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子猫を親戚にあげた日以降も胡桃沢さんが教室に戻って来ることはなかった。僕の方は今まで通り「通行人A」として学校生活を送った。僕の家は五階で七階に住む胡桃沢さんはすぐそばにいるはずだったけど、エレベーターやエントランスで顔を合わせることもなかった。
入試シーズン開始を告げる共通テストが間近に迫った頃、僕はマンションの住人がエレベーターホールで立ち話をしているのを耳にした。
「胡桃沢さんのご主人、亡くなったそうよ」
「胃がんだったんですってね」
「奥さんと娘さんどうなるのかしら」
「さあねぇ。お気の毒に」
そのときエレベーターがやって来た。
僕が乗り込もうとすると、噂話をしていた主婦らしきグループの一人が背後から声を掛けて来る。
「あなたもしかして、胡桃沢さんの娘さんとお友達なんじゃない? 何か聞いてないの?」
僕はくるりと振り向いて答えた。
「友達なんかじゃないですよ。おばさん達は胡桃沢さんと相当仲が良いみたいですね?」
その女性は口ごもった。
「そういうわけじゃないけど……」
「無関係ですか。失礼しました。とても心配そうなご様子だったので」
僕はエレベーターに乗り込んで扉が閉まると、ガンと壁を蹴った。表情をコロコロと変えて、感情を全身で訴える胡桃沢さんの姿で胸の中がいっぱいになる。
ついこの間まで知らなかった本当の胡桃沢さん……。
僕はそのまま床にしゃがみこんだ
「参ったな……『通行人A』じゃいられないよ……。胡桃沢さんが『ヒー君』なんて呼んだから……」
それから、エレベーターに乗る度に僕は七階のボタンを押したい衝動に駆られた。けれども、どうしても押すことはできなかった。
入試が目の前に迫っている。胡桃沢さんが戦っていることを信じて、せめて僕も自分の戦いからけして逃げまいと心に誓った。
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