1 始まりの契約

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 連れてこられたのは小さな一軒家だった。  表札はついておらず、家の前には手入れされていない庭が広がっている。壁は薄汚れていて、人の住んでいる気配は感じられない。 「何ここ空き家?」 「違うよ。ちゃんと人が住んでいる」  直哉の問いに美鈴はさらりと答えると、玄関を開けて中に入っていく。直哉もそれに続いて家に足を踏み入れた。 「お邪魔します」  挨拶をしながら靴を脱いで上がり込む。美鈴は真っ直ぐに居間へと向かい、直哉も仕方なく後に続く。 「あら、美鈴ちゃん。いらっしゃい」  そこには一人の女性が座布団に座って柔らかな笑みを浮かべていた。  年齢は七十歳くらいだろうか。優しそうな印象を受ける顔立ちをしており、なんとなく美鈴に似ている気がする。 「お婆ちゃん、今日は彼氏連れて来たよー」  美鈴が女性に話しかけると、相手は驚いた様子で目を丸くした。 「あら、まぁ! 初めまして。美鈴の祖母です。いつも孫娘がお世話になっております」 「ええと、初めまして。僕は桐島直哉と言います」   直哉は頭を下げて挨拶を返すと、改めて室内を見回した。  六畳ほどの広さの和室には家具が少なく、生活感を感じさせない。テーブルや棚などが置かれているものの、全体的に殺風景だ。  美鈴はそんな部屋に何のためらいもなく上がると、慣れた調子で腰を下ろした。直哉も彼女の隣に座る。 「ごめんなさいね、こんな汚くて狭いところで」 「とんでもない。突然押しかけたのは僕なので気にしないでください」 「ふふ、ありがとう。今お茶とお菓子を持って来るわね」  美鈴の祖母は小さく笑みをこぼすと、ゆっくりと立ち上がろうとする。 「あ、お構いなく」 「遠慮しなくていいからね」  直哉の言葉に優しく微笑みかけると、彼女は台所の方へ向かっていく。 「……あの人に会わせるために彼氏のふりをしてほしかったの?」 「まーね。あたしが一人で寂しい思いをしてないかいつも心配してたみたいだからさ、恋人でもいれば安心するかと思って」  美鈴は悪びれた様子を見せずに言った。  事実、彼女には友達と呼べるような相手はいない。少なくとも直哉の知っている限りは。  休み時間になっても誰とも関わろうとせずによく一人で過ごしているし、周囲も彼女を避けている。  美鈴自身はそのことを気に留めていないようだったが、祖母からしたらそんな孫娘がずっと気がかりだったのだろう。 「はい、お待たせ。粗末なもので申し訳ないけど、良かったらどうぞ」  美鈴の祖母が湯飲みに入った緑茶と羊羹を乗せた盆を手に戻ってきた。ちゃぶ台の上に並べられるそれらに直哉は一瞬戸惑ったが、会釈をして受け取る。 「ありがとうございます」  そう言いつつ、直哉はお茶にも羊羹にも手を付けずにちらりと美鈴に視線を向けた。美鈴は楽し気に笑っている。 「どうしたの直哉くん。もしかして、緊張してる?」  普段は名字でしか呼んでこないのに、美鈴はわざとらしく名前で呼んできた。 「そうだね。美鈴ちゃんのご家族に会うのは初めてだし、ちょっと緊張してるかも」  直哉の方もわざと名前で呼んでやると、彼女は一瞬だけ意外そうな顔をしてから口元を緩めた。 「もう、可愛いなぁ」  美鈴は甘えるように直哉の腕を抱き寄せると、肩に頭を預けてきた。  彼女の祖母はその光景を見ながら優しく微笑んでおり、慈愛に満ちた表情からは孫娘を心から大切に思っているのが伝わってくる。 「お婆ちゃん、直哉くんのこと気に入ってくれた?」 「もちろんよ。あなたが好きになる人なんだもの、良い人に違いないわ」  柔らかい口調で紡がれた答えに、美鈴は嬉しそうに頬を緩ませる。 (この子にも、こんな表情できるのか)  それは意外な一面だった。  美鈴はいつもつまらなそうな表情をしていた。周りの人間に興味がないのか、他人に対して素っ気なく突き放すような言動を取ることが少なくない。  だけど身内に対しては違うようで、こうして穏やかな笑みを浮かべている。  今まで知らなかった彼女の姿に、直哉は少しだけ感動を覚えた。 「本当に、嬉しいわ。美鈴ちゃんにこんなに素敵なボーイフレンドができるなんて」  祖母は感極まった様子で目尻に涙を滲ませる。  その体が淡い光に包まれたかと思うと、次の瞬間には彼女の姿が少しずつ透け始めていた。 「――ねぇ、直哉くん。美鈴ちゃんのことをよろしくお願いしますね」  祖母はそう言って深々と頭を下げる。  それと同時に、彼女の姿が完全に消え去っていた。
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