3 直哉の弱み

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 心臓がどくんどくんと脈打って、全身が熱い。  頭に浮かぶのは橘の顔ばかりだ。  教え子と教師として始まった二人の関係は、直哉が橘の思いを受け入れたことによって変化を遂げた。  放課後、誰もいない教室でキスをした。背徳感に苛まれながらも直哉の心は満たされていた。  今思えばなんて幼くて愚かしい関係だったのか。 (あの野郎)  直哉は心の中で口汚く罵る。  本当に馬鹿だった。あんな男を本気で好いた自分が憎い。  二年生になるまで、橘が結婚していたなんて知らなかった。しかも生徒と不倫している分際で妻との間に子供まで作っていたのだ。  せめてそのことを橘自身の口から言ってもらえればまだ救いがあったのだが、彼はそれを直哉にひた隠しにしていた。 『このことをキミに知られたら、嫌われるかと思って怖かったんだ』  橘の言葉を思い出し、直哉はぎりっと歯ぎしりする。  あんな不誠実な男嫌いだ。  橘から距離を置くために部活も辞めて、全てをリセットしようとした。  別れを切り出した時、悲しそうな顔をしてすがってくる橘に胸が痛んだ。  だから最後にもう一度だけ彼を抱きしめてやった。そんなつもりはなかったのに、最後の最後で心が揺れ動いてしまったのだ。  橘はそっと直哉に口付けてきた。直哉は目を閉じてそれを受け入れた。  別れのキスのつもりでいた。  ――直哉にとって想定外だったのは、その場面を見ていた人間がいたことである。 『あんた自身はいいかもしれないけど、これをバラされたら困る人がいるんじゃないかな』  桜沢美鈴はそう言って整った唇を歪ませていた。  まさかあの時のことを撮影され、それをネタに脅されてしまうだなんて。 (先生がどうなろうと、もう僕には関係がないのに)  それなのに美鈴の脅しに屈したのは、直哉の中でまだ橘への気持ちを断ち切れていなかったからに他ならない。 「最悪」  直哉は呟き、肩を落とした。  橘と別れてから好きでもない女の子と付き合い出したのだって、彼への当てつけのためだ。  彼とのことを思い出すだけで気分が悪くなるくせに、未だに執着してしまうなんて自分でもどうかと思う。   (もう、いいや。さっさと帰ろう)  そう思って歩く速度を上げようとした瞬間だった。  突然、ぞわりとした感覚が背中を襲った。  たまらずに振り返るが、しかしそこには変わった兆候は何も見えず、ただ静かな校舎が広がっているだけ。  不思議に思いながらも直哉は再び歩き出した。 『……あなた、可哀想だね』  背後から声が聞こえた。  体が硬直して、指一本すら動かせなくなる。 『おいで』  直哉は背筋を震わせる。  早く逃げなければと思うのに、足が動かない。 「っ、あ」  くらりと目が回り、直哉は倒れ込んでしまう。  なんとか声の主を確認しようとするが、目の前にいるはずの相手の顔がよくわからない。 「だ、誰?」  そいつは微笑みを浮かべながら直哉に近づいてきた。  直哉の頭の中で何かが切れたような音が鳴り、意識が完全に遠のいていった。
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