蒼山高校物語《3学期編》

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一 初詣  1月の三が日が過ぎたころ、貞晴と陽介は、山際の少し高くなっている道を歩いていた。貞晴の家の近くの神社へ初詣に行くための、寺から続く田舎道である。  快晴の日和で太陽の光はどこまでも透明に野山を照らしていた。風は真冬の冷たさで容赦なく二人の頬から体温を奪うが、日の光のお陰でそれほど辛くはなかった。  山の近くで冬は冷えるんだ、と聞いていたので、陽介は万全の準備をして貞晴の家に泊まりに来ていた。貞晴の家に着いて早々だったが、陽介が初詣に行っていないことを聞いた貞晴が連れ出した。  イヤーマフとカラフルなダウンジャケットに編み上げのショートブーツといった出で立ちの陽介を見て、貞晴の母、杏子が 「まぁ、なんて可愛らしいんでしょ」 と言うので、貞晴は苦笑いしてしまった。剣道の試合では、烈火のごとく相手を猛攻する陽介を知っているので困ってしまった。後で陽介に謝ると「杏子さんはオシャレっていう意味で言ってくれたんじゃない?」と気にした様子も無かった。  夏休み以降、陽介は度々貞晴の家に泊まりにきている。陽介が泊まりにくると、杏子の手料理に陽介が無邪気に喜ぶので、嬉しくなった杏子が帰り際に「またおいで」としつこく誘い、しばらく陽介を見ないと貞晴の父、耕一も「陽介君はどうしている?」と言うので、その度に貞晴が誘い、陽介が断らないので回数が積み上がっていった。 「で、冬休み中に行くことになったの?」  陽介が、道端の草に足を突っ込みながら貞晴に訊いた。 「……うん。明後日からほとんどの部活始まるでしょ?その日から、生徒会室も開けるんだって」 「へぇー」  陽介は足で草を弄びながら、貞晴のほうを振り返った。 「なんかもう選任されたみたいだな」 「だって、佐々木君は生徒総会のための通常の準備もあるからね。追加の仕事は厳しいと思う」と貞晴。 「楓さんもいるじゃん」と陽介。 「楓さんと佐々木君の二人で総会準備してんの。本当なら僕も手伝わないといけないんだけど。今回は逆で僕が二人に手伝ってもらっているんだ」  貞晴は、ぴゅうっと吹いた風の寒さで首を縮めた。それだけでなく、自分が引き受けた仕事と提案した案件について、遅ればせながら小さな後悔をしていた。  蒼山高校では、文化祭の後は恒例の生徒会長の代替わりが行われる。現生徒会本部のメンバーが退任式をもって退任した後、生徒会長を生徒全員の投票で決め、新生徒会長が副会長二名、書記一名、会計一名を指名し、生徒総会で生徒の承認を得ることで新生徒会本部の体制が決まる。  今回は、書記をしていた佐々木彰人と会計をしていた姫野楓が生徒会長選に立候補し、僅差であったが彰人が勝利したのだった。  ちなみに、生徒会長の立候補者には、生徒会運営の経験者の2年生(つまり次年度の3年生)が立つのが毎年恒例である。今年も、例外なく彰人と楓が立候補した。つまり、蒼山高校では、書記と会計は次年度の生徒会長候補なのである。  生徒会長として選任された者は、生徒会本部の他のメンバーを指名しなければならないが、選挙で敗れた者を副会長に置くのも恒例になっている。  したがって、彰人は楓を指名した。さらに、もう一人の副会長には大抵は学級委員の中から推薦などで選んでいくのだが、今回彰人は貞晴を指名してきたのだった。  最初貞晴は、その話を聞いたときびっくりしてしまったが、彰人から口説き落とされて了承してしまった。押しに弱い貞晴であった。 「ちょっとだけ後悔しているかも……」 「え?……副会長を引き受けたこと?」  陽介は草むらから手頃な棒を見つけ出して、振り回しながら訊いた。剣道有段者なだけあって綺麗に棒が弧を描いた。 「そうだね……。それもあるし、関わっちゃったら適当なこと、できないでしょ?」 と、貞晴が答えると、 「まぁな。でも、彰人も適当なことする人間に関わってもらいたくねぇさ」 と励ますように貞晴に言った。 「ていうか、選任もされていないのに口出ししすぎたなぁっていう反省をしてます」  貞晴は足元の石を蹴った。石は小刻みに跳ねて、草むらに飛び込んだ。 「それは、生徒会本部の人数を増やすっていう案件?」と陽介。  貞晴は頷いてみせた。  貞晴が副会長を受けることにしてから最初に思ったのは、生徒会室での仕事を知りたいということだった。楓と違って貞晴は生徒会活動未経験なので、そのハンデを少しでも小さくしたかった。  入ってみて驚いたのが、書記と会計の仕事の多さだった。通常、書記と会計は現在の1年生に役が回るので実際には、副会長が主たる仕事をして書記と会計はその仕事の補佐的役割だった。それを知った貞晴は、彰人に「書記と会計、それぞれ定員を2人にすればいいんじゃない?」と言ったところ彰人が「俺もそう思ってたんだよ!」と俄然やる気を出してしまい、生徒総会で生徒会規約の改正が議題に上がることとなった。  貞晴は、単に思い付いたことを口にしただけだった。が、彰人と後にそのアイデアを聞いた楓の二人の盛り上がりに押され、言い出した貞晴が改正案の取りまとめをすることになった。ここでも押しの弱い貞晴であった。 「いいんじゃね?実際に生徒会、仕事が多いんだろ?」 「進学校であの仕事量だと、成り手は少ないよね」  貞晴は笑ってから、少し真面目な顔をして言った。彰人が何人もの1年生に指名を断られているのを聞いているからだ。 「個人にかかる負担って、みんな敏感だからなぁ」と陽介。 「だから単純に人が増えて個人の負担が減ればなぁっていう、ふわっとした希望を言ったら……」 「言ったら……」  貞晴がそこで言いよどむので、陽介が先を促すと 「そのための労力が半端なくてさ。しかも定員増やしたら、それこそ成り手を探すのが大変だぞって、先生から言われるし」 と貞晴が泣きそうな顔を見せた。  生徒会本部のメンバーは簡単に増やせるものではなかった。  単純に生徒会規約の改正でことが済むのではなく、そこにたどり着くまでに、職員会議での了承を得なければならず、職員会議で説明するための根拠として、過重労働となっている書記と会計の業務を数値化しなければならず、過去の業務量を調べなければいけなかった。つまり、貞晴は職員会議用の資料作りに追われていたのだった。進学校である蒼山高校では、よほどの理由がない限り生徒会本部の定員増は難しいとすでに生徒会活動の担当教諭から言われている。  それでも、担当教諭の大野から生徒会本部の定員増のために何をもって教職員を説得しなければいけないのか指摘してもらっていた。それが、前述の現状の生徒会の業務量の調査だった。  やらなければならないことは、分かっているので後は貞晴が実行するだけだった。それだけだが、考えると萎縮する自分がいた。主体的に行動することは、慣れていない貞晴だった。  二人は神社でお参りを済ませると、おみくじを引いた。  陽介が大吉で、貞晴は末吉だった。陽介の大吉に、貞晴が「すごいねぇ、いいねぇ」と喜んでいると、陽介はあまり嬉しそうでなく内容をさっと読んですぐに近くの小枝に括ってしまった。 「持ってかえればいいのに!」  貞晴が惜しがる姿に陽介は笑った。実は貞晴は、大吉を引いたことがほとんどないくじ運の無い男だった。 「いいって。大吉なんて怖いだろ?」 と、陽介は片方の口の端を上げて言った。(そんなもんかな)と貞晴は漠然とそう考えながら、陽介の皮肉な表情に引っかかった。 二 杏子の料理 「さあ、どうぞぉ」  杏子は焼き立ての餃子を、炬燵で待つ貞晴と陽介に差し出した。  炬燵の天板の上には、箸や餃子のタレの入った小皿やこんもりと飯が盛られた茶碗や小鉢に入った黒豆や栗きんとんが、既に並んでいた。黒豆と栗きんとんは陽介のリクエストである。  炬燵の脇には、二人分のノートや参考書が乱雑に避けられている。  貞晴と陽介は、神社から帰って夕食時まで炬燵で一緒に冬休みの宿題をしていた。 「うっわー!美味そう。匂いだけでやばいって」  陽介が嬉しそうに歓声をあげている。 「食べようか」 心の底から嬉しいそうにしている陽介を見て、貞晴は和みながら餃子の皿を陽介の前に押しやった。 頂きますの声がハモってから、二人はしばらくの間餃子をほおばった。陽介は「うまい、やばい、うまい」とひっきりなしに口走りながら、忙しく箸を動かしていた。  