった。結局身についたのは人でないものたちから逃げ出す足の速さだけだった。 「あいつ怖い思いしたことねえのかな」  なんとなく口から出た言葉に飽海が目を細めた。 「どうだろうね。そもそも“怖い“の基準は人によって違う。それに体質にもよるんじゃない。僕はうっすら人じゃないものに嫌われて避けられてるけど、もしかしたらその逆もあるかもしれない」 「……化け物に好かれる才能?」 「知らないけどね。もしかしたらそういうのもあるかもしれない」  あんな悍ましいものに好かれるというのはなんという不運だろう。好かれ、付きまとわれ、常に視界に奴らがいる、なんていう事態に陥ったら発狂しない自信がない。  けれど一瞬ほんの一瞬だけ好奇心が首をもたげた。  もしも奴らが友好的で、ある種の友人関係を築けたとしたら、そこにはどんな日々が待っているのだろう。  自分で自分の想像をわらう。  楽観的で非現実的だ。そんなおとぎ話のようなこと、現実には起こりえない。とっくに冒険に夢見る少年からは卒業したのだから。  俺は生粋の帰宅部だ。  運動が嫌いだとか、何かに打ち込むのが向いていないというわけではない。ただただ早く家へ帰りたいのだ。より的確に表すなら、夜道を歩きたくない。  日が暮れると、人でないものたちは活発になる。日も人の目も憚らず跋扈するようになる。そんなときに視えていると知られれば格好の餌食だ。  だから俺は部活へ入らないし寄り道もしない。  いつも通り帰れれば家につくのは5時台で、夏の今では日が傾いてもいない完全に安全な時間帯だ。  なのに今日俺は、自分の少し前を歩く隣のクラスの女子生徒を見つけてしまった。  橘紫苑。  連れもなく、誰に見られているわけでもないのに、背筋が伸びていて、前へ前へと伸ばされる日に晒された足は迷いなく彼女をどこかへ連れていく。きっと彼女は今も仏頂面に違いない。  魔が差したのだ。  ほんの少しの好奇心と夏の暑さで正常な判断ができなくなっていたのかもしれない。  少しでも早く家へ帰ることを帰宅の目標にしているのに、今日の俺はどうしてか彼女の行く先がどこなのか知りたくなった。  一定の距離を保って彼女の後ろを歩き続ける。尾行などすべきではない。もしバレたら自分はどんな風に申し開きをするつもりだろう。正当性のかけらもない。ストーカーと糾弾されたなら事実以外のなにものでもなく、答えに窮する自分の姿が脳裏に浮かんだ。  短いスカートが、高くくくられたポニーテールが揺れる。  乾いた泥で汚れたスニーカーが登山口でもなんでもない山の麓の草むらへ踏み込もうとしたとき、反射的に声が出た。 「あっ、おい」 「……なに?」  不機嫌さを隠そうともしない低い声が返ってくる。  振り向いた顔は訝し気と言うにふさわしい険しい表情で、俺が想像した通りの顔だった。 「山は、入らない方が良い。もうすぐ日も暮れて危ねえし、」 「そう」 「っておいっ止めてんのになんで山に入ろうとすんだよ!」  山は自分にとって鬼門だ。  人でない者たちは虫のようなもので、山の中に住むものがとても多いのだ。街中や道路とは日にならないうえ遮蔽物が多く日が届かない。山の中に一人で、それも夕方に入るなど正気の沙汰ではない。少なくとも、視える者にとって。 そしてそれは彼女も知っているはずだ。 「私が行きたいから。あなたには関係ない。っていうか誰? 同じクラスの人?」 「関係なくとも目の前であぶねえことする奴がいたら止めるだろ普通。あと俺はお前の隣のクラス」 「隣って知らないわ。誰よ。……いや、やっぱ言わなくていい。どうでもいいし」 「だからやめろって馬鹿なのかお前!」  もしかしたら、人でない者が無数にいるから立ち入るな、と言った方がよかったかもしれない。どうせ視える者同士なのだからバレたところで問題はない。けれど俺は臆病風に吹かれた。もし彼女が見鬼ではなく、ただの虚言癖のあるやつだったとしたら。  大した理由を用意することもできず、彼女の入山を止めようとする俺の意識は、突然途切れた。 「ん……?」 