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会社を定年退職してから濡れ落ち葉同然の身の上になり、リビングで暇を持て余しているような身の上だが、焦ってみても始まらない。会社を退職しても、なかなか次の就職口はない。バイト探すのも競争だよ。今日は女房がパートだ。スーパーへ行く女房の後姿を見送ってから、《ヒモ》という言葉が脳裏に浮かび、忸怩たる思いを噛みしめる毎日だ。
中高年の味方、サプリメントを買うのもままならなくなって、今日は手製で健康食品を作ろうと思い立った。
チャレンジするのは酢卵だ。
さて、レシピはいたってシンプルで、酢に卵を殻ごとつけて、冷蔵庫に保管する。
すると卵の殻は酢で溶けてカルシュウムが混ざり、それに卵の成分が溶け込み、健康ドリンクが完成するんだから、お手軽だ。
飲めば新陳代謝が促進されてお肌はツルツル、高血圧や糖尿病、神経痛やリウマチ、成人病などの生活習慣病に効果抜群というのなら、これは呑んでみたい。
そうラジオで聞きかじった俺は実行に移す事にした。
まず硝子コップに酢を入れておく。
飴色の黒酢が怪しげでワクワクさせるじゃないか。
なんというか魔法使いが秘薬を製造しているような気分がしてくる。そういえば幼き頃、道端で咲いているタンポポの花を絞り、汁を透明のプラスチックのコップに入れて、日にかざして眺めたものだ。
透明の汁が輝いて見えて、(何かこれからできないか?)と、想像するだけで楽しかった。
(そうだ! 白いハンカチに浸したら、どんな色になるんだろう)
この実験には予行練習として、ティシュペーパーを使うのを怠らなかった。
もし、へんてこな色になったら母親に叱られると、用心したのだ。
結果は濡れるばかりで、ろくすっぽ色などつかなかった。
それとも、若干ではあったが黄色くなったか? 今となってはさっぱり覚えていない。
あの頃は、茄子の漬物につけたりするときに使う《ミョウバン》というものを知らなかった。あれは色が鮮やかになるんだ。おまけに色落ちしなくなる。これを教えてくれたのは割烹屋の女将だ。飲み歩くと、意外にこんな知恵が授かるもんさ。
もちろん幼児の俺が、そんな知識などあるはずがなく、実験に無理解な母親から、汚いと、平手で頭を叩かれたものだ。
さて不意に脳裏に浮かんだ、水泡の如き恨み事はさておき、俺は卵を冷蔵庫から出すと、酢を入れたガラスコップに入れた。
ブランデーに入れられた氷のような固い音が、ガラスコップの内側から微かに聞こえた。
思わず習慣で、グビッと喉が鳴ったが、勿論、こんな状態で飲むのなんか罰ゲームと同じだ。まずは三日間、寝かさねばならない。
おお、さっそく卵の殻に無数の水泡が出て来たじゃないか。
泡は増えて卵を覆いつくさんばかりだ。
この状態を三日、キープ。
「三日後には殻を取り、裸にむかれたお前はドレッシングや調味料になる」
そう、処刑人のようにテーブルの上の硝子コップの中で泡だらけになった卵に宣告してやった。そしてコップの上をラップで蓋をして、冷蔵庫入れて閉める。
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