台所の奥から、「お代わり、あるからねー」という杏子の声が響く。「ふぁいー!」と陽介が口に含んだまま、返事をする。もう、何度目かの光景であった。  陽介が貞晴の家に泊まりに来る目的の一つが、杏子の料理だった。  陽介からは直接そのことを言われたわけではないが、陽介の様子を見れば分かることだった。杏子の料理の前で、陽介は驚くほど無邪気で無防備になる。高校での大人びた表情は消えて、守りたくなるような幼さを見せる。  貞晴は杏子の手作りの餃子を噛みしめながら、(いつもの味だな)と思うだけだが、陽介にとっては違うようだった。 「いつも家では冷凍餃子を食べてるって聞いて。お正月だけど餃子にしたのよ」 と言いながら、杏子が餃子のお代わりの皿を持ってきた。お茶も持ってきている。 「いつもじゃないっす。冷凍餃子は美味いんで、よく食うってだけで」 と、陽介が訂正を入れた。陽介は自分のことを滅多に話さないが、以前、家での食事は冷凍餃子を自分で焼くというのを貞晴がちらっと聞いて、それを杏子に話をしたのを覚えていたのだ。 「そうよねぇ。最近の冷凍食品て本当に美味しいらしいわねぇ。ご年配の檀家の方もよく買うっておっしゃっていたわぁ。じゃあ、しっかり召し上がれ」  杏子がそう言って去って行った。去り際に、 「お風呂は自分たちで用意して済ませるのよ。お布団は貞晴の部屋に置いているからね」と言って。杏子はこれから夫の耕一の手伝いに行くのだった。  餃子の2皿目もほぼ空になったころ、陽介は黒豆をつまみながら、貞晴に言った。 「なんか、悪いことしちゃったかなぁ」 「なにが?」と貞晴。 「実はさ、彰人からサダのこと『どんな人?』って訊かれたから、めちゃめちゃ押しといたんだよな」 と、陽介は箸先の黒豆を見ながら言った。 「そうだったんだ」 「驚かねえの?」 と、陽介は上目使いに貞晴を見た。 「……うん。佐々木君、いろんな人に僕のこと聞きまわったらしくて」 「そうなんだ」 「生徒会に入ることは、僕自身が決めたことだから気にしなくていいよ」 と、貞晴は「生徒会」という言葉を出したとき、意図せず彼の頭の中に、風に髪がなびく楓の姿が浮かんだ。彰人からもう一人の副会長は楓だと聞かされたとき、体の中心が揺らめくような感覚を感じたことを思い出した。 「サダがそう言うならいいけど……俺、マジで生徒会にサダはイイと思ったんだよな」 「そう?」 「そうそう」 と、陽介はすっきりした表情で栗きんとんをつまんでいる。 「それよりも僕は、陽介の顔の広さに驚いているよ?佐々木君とも友達だったんだ?」 「1年の時、同じクラスな。そのときあいつが学級委員で、俺がレク委員だった」 「そうなの?道理で慣れていると思った」 「何にだよ!」  陽介は笑いながらお茶を啜っている。 「……話は変わるけどさ、あの話はどうなった?」 と、陽介が貞晴を見た。あの話、と言われて貞晴もすぐ『あの話』と理解した。 「うん。OKもらえたよ」   三 あの話  『あの話』とは、貞晴が文系コースから理系コースに変更することを指す。陽介が貞晴に日ごろからコース変更を勧めていた。  蒼山高校では、2年生から進学希望先の大学や学部に合わせて理系コースと文系コースでクラス分けをして、授業内容も変えて学習することになっている。主に理科と社会で、それぞれの科目の進捗状況が理系コースと文系コースで大きく変わってくる。そのため、基本的には2年生進級後のコース変更は認められていないが、稀に生徒の事情が考慮されて認められることがあった。  貞晴の場合は、コース変更しても全ての教科の学習についていけるだけの学力があることが理由となり、年末の職員会議でコース変更が認められた。 「良かったなぁ」  陽介に笑いかけられて、貞晴は「うん」といって俯いた。  自分から文系コースに行こうと決めたことを覆すのは、なかなか骨が折れるものだった。  貞晴自身、素直になれば理系に行きたいのはやまやまだったが、相当な時間をかけて文系に行くと決めたので、それを撤回するのはまた相当の時間がかかった。  ただ、心の奥底を探れば、理系に対する未練が渦巻いていた。見ないようにしていても漏れ出てくる未練と、このまま当初の計画どおり仏教系の大学に進学してもいいのだろうかという疑念はそうそう拭えるものではなかった。  寺を継ぐ、と幼いころから表明していた兄が逃げてしまったことは、貞晴にとって悪夢としか言いようがなかった。自分が想定していた未来が大きく変わっていくのは、恐ろしいものだった。進む先に義務感しかなければ、それは自分が枯れていくだけの荒野が永遠に広がっているようなものだった。  それでも、貞晴は歯を食いしばる思いで、寺を継ぐという結論を出した。自分の欲求に忠実に生きることは、まるで身勝手な振る舞いのように思えた。それでは、自分が兄と同じに見えた。そうやって出した結論を変えることは、安易で安直な自分の存在を認めるようで怖かった。  永遠の荒野の前で絶望する貞晴に気が付いたのは耕一だった。柔道で事故を起こして、ふさぎ込む息子と幾度か対話した耕一は、かなり傷が深いと感じた。柔道の事故はきっかけに過ぎず、自分で自分の人生を生きていないロボットのような息子の姿に、自分がしてきたことの罪深さを悔やんだ。寺の跡継ぎを逃げた長男についても、そのような行動に走らせた自分を悔やんだ。耕一は、健やかな子供を二人も授かったのに、その二人が抱えていた辛さを察してやれなかった自分を恥じた。  耕一は、何度か貞晴に自分の進路は自由にしていいのだと伝えたものの、貞晴は「変える」とも「変えない」とも言わず、一向に自分の気持ちを表に出さなかった。耕一自身やきもきして、1学期が終わってしまったが、その夏休みに貞晴が友達を家に連れてきた。  陽介と名乗ったその少年は、利発で快活で、過敏なくらいに人の気持ちを察することができた。貞晴のように、人にも自分にも人間に対する興味を掘り下げない男にはぴったりだと、そのとき耕一は思った。後に杏子から、貞晴の訥々と胸の内を話すのを陽介が辛抱強く聞いていたというのを聞いて、陽介には感謝してもしきれないという思いが興った。  貞晴に、今まで誰にも触れさせなかった自身の弱さを晒す相手が見つかったことは、殊の外、耕一と杏子にとって嬉しいことだった。  同じころ貞晴から、進路の変更について話があった。やはり自分の好きな数学をやりたいという貞晴の言葉を聞いて、耕一は(やっとか)と思い、自分自身と対話できる息子に安堵した。  自分自身の想いを口にするときの貞晴の表情が豊かになってきていることに、耕一と杏子は嬉しかった。2年生になってから喜怒哀楽を少しずつ表に出すようになった貞晴の変化に、彼自身の成長もあるが傍にいる友達の影響も少なくはないだろうと二人は推測していた。  貞晴の成長に伴う辛さを分け合ってくれたのはまさに陽介であり、その貞晴のしんどい時期に寄り添ってくれた陽介のことは、耕一も杏子も口にこそださなかったが絶えず気に掛けるべき存在になった。  書斎で年賀状を整理している耕一のところに、杏子が来た。耕一の手伝いにきたのだった。耕一が選り分けた年賀状に返事を書くのは杏子の仕事だった。 「どうしてた?」  耕一が年賀状に目を落としたまま訊いてきた。 「ご機嫌に食べてましたよ」  杏子も年賀状の山をまとめながら答えた。二人とも、阿吽の呼吸で陽介の話をしていた。  耕一が手を休めて、息を吐いた。陽介が時折見せる暗い表情が気になっていた。貞晴に言わせると、「彼は大人びている」のだそうだ。単に陽介の精神年齢が高いために際立ってしまう表情であるならいいのだが、と耕一は思いを巡らせていた。   四 初詣Ⅱ  貞晴と陽介が初詣に行った日、祐子と萌と琴子は揃って電車に乗っていた。彼女たちも初詣のため、県内有数の詣で先となっている神社に出かけていた。  正月3が日が過ぎていても、参拝者のせいで日ごろ閑散としているローカル線が混雑していた。混雑した車内であっても、3人は向かい合うように扉のそばに立って、おしゃべりに花を咲かせていた。お互いに年末年始をどう過ごしたかの報告や、家で見たドラマやネット動画の感想を言い合いながら退屈な電車移動をやり過ごしていた。  参拝先の最寄り駅に降りると、参道まですでに人の流れは出来上がっていたが、電車内ほど混んでいないので3人に話題はプライベートなものになっていった。 