「やっと起きたの。随分寝たのね」  肌寒さに目が覚めると、隣には件の女子生徒、橘紫苑がいた。状況を把握しようと身体を起こし息を飲む。  頭上には満点の星が広がっていた。こんなにも空には星があったのかとあっけにとられる。けれど次に別の意味で息を飲んだ。  夜だ。夜が来ている。  自分が横たわっていた場所は短い雑草の生えた草地。周囲は木々で覆われている。  寝すぎてきしむ身体から冷や汗が吹き出る。 「よりにもよって……」  山で夜を迎えてしまった。考え得る限りで最悪の事態だ。  もう一度 空を見上げる。星降るような感覚に陥りながら唾を飲む。  あれは本当すべて星か? 「痛いところはない?」  暗くて表情は良く見えない。けれどその声色は山の麓で話したこちらを突き放すようなものとは違っていた。 「ない、と思う。特にどこにも」  しいて言うなら地面に寝転がっていたせいで節々が痛いくらいだが、彼女が聞いているのはそういうことではないだろう。 「いや、何が起こったんだ……? 山の麓でお前と話をしてたと思うんだが、なんで俺はこんなところで寝て……?」 「あの直後君が突然眠りに落ちたんだ。家も知らないが放置するわけにもいかず、ここへつれてきたの」 「は、突然寝落ちするとかそんなこと」 「っそんなことがあったの」 「俺の身体を運べそうには見えないが」 「そうよ。頑張ったのよ」  何があったかいう気はないらしい。態度からして彼女が事情を知っているのは間違いないが、ひとまず怪我もないし、何かを奪われたわけでもない。釈然としない気持ちを抱えながらもあたりを見渡す。木々の隙間、草むらの影からいくつもの視線を感じて身を固くする。 「ここはどこだ?」 「山の中。私の秘密基地の前庭」  秘密基地。まるで子供の言葉を選んだ橘に思わず反芻してしまう。  前庭と言われ、はっと右手を見るとそこには和風家屋のような東屋があった。秘密基地、というにも立派すぎて、もはや別荘ではないかと橘と東屋の間で視線をさ迷わせる。  変人を追いかけて、心配して制止しようとしたら意識がなくなり、夜中山中で目を覚ます。いったい何がどうあって俺はこんなことになっているのだろう。携帯を取り出すと電波は飛んでいない。時間を確認すると夜の8時だった。道理で太陽の影も形もない 「私はここに来たかったから来た。自分のことは自分で何とかできるし、心配も何もいらない。あとこの山の所有者は私のおばあちゃん。この山は私の庭のようなものなの。だから私がいつここへ入ろうとそれは私の勝手」  つまらなそうに橘は立ち上がり俺を見下ろした。 「さあ、目が覚めたならさっさと帰って。いつまでも付き合ってられないわ。隣のクラスの誰かくん」  ほっそりとした右手はまっすぐ獣道を指さした。 「……道がわからん」 「問題ない。そこの獣道をまっすぐ降りるだけよ。君が他所見しなければ迷うことなく帰れるはず」 「明かりも何もないじゃねえか」 「携帯。ライト点ければ足元照らすくらい十分じゃない」  生ぬるい風が吹いて、周囲の木が彼女の言葉に賛同するように騒めく。  おそらく、本当にその道を下っていけば元の道へ戻れるのだろう。それこそ彼女の言う通り、足元を携帯のライトで照らしつつ、足を滑らせないように気を付ければ。もし俺に何も視えていなかったなら、きっとそれで無事帰れたはずだ。  これ以上言い訳も紡げず、唾を飲み込んだ。嫌な汗がじっとりとシャツを濡らす。 「なに、どうしたの? さっさと帰りなさいよ。帰る場所があるんでしょ」 「……ああ、」  携帯の画面には母からの着信履歴がいくつもあった。  いつも明るいうちに帰ってくる、夜が嫌いな息子が何の連絡もなく帰るのが遅れるはずがないと思っているのだろう。他所から見たら過干渉の過保護かもしれないが、普段の俺の行動パターンを知っていればこの状況の異常さはすぐにわかるだろう。  そうだ、俺は帰らなければならない。 「大丈夫だ」  大丈夫だ、何も問題はない。いつもどおり視えるものはすべて無視すればいい。