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共通テストの前日、僕は一つ覚悟を決めて高校のそばの公園の桜の巨木に向かった。転がっていた小石を拾うと、たくさんの相合傘が彫られた太い幹にひと際大きく相合傘を描く。そうして、自分の名前は書かずに『胡桃沢奈緒』と彫り込んだ。
僕が自分の名前を書かなかったのは怖気づいたからではない。今はまだそのときではないと思ったからだ。大学に合格したら、自分の名前を書きに戻って来るつもりだった。そして、マンションへ向かい、エレベーターの七階のボタンを押す。
僕は桜の巨木に深く一礼して背を向けると、入試という目の前の戦いに身を投じた。
それから約2カ月後の三月半ば、僕は登校前に桜の巨木へと向かった。第一希望の大学への合格を、昨夜アプリで知った。この後、登校してマンションに戻ったら、七階にある胡桃沢さんの家に向かうつもりだった。
昨日の夜の内に本当は七階に行きたかった。でも、女の子と付き合ったことがない僕は、歴代の生徒の恋を成就させたこの桜の木にあやかろうと、思いとどまったのだ。
公園に入ると、桜の花が早くもポツポツと咲き始めているのが見える。まだ冬の気配が残る冷たい空気の中、まるで春の訪れを待ちきれないかのように。
早朝の無人の公園を一歩一歩踏みしめるようにして桜の巨木に近づく。そうして、根本に転がる石を拾い上げたとき、僕は目を疑った。
「え! でも、そんな……!?」
相合傘には「胡桃沢奈緒」と記された隣に、書いた覚えのない僕の「氷川英人」という名前が刻まれていた。けれども……。
僕は学校に向かってダッシュした。登校する生徒達をかき分けるようにして校門を抜け、廊下を走り、階段を駆け上る。
「先生!」
僕は職員室のドアを開けると、由佳ちゃんに大股で歩み寄った。
「氷川君、おはよう。まっ先に職員室に来るなんて、良い知らせかな?」
僕はぞんざいに言った。
「大学ですか? 合格しましたよ」
「あら、そう」
僕の口調に由佳ちゃんが目を丸くする。僕は間髪入れずに尋ねた。
「胡桃沢さんはもう学校に来ないんですか?」
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