「琴ちゃんは、結局彼氏と一緒に初詣いけなかったんだ?」と祐子。 「うん……。冬休み開けたらすぐ共通テストがあるからって……。でも毎日電話したりメッセージやり取りしているよ?」 と琴子は足元を見ながら言った。その言葉は寂しさに満ちていた。  琴子には、広田雄一という1歳年上の彼氏がいた。同じ高校に通う3年生で、地元の国立大学を進学の第一希望にして頑張っている。  もともと祐子と萌が初詣の計画をしていて、そこに「私は広田先輩と行くから」と言っていたものの冬休みに会う約束を全部キャンセルされた琴子が乗っかる形になった。 「でも寂しいよね」  萌が琴子の気持ちを察して言葉にした。 「……うん。でも仕方がないよね。試験、もうすぐだし……」と琴子。 「でもさ、こうやって3人で一緒に初詣行けて、私は嬉しいよ」  祐子が励ますように琴子に言った。それを受けて琴子も 「うん。私も萌と祐子に会えて嬉しいよ。それに、私、ここの神社来た事がないし。大勢お参りに来ているし、ご利益ありそう」  琴子はにっこりと笑った。雄一の合格祈願をしたい琴子の気持ちを汲んで、萌が「せっかくなら」と言って、遠出を提案したのだった。  参拝客の流れに乗って歩きながら、萌がおもむろに口を開いた。 「祐子さぁ、この冬休みに優衣と会った?」  優衣の名前を聞いて、祐子はあからさまに緊張しているのが分かった。 「……会ってないよ。ちらっと予備校の冬期講習に行くって聞いたけど……」 と、祐子が答えた。誰から聞いたかは言わなかった。 「そっか……」と萌。  そこで3人は黙り込んでしまった。  優衣は、文化祭のあと急に写真部を辞めると言い出した。理由は、勉強に集中したいからということだったが、それが本当の理由でないことは3人とも分かっていた。  優衣が辞めたことで、写真部の部長に萌がなり、副部長は琴子になった。萌も琴子も、それは何ら問題に感じていなかったが、写真部を辞めた途端に優衣が3人と接触を避けるようになったのが後味の悪いものになっていた。  萌はそれ以前から、優衣との距離を感じていたので、このように疎遠になったことは残念だったが受け入れられる部分もあった。しかし、祐子と琴子とまでキッパリ離れてしまう優衣の振る舞いには驚きを感じていた。  琴子は今の状況について、「優衣には優衣の事情があるだろうから」とさほど深くは言及しない。祐子に至っては、優衣の話題が出ると急にそわそわし出す。言えないことがあるのは、明らかだった。  言えないことに関して萌は推測できたが、その答え合わせをするように祐子に問うことができなかった。祐子はその相談役に琴子を選んだのだ。祐子から何か言われるまでは、何も問うことができない萌だった。  祐子が何か言ってくれればもっと深く繋がれるのに、と萌は物足りない思いがあったが、我を全面に押し出すことで相手から煙たがられるのはもう二度とごめんだという思いもあった。  沈黙を打ち消すように、琴子が 「ほら、鳥居が見えてきた」 と言うので、3人とも顔を上げた。萌は持ってきていたカメラで風景を数枚撮った。  それからは徐々に増えていく人込みの中を、はぐれないように手をつないだり服を掴んだりしながら縫って歩くのが、ちょっとしたレクリエーションになり、3人を楽しませた。  お賽銭を入れて参拝を済ませた後、琴子が絵馬を書いている間、萌と祐子は辺りの写真を撮っては見せ合っていた。それぞれ気に入ったお守りも買って、神社を後にする頃には3人とも満足した気分になって帰途についた。   五 バス停のベンチ  ターミナルの駅に着いてから、萌と祐子と琴子はハンバーガー屋でお腹を満たすとそこで解散した。駅近くに住む祐子は、停めてあった自分の自転車に跨ると「じゃあね」と言って、さっと帰っていった。別れ際があっさりしているのが祐子だった。  残された萌と琴子は、お互いの乗るバスが来るまでの間ベンチに座って待つことにした。 「こんなこと訊くの、今更なんだけど……」 と、琴子が前置きをして萌に話しかけた。 「1年の時ね、副部長になんで優衣を押したの?」 「……ああ。そういえば、そうだったね」  萌は他人事のように呟いた。琴子はそれを覗き込むように顔を傾けて、萌の言葉を待った。萌は、遠くを見ながら、 「一つは、優衣に部活を楽しんでもらいたかった、からかな?」 と言った言葉に、琴子はうんうんと頷いた。 「もう一つは、私が部活を楽しみたかった、からかな」 と、萌が言った。 「そっか」 と、琴子は萌が見つめる方向に顔を向けた。そして、琴子は内心意地が悪いと思いつつも、 「実際、どうだった?」 と訊いてみた。萌は首をかしげてから 「楽しかったと思うよ。途中まではね……」 と言った。これは萌の正直な感想だった。持ち上げられるのが好きな優衣にとって、副部長と言われて部員の中心にいるのは気持ち良かったに違いなかった。実際の雑務は、萌や琴子が手伝っていたのだから、写真部の活動から優衣が逃げたくなるほど忙しいことにはなっていなかったはすだった。  萌も、優衣に頼られて手伝うことが楽しくて仕方なかった時期だったので、部活動の時間は充実したものだった。 「途中まで、か……」  琴子は、心の中の小石にその言葉が当たったかのように反応して、そして呟いた。 「途中までは楽しかった……て。なんだか悲しいな」 「そうな」  萌も素直に同意した。そして、 「私さ、ちょっと前までは、楽しい状況って作るものだと思っていたのよ。でもね、違ってたね」 と寂しい表情で笑った。 「でも、努力して工夫して楽しくなることって、あるよね?」  琴子が勢いこんで言うと、萌は 「自分自身のことはね、努力と工夫でなんとかなる。けど人の心は、その人のものだから。他人がどうこうできないよ」 と呟くように言ってから、「だからさ」と声を張って続けた。 「自分の楽しさを他人に預けるようなことをしたら、良くないって分かったんだ」  萌は背筋を伸ばして、宣言するように言った。  琴子は、表には出さなかったものの萌の言葉に頬をぶたれたような気がした。 「あ、バス来ちゃった。行くわ」  呆然とした琴子に気が付かずに、萌は立ち上がった。バスのステップに乗ってから萌は琴子を振り返った。そのときには、琴子はいつもの穏やかな表情を取り繕って、小さく手を振っていた。萌も、軽く手を振り返したところでバスの扉は閉じだ。 六 私はひとり  祐子は自転車に乗って、グンと前に漕ぎ出した。萌と琴子と別れると緊張がゆるんでいく。 (今日は、上手くやれたんじゃないかな……)  祐子には自分が時々、相手の気を悪くしてしまうという自覚があった。いわゆる空気が読めないという質なのだ。しかし、悪気は全くない。むしろ相手を思いやり、全体を良くしていこうと思う方向に動いたら、逆に怒られたり、陰口を言われたりするのである。  これまで幾度も失敗体験を積み重ねてきた祐子は、人一倍友達の反応を見るようになっていた。それは萌や琴子に対しても同様で、仲良く一緒に過ごせるからといって、祐子が寛いだ気持ちで彼女たちと過ごしているわけではなかった。祐子にしてみれば、萌や琴子のことは、「意地悪をしない人たち」という認識だ。だからといって気を抜けない。気を抜けば、間違えてしまうかもしれない。祐子はそういった恐れからくる緊張を常に感じていた。  そのような緊張を避けるため、学校の中で一人でいてもいいかと思ったときもあったが、やはり一人よりも誰かと連なっていたほうが何かと過ごしやすく、なんとか連なりから外れないような努力をしていた。  そんな祐子に怯まず近づいてきたのが貞晴だった。最初は緊張していた祐子も、貞晴のおおらかさに居心地の良さを感じるようになった。貞晴には何を語っても弾かれないという安心感があった。自分でもびっくりするほど他人と打ち解けている自覚があった。  祐子のこういう感覚は覚えがあった。小学6年生のころ、走り回ることが大好きだった祐子は休み時間、男の子の集団の中に混じり鬼ごっこに熱中していた。そのときの「溶け込めている感」と貞晴との接触がとても良く似ていた。言葉尻をとらえて揚げ足をとられるようなことはなく、ただ無心に遊ぶことができた。日に日に冷ややかになる同級生の女子の目に気が付いたとき、地面が揺れたかと思うくらいの衝撃を受けた。  