山の中の化け物など、虫のようなものだ。気にしていてはきりがない。  俺は、何も視ていないし、何も聞いたりはしない。  大丈夫だ。 「君、なんて顔をしてるの」 「は……?」  気が付けば目の前に橘紫苑の顔があった。  あまりに近い距離で、夜の暗さなど気にならないほどはっきりと顔立ちが捉えられた。  鼻筋の通った顔。肌は白く、眼は夜のように黒い。整った顔が困ったような表情を浮かべていた。 「何を怖がってるの?」 「こ、わがってなんかねえよ、別に」 「嘘を吐き。怯懦に塗れた顔をして。まるで犬に吠えられ怯える幼児みたいよ」  あんまりな物言いだ。だがたぶん、彼女の表現は的確だった。  今の俺は、いつも通る道を強面な犬が散歩をしているときの子供だ。それがいることが怖くて前へ進めない。  ならきっと、今の俺は彼女が言う通りの顔をしているのだろう。 「……夜が、怖い」  なけなしの勇気を振り絞った。  初対面の同級生に話すようなことではない。口にした瞬間から後悔があふれ出す。少し話しただけで、彼女は決して友好的な部類でもこちらに気を遣ってくれる部類の人間でないことはわかっていた。馬鹿にされるか、嘘と思われるか、いずれにせよ言わなければよかったという気持ちが止まなかった。 「なんだそんなこと」 「いや、いい、忘れろ」 「気づかなくて悪かったね」  予想に反して、橘はあっさりとそう言った。近くに放り出されていた黒いスクールバックを拾い上げ、獣道の前へと歩いて行った。言葉を忘れそれを見ていると彼女は不思議そうに首をかしげる。 「どうしたの」 「……笑わねえのか。高校生にもなって、夜が怖いとか」 「笑わないわ。夜の闇を恐れるのは夜行性でない動物として当然のこと。本能よ」  胡麻化すでもなく、はぐらかすでもなく、ごくごく自然に彼女は言った。 「私が送っていく。……仮にも君は私を心配してついてきてしまったのだから。眠ってしまったのはともかくとして、そもそもの発端は少なからず私にある。ほんの5%くらい」  スクールバックから何かを取り出すと、橘はふっと息を吹き込んだ。取り出したアンティーク調のカンテラに明かりが燈る。大きさに反してカンテラは足元だけではなく周囲を煌々と照らした。 「これくらい明るければ怖くないでしょう。明かりに怯え、獣の類は寄ってこない」  恐れているのは獣の類だけではないという思いは奥歯を噛んでやり過ごす。余計なことは言わないのが吉だ。たとえ一人でなく、明るいカンテラがあったとしても、今から自分たちが歩くのは魑魅魍魎がささやき合う夜の山なのだから。 「ああ、助かる」  橘に誘われ、獣道へと踏み出した。  ざわざわと木々が揺れ、枝葉を擦らせあう。カンテラのおかげか、突き刺さるような視線はやや薄い。木の上に、草むらの陰に何かがいる気配は感じたが、あえて俺たちの前に現れることはなかった。迷いなくずんずんと進んでいく橘の後姿を追う。山中を歩くから彼女のスニーカーは汚れているのだろう。 「……お前は、山の中の夜が怖くはないのか」  木々の陰にいるものたちに気づいているのに、周囲からの好奇の視線に気づいていないはずがないのに、どうして恐れずにいられるのか。 「怖くないよ。私は夜と親しいの」  あっけらかんとした言葉は思いのほか心にすとんと落ちた。  橘紫苑は夜と親しいのだ。  夜と、夜に生きる者と。  夜行性でない生き物にとって夜が恐ろしいのは当然だと論じた彼女は夜行性なのだろうか。  だから昼の学校と親しくはなれないのだろうか。 「君はまだ怖い? 何か話している方が気も紛れるだろうし、どんな話が聞きたい」 「……このあいだ、お前がずぶ濡れで登校したときの、河童の話」 「君、別のクラスなのにあの時教室にいたのね……。まあいいわ! 川の匂いのせいで生臭くはなったけど、あれはとても面白かったから」  揺れるカンテラと何かの囁き声の中、橘はきゃらきゃらと笑って話し出した。
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