祐子は、その冷ややかさの原因は自分が「間違えた」からだと思った。「間違えた」という解釈になってしまうのが祐子のズレたところだった。活発で運動神経の良い祐子はむしろ羨望の対象であり、祐子から周りの女子を誘ってみんなで遊べば、それほどの冷たい当たりはなかったであろうが、「誘う」ことを求められていると気が付けないのが祐子だった。結果、あたかも祐子がクラスで人気者の男子を独占しているような遊び方となった。祐子はつい男子と近くなってしまう自分が良くないのだと、そう自分を責めて、それ以来、心の中で「距離を間違えるな」と自分を諫めていた。間違えると再び女子から冷ややかな目で見られてしまうという恐れがあった。  なにも全ての人間が同じことを見て同じ反応をするわけでもないのに、いくつかの冷たい仕打ちを以て、全てがそうであると思い、自分を守ることに自分を使っている祐子であった。  貞晴の存在は、祐子の心の支えになり女子の間に身を置く心のゆとりを生んだが、その陰で貞晴がどう感じていたかを考えるほど祐子に余裕は無かった。  言葉をそのまま受け取るのが、祐子の良いところであり、また生き難さを生む要因の一つであった。「いつも味方だ」という貞晴の言葉をそのまま受け止めて、それに自分を全て委ねてしまう純粋さがあった。  ところが貞晴からの思いがけない怒りを向けられ、何をどうしていいのか分からなくなっていた。  もうすぐしたら冬休みがあける、そう思うと祐子の気持ちは重くなった。  文化祭の前日、優衣に「どうしても」と頼み込まれて、優衣が貞晴に告白する手伝いをしたところ、貞晴からと優衣からの双方から怒りをぶつけられ、祐子は精神的に大きなダメージを受けた。  優衣は、自分から作戦を考えてきた。祐子に「こう言って、こう誘って」と。祐子は言われたとおりに動いただけだったが、終わってみれば 「いつも応援しているとか言って、陰で私のこと笑っていたんでしょう?」 と泣きながら優衣に言われてしまった。  どんなに祐子が否定しても謝っても、優衣はもう笑って祐子に話かけることは無かった。  しかし、貞晴に言われたことの方がもっと堪えた。 「なにをやっても、僕が怒らないと思わないで」  そう言った貞晴の表情は、ひどく傷付いていた。  そんなに貞晴を傷付けることをしたのだろうかと自分に問うて、それを素直にそうだと認められない自分がいた。自分に怒りを向けてくる優衣も貞晴も嫌だったが、そんな自分がもっと嫌だった。  自分の何が悪いのが本質的な理解を置いたままで、祐子はとりあえず貞晴に謝ったが「もういいから」と突き放されてしまった。  本来はおおらかな気性の貞晴だったが、自分自身の中の激しい感情をすぐには消化できず、その後笑って祐子に向き合うことができなくなっていた。  何を言っても笑ってくれる貞晴がそうでなくなったことは、祐子にとってただただ悲しい出来事で、2学期の後半はクラスに居ることが辛かった。  困った祐子は、琴子を頼った。祐子が他人を頼ることは滅多にないことだった。  話を聞いた琴子は、困った。困っている祐子に、なんと言えばいいのか困ってしまった。  琴子には、祐子が優衣のことも貞晴のことも傷つけるつもりは全く無かったと十分すぎるほど分かっていた。優衣に対しても、貞晴に対しても、友達として応え得ることをしていただけなのだ、という思いも理解できた。  心根の優しい琴子は、ハンドボール部での祐子の辛いいじめの体験も知っているだけに祐子の傷口を広げるようなことは言えずに、話を聞いて黙りこむしかできなかった。  唯一、口にしたのは琴子が感じた疑問だった。 「それで祐子は……、優衣の告白の結果、二人が付き合うことになっても良かったの?」  その質問に祐子は余計に混乱した。  優衣の告白の結果を考えていなかった自分に気が付いたが、それを気付かせてくれたからといって琴子に感謝はしなかった。祐子は結論が欲しいだけだった。 (琴子が一言、どちらが悪いか言ってくれればスッキリすることなのに) と祐子は苛立った。誰かに白黒つけてもらいたかったのだ。「祐子が良くない」と言われたら、悔しいが納得するしかないと思っていた。出来ることなら「祐子は悪くないよ。頑張ったよね」と言って欲しかった。優しい琴子は味方になってくれると思っていた。そんな琴子にまで裏切られた気分だった。  琴子に相談しても、はっきりとした答えを導き出せなかった祐子は、次に萌に相談することを考えたが、優衣といつも一緒にいた萌に「白黒の裁定」を頼むのは気が引けた。祐子はこれ以上、友達の間に波風を立てるのは嫌だった。 (結局、私はいつもひとり……)  祐子が自分を取り巻く人間関係に思いを馳せると、いつもこの結論になるのだった。   七 3学期  3学期になっても、祐子と貞晴の距離は元に戻らなかった。  教室を移動するとき、もう貞晴は一緒に廊下を歩いてくれなくなった。  昼休みは、萌や陽介を巻き込んで貞晴と弁当を食べるのが楽しいひとときだったのに、もうそれも失ってしまった。  12月の生徒会長選挙後に、貞晴が生徒会の副会長を引き受けてから、彼は昼休みには生徒会室に行っているようだった。  祐子が振り返って貞晴の席を見ると、2学期までの、自席で陽介に絡まれているか本を読んでいるかしていた貞晴の姿はもうなかった。  祐子は寂しさを紛らすかのように、萌や美緒にはじゃれついて、真紀とはノートに落書きをし合って、クラスで笑って過ごすようにした。  自分で自分に「笑え」と命じて、笑い続けていた。  自分の立ち位置が良く分からない祐子は、笑ってしのぐしかなかった。    カラカラとよく笑う祐子とまるで陽と陰のコントラストをなしていたのが、浩太だった。  2年D組は、体育祭や文化祭のイベントを経て、クラス全体に柔和な一体感があったが、その中で浩太は一人違う雰囲気を醸していた。  浩太は、その皮肉の効いた物言いが一部の男子生徒には受けていて、そのクラスメイトと数人のグループを作っていたが、12月ぐらいからグループから離れて一人でいることが多くなった。クラスメイトとよく喋りよく笑う少年だったが、そのころからあまり笑わず俯きがちにクラスで過ごしていた。  陽介と久志と憲太郎で食堂のうどんを食べているとき、その食堂にふらっと浩太が一人入ってきた。それに最初に気が付いたのは憲太郎だった。 「なぁ、矢野っちってさ。最近一人じゃね?」  陽介は、少し顔を上げて浩太の姿をちらりと見たが、そのまま興味無さそうにうどんを啜り出した。久志も「そうな」と言って、ちくわ天にかぶりついている。  浩太はカウンターで定食を受け取ると、陽介たちから離れた人のいないテーブルにつき、ロボットのように黙々と食べ始めた。  憲太郎は浩太が気になるのか、何度も振り返ってその様子を伺っていた。陽介は、浩太などまるでいないかのように、ひたすらうどんを啜り、汁も啜って 「あー、うまかった」 と言って、椅子の背もたれに上半身を預けた。七味唐辛子をたっぷりかけたうどんのお陰で、寒い1月でも陽介の鼻の先には汗が乗っていた。  憲太郎も久志も陽介に続いてうどんを食べ終わった後、3人はそこに長居はせず、さっと立ち上がるとトレイを食器返却口に持っていって食堂を後にした。  食堂の出入り口で憲太郎が振り向いて浩太の様子を見ていたので、久志が 「気になる?」と訊いた。 「そりゃぁね。どうしたのかなって思うさ。いつも群れていたからさ……」と憲太郎。  かつて浩太を中心に5人ほど一緒に行動していた面子は、2人ずつバラバラに行動するようになっていた。浩太はあぶれた形になった。  憲太郎と久志は陽介を見た。なにか言うのではないかと思ったのだ。しかし、陽介は何も言わなかった。憲太郎と久志の会話が聞こえていないかのようにすたすたと歩いている。  そのペースに合わせて久志も歩き出し、憲太郎も1歩遅れてついてきた。  久志は肩越しに憲太郎に向かって、 「ほっとけよ。タクミもシュウさんも、別に意地悪で離れたわけじゃないんだしさ」 と言った。辻原拓海と江崎修史は、今まで浩太といつも一緒にいた男子生徒だった。今でも変わらず浩太に話しかけるのだが、浩太のほうがノリが悪い。移動教室のときも、浩太が一人でフイっと行ってしまうのだ。久志は、拓海から「浩太が変わった」と聞いていた。 「でもさ、一人を楽しんでいる風には見えないけれど……」  そう言って憲太郎は久志に追いついた。そのとき、陽介が振り向いて、それまでの進行方向に背を向けた。 「自分で墓穴掘ったんだ。ほっといてやれよ」  陽介は両手をズボンに突っ込んだまま、憲太郎と久志を見ながらゆっくりと後ろ向きに歩いていた。 「憐みは止めといてやれよ。自分でなんとかするさ」  陽介はそう言うと、再び進行方向に向いた。それを挟むように、陽介の右に憲太郎、左に久志が並んだ。 「陽介はどう?もう怒ってない?」  憲太郎が心配そうに顔を覗いている。「怒るもなにも。顔が売れちゃって、嬉しい限りよ」と陽介が言うので、久志は「ははっ」と乾いた笑い声を出した。  2学期に、陽介と貞晴が付き合っているという噂が流れたことがあった。時を同じくして、陽介と貞晴が主人公のBL小説のコピーが校内に出回ったのだが、それが宣伝媒体のような役割を果たして噂に具体性を持たせてしまった。地方の進学校では刺激が強かったのか、2学期中、陽介と貞晴は同じ高校の生徒からチラ見される毎日だった。  久志も憲太郎もその噂の出所が浩太であると知っていた。突き止めたのは陽介だった。  文化祭の準備中、浩太が一人になったところを陽介が捕まえて釘を刺したのだった。それを遠巻きに久志と憲太郎は見ていた。  陽介が釘を刺さなくてもその噂話はすぐに旬を過ぎてしまい、今ではだれも口に出さない。貞晴が生徒会に関わるようになってから、陽介と一緒にいることが極端に少なくなってしまったので、そもそも噂の種がもうないのだった。  一つの話題が廃れると別の話題が興ってくるものだが、3学期になってから浩太の良くない評判が囁かれるようになっていた。浩太のせいで、不登校になった生徒がいるという噂だった。  もともときつい物言いをする浩太は、それまでの言動も合わせて「さもあらん」とばかりにその噂は受け入れられた。  2年D組では、陽介と貞晴の仲を執拗に言及していた事実もあり、彼の物言いにうんざりしていたクラスメイトは、一部の生徒を除いて彼をあまり相手にしなくなっていた。浩太が何か話をしたら、雰囲気が一気に白けるのだった。それは、浩太にとって耐えがたい屈辱だった。 八 生徒会室   3学期に入ったばかりの日、曇天で底冷えのする日だった。  貞晴が昼休みに弁当を持って生徒会室に入ると、日中人気のない部屋の気温は、頬を冷やした。部屋の奥で楓が一人で何か読んでいた。寒いせいか、暖房の近くの窓際に座っていた。 「暖房入れてないの?」  貞晴が聞くと「さっきスイッチ入れたばかりで」と楓が笑った。 「寒いから、こっちに座れば?」 と、自分の席の前を指さした。  貞晴は、楓の座る長机に近づくと、真正面から少しずれた位置に座った。座りながら、机の上に置いたままの楓の弁当に目をやると、 「食べないの?」 と声をかけた。楓は顔を上げて微笑んだ。 「清香が来るの」 「海君も後で来るって」と貞晴。 「うん」と楓。  楓がそれきり何も言わないで手元のファイルに目を落としたので、貞晴も黙って視線を窓の外にやった。外の風景を見るふりをして、視界の端で楓を感じていた。  最初、貞晴は物静かな楓に戸惑った。貞晴にしてみれば、賑やかに一方的に話をしてもらったほうが楽だったが、楓はあまり無意味な言葉を発しなかった。彰人が加われば、彰人がいろんな話題を出しては楓と貞晴が適度に返してそれなりに会話が弾むが、楓と二人きりになると、とたんに会話のペースが落ちてしまうのだった。それでも訥々としゃべる貞晴の言葉をよく聞いてよく考えて言葉を返してくれる楓に、貞晴は二人きりをむしろ楽しむようになっていた。 (演壇に上がると、変わるよなぁ)  貞晴は、楓の落ち着いた佇まいを感じながら、生徒会選挙での楓の演説を思い出した。  そのよく通る声で、強く自分への支持を訴えていた。「私ならできます」と力強く断言する声を今でも覚えていた。  文化祭の前日、貞晴は舞台上から転んだ楓を抱きとめた。その体の細さも覚えていた。あの出来事は、出来るだけ思い返さないようにしていたが、貞晴はふとした瞬間にあの事故のような会遇を思い出すのだった。  静かで力強くて華奢な楓のことを、貞晴はまだ視界の端で覗き見ているだけだった。  ふいに生徒会室の扉が開いた。最初に海が入ってきて、続けて清香と彰人が入ってきた。  海は慣れた様子で部屋を突っ切って、貞晴の隣に座った。焼きそばパンとメロンパンを貞晴に見せながら「やっと買えた」と言って、おもむろにパンの袋を開けた。それを合図に貞晴も弁当の包を解いた。  来期の生徒会本部の人員を増やす計画を立てたとき、彰人と貞晴はその人員に海を充てること決めた。楓にも異論は無かった。前年に海が生徒会から離れていった理由を貞晴は知らなかったが、海がいまだに生徒会の活動に関心があるのを分かっていた。  海には1月から生徒会室に誘っていた。  彰人は、机に昼食のサンドイッチと飲み物を置くと部屋の奥のロッカーに向かった。生徒会用のノート型パソコンがロッカーに仕舞ってあるのだ。食べながらパソコンに入力する算段なのだろうと貞晴は卵焼きを頬張りながら思った。  清香は、本部メンバーが決定していない今を狙って、楓とお昼ご飯を一緒に食べるため時折、生徒会室に通っている。  昨年の文化祭以降、楓と清香は中学校のときのように一緒に過ごすようになっていた。  清香はおずおずと部屋の奥に進んで、楓の隣に座った。  昼休みに彼らが集まると、自然と来期の生徒会の取り組むテーマの話になる。彰人や楓は日ごろから考えている学校生活の課題を次々に口にする。貞晴は今まで部外者であったので、自分は知らないことがたくさんある、と思い知らされるのだった。見えないところで頑張っている存在に敬意さえ持った。  海も彰人たちに臆せず自分の意見を言っているが、その発言する様子を見ながら、貞晴はなんで去年は活動から離れたんだろうとぼんやり考えていた。 九 大きな手  貞晴が部屋に入ってきたとき、楓は急に部屋が狭くなったような気がして、ホッとした。だれもいない生徒会室は無限に広くて寂しかった。  貞晴が離れて座ろうとしたので、寒いだろうと声をかけた。深い意味は無かったが、言ってから、少し悔いた。高圧的な言い方だったかもしれないと思ったからだ。  楓は人間関係が些細なきっかけで壊れていくのを知っていた。そんな彼女は、常に自分の言動を反芻する癖があった。  そんな楓の心の動きとはお構いなしに、貞晴は鷹揚かつ丁寧に接してくれる。  しかも、貞晴は楓と清香が並んでも、二人に対する態度を変えなかった。清香は楓にとって、人の性根を明らかにする装置の役割を果たしていた。清香と並んで対峙したとき、その人間がどう振舞うのかを柔らかに笑いながら観察するのである。あからさまに楓を贔屓にする人間を、楓は自分の人生から明確に排除する。表面上は仲良くしてみせても、その心を見せることはなかった。表情を変えずに他人を観察できるのは清香も同じで、その洞察力は姉妹に共有されている。  楓にとって、清香と自分を区別しない上に、自分の振る舞いをありのまま悪意なく受け取ってくれる存在は限られていた。貞晴はそんな数少ない存在の一人になりつつあった。  楓が生徒会長選で敗れたとき、まさか自分が負けると思っていなかったので、昼休みの校内放送で選挙結果が伝えられたときは立ってはいられないほどのショックを受けた。  それでも、周りのクラスメイトが慰めてくれるのを、表情を崩さずニコニコしてやり過ごしたが相当苦しかった。この優しい言葉をかける人たちは、はたして自分に票を入れてくれたのだろうかという疑念が渦巻いた。  午後の授業も上の空で、放課後になってすぐに廊下に出たら清香が来てくれた。「一緒に帰ろう」と楓の手を引いてくれた。泣きそうになったが、清香の手を握って、涙を堪えた。そのとき、ばったりと貞晴に会った。何も言わず通り過ぎようをすると、すれ違いさまに「本当に惜しかったね」と声をかけてくれた。楓がはっとして顔を上げると、貞晴は「10票ほどしか差がなかった。悔しいね」と言った。  悔しいね、という言葉がストンと楓の腹におちた。  選挙結果を知ってから、楓は自分の何がいけなかったのかと頭の中でグルグルと考えていたが、それらが一瞬で静まった。食いしばった奥歯が緩んで、 「ありがとう」 と言葉が出ていた。先ほどまでとは違う種類の涙が出そうになった。  それ以来、楓は貞晴のことが頭の片隅から離れなかった。  二人だけの生徒会室で、楓は貞晴と最低限の言葉を交わすと手元のファイルに目を落とした。間が持たないからと言って、下手なことを話して貞晴から呆れられるのは嫌だった。貞晴のことは信頼しているが、だからといって思ったことを全部晒すほど楓は無邪気ではなかった。  貞晴が窓の外を見ているのを、楓は視界の端で追っていた。  無造作に机の上に置かれた貞晴の手を見て、大きいなと思った。  その瞬間、文化祭の前日に舞台から転倒したことを思い出した。転んだ楓を貞晴が受け止めたが、その時に掴まれた二の腕の感覚は忘れられない。思い出しただけで、体の重力が解けるような感覚を覚えてしまうので、楓は出来るだけあの日のことは思い出さないようにしていた。  自分のことが自意識過剰に思えて、赤面してしまいそうになる。このことは貞晴に気が付かれてはならないと思い、慌てて思考をファイルの内容に引き戻した。 十 登校デート  琴子は、白い息を吐きながら学校の裏手にある公園のベンチに座っていた。雄一を待っているのだ。3学期に入ってから毎朝待ち合わせをしている。  勉強に忙しい雄一と少しでも会う時間を作るため、琴子が登校前に会う時間を持とうと提案をしたのだ。二人は登校時間より早く来て、ぎりぎりまで喋ってから一緒に登校するのだった。雄一は下校時にそのまま予備校の自習室に向かうので、琴子が彼と会えるのは朝だけだった。  琴子の白い息が冷たい風に流されている。会えるだけでもありがたい、と琴子は冷えていく体に言い訳をしていた。  雄一は夜遅くまで勉強しているらしく、昨日も顔色が悪かった。琴子は雄一の体が心配で、今日は暖かいお茶を余分に持ってきていた。それを少し口に含んで、寒さに堪えた。  雄一を待たしてはいけないと、琴子は約束の時間より早く着いていた。すでに約束の時間を10分過ぎている。今朝の気温は一段と低かった。琴子の指先と足先はかじかんできた。  琴子はずっと右手にスマホを握りしめている。雄一から何か連絡がきたら即座に反応するためだった。雄一は、遅刻するときは必ず連絡をいれてくれていた。連絡がないということは、今、自転車で急いでこちらに向かってくれているのだ、と琴子は信じていた。  約束の時間から15分が過ぎた。そろそろ学校に向かって歩き出さないと、遅刻してしまう時間だった。雄一からの連絡はない。  予鈴が鳴った。 (まだよ、きっと来るから)  琴子は、歩き出そうとする脚を懸命に抑えた。体がどんどん冷えていく。お茶を飲む気分にもならない。呼吸がどんどん浅くなっていった。寒くて苦しいのか、雄一がもう来ないかもしれないという恐れで苦しいのか、よく分からなかった。  とうとう本鈴が鳴った。雄一は来なかった。琴子のスマホに連絡も無かった。  琴子はスマホを握ったまま、両手で顔を覆った。  ぽろぽろと溢れてくる涙に琴子は戸惑った。泣きたくなかったが、止められなかった。ハンカチを出すことも忘れて、一声小さく、ひーんと鳴き声を上げた。  頬の冷たさに我に返り、自分の鼻が赤くなっているであろうことに思い当たった。それからおもむろに手袋を取り、ハンカチで目をぬぐい、手鏡で顔を確認してからティッシュで鼻水をかむと、もう一度ハンカチで目をぬぐった。暖かいお茶をコップ一杯分しっかりと飲んでから深呼吸をして立ち上がった。 手袋は涙で濡れて使えなかった。冷たい手をコートのポケットに突っ込むと、琴子はゆっくりと学校に向かって歩き出した。ポケットの右手はスマホを握ったままだった。  歩きながら、昨日も一昨日も雄一が遅れてきたことを思い返していた。  朝がキツイ、と言いながらも約束の場所に来てくれる雄一の優しさが嬉しかったが、彼にとって登校時に時間を作るのが負担だったことに琴子は今更ながらに気が付いた。  今週末が共通テストなのである。雄一にしてみたら、一刻も猶予にできない気持ちなのだろうと、琴子も分かっていたが会えるものなら会いたいのであった。  思い返せば、中学校の頃からの片思いだった。  片思いと言うにはおこがましいのかもしれない。その始まりは、純粋な崇拝からだった。  雄一は、同じ中学校の先輩だった。琴子は女子ハンドボール部で、雄一は男子ハンドボール部に所属していた。雄一の学年の男子部員は、指導顧問の教師に言わせると「粒ぞろい」だった。雄一たちが主力メンバーとなった年、男子チームは地区予選を勝ち抜き、県大会で準優勝した。そのチームを引っ張ったのが、まぎれもなく雄一だった。チームのキャプテンとして皆を引っ張った。その姿は、際立って大きく輝いて見えた。琴子は、遠くから見ているだけで十分、満たされた気持ちになったのだった。  琴子が高校進学先に蒼山高校を強く望んだのも、雄一の影響だった。勉強が好きではない琴子が頑張って蒼山高校を受験したのは、この一度きりの人生で雄一の過ごした場所に身を置きたいという、切なる願いからだった。  だからこそ、入学したときに雄一が琴子を覚えていてくれたことが何より嬉しかったし、人生最大のチャンスと思った。  少しずつ少しずつ近づいて、告白をして、付き合うことになったときの幸せの記憶は、琴子の一生の宝物だった。  付き合うといっても、進学校の高校生同士、時間もお金も限られていた。一緒に下校したり、図書館で勉強するという名目で会ったりするような、微笑ましい付き合いだったが、琴子にとって、全てが幸せで満ちていた。  同じ時間と空間を雄一と共有し、誰よりも近いところで雄一を見ることができた。キスをする直前に見えた彼の虹彩の色や前歯の形を琴子は鮮やかに覚えていた。  秋の全国模試で、雄一が志望校についてD判定をもらった。その辺りから、雄一がイライラしたり素っ気なくなったりしたが、琴子は全く意に介さなかった。素っ気なくされても、腹が立つようなことはなかった。雄一のすること言うことは、全て価値があるように思えたのだった。  それでも、琴子の心の底に小さく満たされないものが生まれたが、その気持ちには蓋をした。ただ嬉しそうに楽しそうに笑って、時が過ぎるのを待っていた。  雄一が頑張って、その結果地元の大学に通ってくれたら琴子は彼と途切れることはないのだ。再び満たされた時間が戻ってくると信じていた。 十一 1月は行く  全国共通テストが行われた翌週、写真部の部室では萌が明日のミーティングの打ち合わせをするため、琴子を待っていた。  琴子が珍しく約束の時間になっても来なかった。  萌は琴子にメッセージを送っていると、部室の扉が開いた。萌がはっとして見ると、そこには祐子が立っていた。 「あれぇ。琴ちゃん、まだ来てないんだ?」 「……うん」と萌。  祐子は琴子に会いにきたようで、扉のところでもじもじしていた。 「こっち入れば?」  萌が椅子を指刺して声をかけると、祐子はゆっくりと入ってきた。  萌は、祐子が時折寂しそうな表情をすることに気がついていた。貞晴が祐子と関わらなくなったことにも気がついていた。 「あのさ、萌ちゃんは知っていた?吉川君の理転(りてん)のこと」  萌の隣の席に座った途端、祐子は口を開いた。理転とは、蒼山高校の生徒の間で、理系に志望を転向することを指す。文系に転向することは、文転(ぶんてん)である。 「あぁ。そうらしいね。美緒が陽介君から聞いたって言ってた」と萌。 「やっぱり、そうなんだ」  祐子は明らかにがっかりした様子で椅子に身を沈めた。 「そんなにショック?」 「だって、これで来年は絶対に同じクラスにならないじゃない?」 「……そうだね。でも、同じ文系でも同じクラスになれるとは限らないよ?」 「でも、社会科の選択が一緒だから一緒になる可能性はあるでしょ?」 「そうだけど……」  萌は、祐子が貞晴とそこまで同じクラスになりたかったのかと内心驚いた。  祐子は俯いたまま、膝の上で両手の親指同士をこすり合わせている。そして、意を決したように萌に向かって言った。 「なんかね、吉川君に誤解があるみたいでさ。どうしてもそれを解きたいのだけど上手くいかなくて」 「うん」 「少しでも接点があれば、誤解を解くチャンスも来るかなと思っているんだけど」  祐子はそこまで言って、萌を覗き見た。萌は「うんうん」と頷いて、祐子の言葉を待った。  その時、キイっと小さい音がした。萌と祐子は同時に音のする方を見ると、部室の扉が少しだけ開いていた。つやつやの黒髪の頭が見えた。 「琴子!」 「琴ちゃん」  萌と祐子は同時に呼びかけて、扉まで駆け寄った。琴子の様子がおかしかったからだ。  二人に迎えられて、琴子はやっと顔を上げた。その顔は泣きはらして、赤くなっていた。 「……遅くなって、ごめん」  琴子が絞り出した声は、揺れていた。先ほどまで泣いていたのは明らかで、約束を守るためなんとか涙を拭って部室にやってきた琴子の気持ちに萌は胸が締め付けられそうだった。 「……どしたん?何かあった?」  萌がそっと尋ねたが、琴子はかぶりを振った。そして部屋の中に歩みを進めたので、萌と祐子もついて行った。  琴子は沈むように椅子に座った。萌と祐子はそれを挟むように座った。 「しんどいんだったら、無理しなくってもいいよ?急かすようなメッセージ、ごめんね」  萌は琴子の表情を見ながら声をかけると、琴子はもごもごと口ごもるように「そうじゃなくて」と言っている。  そうしていると、琴子に涙の波がやってきたようで慌ててタオルハンカチで顔を覆った。「うっ、うっ」と小さな嗚咽を漏らしている。  萌と祐子は琴子の背を撫でながら、それが治まるのを待った。  しばらくして、琴子はハンカチを持った手を膝にパタンと下ろし、大きくため息をついた。 「ごめんね。ビックリさせて……」  琴子は二人の友達を見た。そして、かすかに笑うと「もう、ダメみたい」と呟いた。 「え?!」 と叫んだのは祐子で、萌は息を飲んだ。 「何があったの?」  萌は静かに琴子に尋ねた。  琴子は手にしているハンカチをいじりながら、今日、雄一から受験校を関西の私立大学に変更すると知らされたことを告げた。スマホのメッセージで淡々と知らされたことに納得いかない琴子が、雄一から直接話を聞こうと下校時に待ち伏せて会ってみると、ひどく不機嫌な対応をされたのだった。琴子にしてみれば、雄一の受験校の変更は4月以降の二人の付き合い方が大きく変わる選択であった。その選択をした雄一の気持ちを確認したかったのだが、雄一にしてみれば、すぐに迫っている試験の準備のため、ゆっくり語り合う気持ちの余裕は無かった。  祐子は、話を聞いても言葉が出なかった。雄一の態度は祐子の理解を越えていたし、それを怒らずにただ悲しみのみで受け止める琴子のことも不思議だった。 「……共通テスト、結果がよくなかったんだね?」  萌がそう言うと、琴子はコクンと頷いた。 「地元の国立受けるには厳しいからって」 「そっかー、関西かぁ。遠いなぁ」  萌は椅子の背もたれにのけ反った。 「共通テストがよくなかったのは、私のせいかもしれなくて……」  琴子が振り絞るようにそう言うと、またハンカチを目にあてた。涙が潤んできたのだ。 「そうなの?」 と祐子が言うので、萌が慌てて「そんなことない」と遮った。が、 「多分、そうなの」 と琴子は項垂れて、雄一が勉強で忙しいのに会いたがった自分のせいだと言った。そう言ってしまうと琴子は堰を切ったかのようにまた泣き出した。「どうしても会いたかった。会いたかった」と繰り返す琴子を、萌は「そうだよね、そうだよね」と言いながら再び背中をさすって宥めた。 (そんなになるまで好きなんだ……)  恋しさが募って取り乱す琴子に、祐子は驚きを隠せなかった。そして、これほどまでに誰かを好きになったことがない自分に気が付いた。   十二 生徒総会  1月下旬に開催された生徒総会は、無事に議案が可決されて生徒会本部が新体制になった。  新体制を作っていくにあたり、彰人と貞晴は書記長と会計長の役を新たに新設して従来の書記を書記長の下に、会計を会計長の下に置く構想を持っていたが、担当教諭の大野からの提案で、書記長と会計長の役の設置の代わりに副会長を1名にするという提案を受けた。  これにより、生徒会本部の定員は1名のみの増加となった。教師側と生徒側の折衷案のような形になり、結果、教員会議では異議が出されことがなく了承されることになった。  従って、今回の生徒会本部のメンバーは、楓が副会長、貞晴が書記長、海が会計長として指名され、書記と会計に1年生が指名され承認されることになった。  体育館一杯に響く拍手の前で、舞台上の貞晴はお辞儀をして応えた。大勢の生徒を前にすっかりあがっていた貞晴であったが、持ち前のゆっくりとした動作が彼を堂々として見せた。  祐子は、その様子を体育館にひしめく全校生徒の中で見ていた。スポットライトが当たっているように輝いて見える貞晴に、距離を感じていた。置いてきぼりを食ったような寂しさがあった。  壇上の貞晴は、新たな仲間を得ていた。壇上に集合している生徒会のメンバーたちとめくばせしたり、小声で何か話をしたりしている様子に祐子は嫉妬した。貞晴が自分だけを見ていた時期が確実に存在していたのに、そんなものは無かったかのように、祐子は見事なほど貞晴の視界に入っていなかった。  生徒総会中、祐子は心の中でその嫉妬をこねくり回していると、だんだん情けなくなってきた。その情けなさが雨のように嫉妬を消して、跡にはびしょびしょの後悔が残った。  男子との距離感に苛まれていた祐子は、これまで自分が気をつけていたことは一体何だったんだろうかと思った。得体のしれない視線や実態と乖離した陰口に、いかに自分が振り回されてきたのかと思った。手前勝手に忙しく周囲に気を遣っている間に、何か大切なものを失っていたことにようやく気がついた。気がついたところで、もう手遅れなのかもしれないと思いながら、生徒総会の終わりを告げるアナウンスを聞いた。  生徒総会が終わり教師から解散の指示が出ると、陽介は2年D組の列から離れて、舞台下で集まっている生徒会の集団に近づいていった。 「よう、お疲れさん」  陽介は貞晴に声をかけた。ぱっと貞晴はその声のほうを向いた。軽い興奮状態のようで、貞晴はいつもより朗らかに、 「あ、陽介!どうだった?僕の挨拶」 と訊いてきた。 「うん。良かったんじゃない?」 と陽介が軽く言うので、「ええ?なんで疑問形?」と貞晴は慌ててみせた。 「それより、なんで和馬が書記なんよ」  陽介は、集団の中にいた滝本和馬ににじり寄った。彼は剣道部の部員である。 「一言、言って欲しかったなぁ、なぁ彰人」  今度は彰人を睨むフリをした。 「うちの大事な一年生、生徒会に持っていかれたら困るんだよ」  彰人は「悪いね」と言いながらも、気にしている様子はない。 「すみません。部活と両立、頑張ります」  和馬も悪びれず陽介に言った。 「そりゃ剣道部の練習日は毎日ってわけじゃないけどさ……。あーあ、これで次期部長候補が消えたよ……」 驚いた顔の和馬を後目に「ま、頑張れよ」と陽介は付け加えた。  陽介は、言いたいことが言えたのでもう気が済んだようで 「ほんじゃ、教室戻る?」 と、貞晴と海を見て声をかけると、それを合図に3人はその場を離れた。 「また後でね」  3人の背中に楓が声をかけると、貞晴と海は弾かれたように同時に振り向いた。貞晴は、そのタイミングの一致に一瞬驚き、それをじっと見ていた陽介の視線に気がついた。貞晴は急に恥ずかしくなって、会釈だけして速足に歩き出した。  海は楓だけを見て「じゃまた」と声をかけている。  陽介は少し眉を上げると、「ふーん」と言いながら貞晴を追いかけた。 十三 2月は逃げる  2月に入ると、日中暖かくなる日が出てきた。  祐子は、昼休みに屋外をぶらつくようになっていたので暖かい日は助かった。  教室は窮屈だった。なにが嫌というわけではなかったが、教室では寛げなかった。祐子は、辛抱して教室にいるよりも休み時間に外をふらつくことに決めた。軽い気持ちで一眼レフのカメラを持って出てみると、いろいろ撮りたいものが見つかって、思いの外楽しかった。  最近は、祐子は中庭の噴水の水しぶきを撮ることに熱中していた。  噴水の水溜まりの縁に足を乗せたり、腰を掛けたりしていろんな角度で水の動きをカメラに収めた。そうしている間は、祐子は何もかも忘れることができた。 「何、撮ってんの?」  ある日、祐子は後ろから声をかけられた。振り向くと、そこには浩太がいた。 「あ、いや。昨日も一昨日もここで写真撮ってたろ?何かいるのかなぁと思って」  浩太は噴水の縁に近づいてきた。祐子から少し離れた位置に立つと水の中を覗いた。 「何かがいるわけではないよ」  祐子はカメラを膝に置いて、噴水の縁に腰掛けた。  浩太が良く分からないといった表情をするので、祐子は浩太の方にカメラを差し出して見せた。浩太は一歩だけ祐子に近づくと、カメラの画面が見えるぎりぎりで覗いた。 「……水?水を撮っているの?」 「そう」 「……へぇ」  浩太は、そう言うと沈黙してしまった。  祐子はその沈黙の間、カメラを指先で触っていた。浩太が感想に困っているのだろうと察して、自分の行動をどうやって説明しようかと思った。あるいは、浩太ならば一言写真を貶して、去っていくのかもしれないと身構えもした。 「それって面白いの?」  思いがけない言葉が降ってきたので、祐子は顔を上げた。  浩太の表情には悪意も善意もなく、ただ不思議そうに祐子を見ていた。祐子と目が合った瞬間、浩太は慌てたように 「いや、水を撮ることが悪いって言っているんじゃなくて。純粋に、その面白さを知りたいなって……」  浩太はそう一気に言うと、俯いてしまった。 (あれ?)  祐子は、浩太の反応が以前と違うような気がして、身構えていた気持ちが緩んだ。祐子はその勢いで、カメラを浩太に差し出すように見せた。 「角度によっては、こんな風にね、水がキラキラして写るんだよ」 「へぇ」  いつの間にか、浩太は祐子の隣に立って、一緒にカメラの画面を覗いていた。祐子が画像の履歴を順番に繰って見せていくのを、浩太は黙って見ていた。  一通り、学校付近の写真を見終わると、祐子と浩太は顔を見合わせて、ふっと笑った。  それは、祐子にとっても浩太にとっても、春風のような優しい感触だった。  自分の居場所を探し疲れた者同士の、自虐のような徘徊中に出会った、思いがけない拾い物だった。  浩太は、噴水の奥の植え込みに立つ時計台を指さし、「俺、先に行くわ」と踵を返した。そのままスタスタと歩いていく浩太を見ながら、祐子は浩太の違う一面を見たような気がした。  放課後、写真部の部室では萌と祐子を琴子が集まっていた。 「相変わらず、変なもの撮ってきてるねぇ」  萌は、祐子のカメラの画像履歴を見ながら呟くと、琴子が横から 「祐子は本当に接写が上手だよねー」 と口を挟んだ。 「でも、カメムシばっかりこんなに撮って……」と萌。 「冬に虫を見つけて嬉しくなったんだってば。デジカメなんだから、いくらでも消せるしさ。いいの!」  そう言うと祐子は萌から自分のカメラを奪い返した。 「ほんとね」  琴子が微笑ましく萌と祐子を見つめていた。萌は、横目で琴子を観察しながら、(今日も顔色が悪いわ)と思っていた。おせっかいと分かっているのだが、琴子のその後が気になってしょうがない萌だった。  ひとしきり萌が祐子の面白い写真を批評した後、琴子が飴をカバンから出して萌と祐子に配った。のど飴だった。  配りながら琴子は、ぼそりと 「広田先輩、結局、国立には願書出さなかったんだって」 と二人に告げた。 「……そっか」  萌は琴子の顔色が悪い理由を察して、そのまま黙っていたが、祐子が 「どうするの?」 と訊いた。 (ええ?今、それを訊く?)  萌は驚いて、二人を見比べていたら、琴子は逆に落ち着いて 「どうするのかなぁ」 とほほ笑んだ。祐子が理解できていないことを琴子は表情から読み取って、付け加えた。 「今、私は待つしか出来きないから。だから曖昧な言い方しかできない」 「……そうなんだね」  祐子であってもそれ以上追及できない雰囲気を察した。その雰囲気を変えるように、琴子は 「でもね、バレンタインは手作りよ」 と、笑って言った。その言葉に、萌と祐子も明るく「いいねぇ」とか「わぁ私も食べたい」と反応した。 十四 バレンタインデー Ⅰ  2月14日の放課後、生徒会室に本部のメンバーが全員集まったところで、海がおもむろに紙袋から大きな容器を出してきた。  目敏く見つけたのは、1年生の会計をしている荒木紗友里だった。 「海先輩、なんです?それ……あー!」  紗友里が叫んだのでその場のメンバーが振り返った。 「きゃぁ、どうしたんですか、これ!美味しそう!」  海の手元を見ながら、紗友里がはしゃいでいた。海がなにかボソリと言ったのを紗友里が逐一「えー?自分で作ったんですか?すごい!」とか「みんなで食べてって?わぁ、嬉しい!」と大きい声で反復するので、メンバーは状況を理解しつつ海の周りに集まってきた。  貞晴も彰人や楓に遅れて立ち上がり、その肩越しから海が作ってきたというものを見てみると、大きなプラスティック容器にチョコチップクッキーが詰まっていた。 「へぇ、手作り?すごいなぁ」  彰人は、素直に感心していた。和馬も「美味そうっす」と言って覗いていた。 「みんなのオヤツにと思って……」 と、海は照れて耳を赤くしながら言った。生徒会のメンバーは、それぞれ一つずつ摘まんで口に入れる。 「美味い」「おいしいー」と口々に感想が飛び交ったところで、紗友里が 「これ、今日が2月14日だからですかぁ?」 と訊いた。  海はさらに照れた様子で「まぁ、そうかな」と言っている。  それを受けて、紗友里は 「何の準備もしていない私、立つ瀬ないですー」 と言った後、「義理はしない主義なんで!」と周りの男子を見ながら言うので、貞晴以外の全員が笑った。  クッキーに入っていたクルミを噛みしめながら(これ、うまいなぁ)と考えていた貞晴は、何の話か分からず一人できょとんとしていた。 「バレンタインデーに家族以外からチョコもらったことないから、マジで嬉しいわ」 と彰人が言ったのを聞いて、貞晴は今日が何の日か合点がいった。 「今日がバレンタインデーだったんだ。そっかー」  貞晴は誰にともなく言った。そういえば、去年も2月にだれか知らない子が紙包みを差し出してきて、気持ち悪い思いをしたなぁ、などと思い返していた。  それを聞き逃さなかったのが、和馬だった。 「え?今日が14日って思ってなかったんですか?」 「14日とは分かっていたよ。バレンタインデーは2月14日なんだなって、思っただけで……」と貞晴。 「え?!2月14日はバレンタインデーですよ?男子は朝からソワソワですよ?」  和馬が意味が分からないといった顔をしていた。 「もしかして、サダはバレンタインデーがいつか知らなかった、とか?」  彰人が恐る恐る訊くと、 「2月にそういうイベントがあるのは知っているよ」 と、貞晴は少しムキになって弁明した。自分が世間から疎いのは自覚があったが、この件について少しは知識があることを伝えたかった。 「バレンタインデーが2月と知っていたけど、14日とは知らなかったと?」 と彰人が言うと、貞晴は言葉を返せなかった。実際、明確な日付までは知らなかったのだ。  その瞬間、生徒会本部メンバーは全員、どよめいた。 「サダ先輩、すごいです。尊敬するっす」  和馬はしみじみと言った。 「いやー、サダらしいよね。ホント」  彰人も感心しきりだった。 「いや、待って。そんなに大事な日なの?みんな知ってんの?」  貞晴はすっかり動揺していた。盆でも正月でもなく、バレンタインデーの日付を知らないことだけで、そこまで仲間たちと隔絶するのは受け入れ難かった。 「小学生高学年以上の日本国民は、みんな知っていると思いますけど……」 と和馬が言うと、メンバーがどっと笑った。 「ということは、ホワイトデーも知らない、とか?」  紗友里が恐る恐る訊くと、貞晴は不機嫌な顔で頷いた。正直に答えることに不満はないが、この仲間外れ状態が気に入らなかった。  おお、と再びどよめきが起こった。 「すごい希少種を見つけた気分だな」  彰人がしみじみと貞晴を見た。和馬は2個目のクッキーを掴みながら 「天然記念物モノですね」 と言って、手に持ったクッキーを頬張った。 「ちょっと、待って。それは言い過ぎじゃない?むしろ、世間が何かの業界に踊らされている中で、それに追従しないって凄いことだよ」  楓の指摘を聞いて、一番驚いたのは貞晴だった。そんな大層なことではないのだ。ただ世間に興味がないだけの自分を、敢えて世の中の流れに逆らうチャレンジャーのように思われるのは本意ではなかった。 「ちょ、ちょっと。そんな大層な話じゃないんだって。僕には、チョコのやり取りに価値があるとは思えないだけで。興味がないから知らないだけなんだって」 「チョコは貰ったことはないの?」 と海が訊くと、 「受け取らないよ、そんなの」 と、貞晴が当たり前のように言い返した。それを聞いて、「くぅー、カッコいい」と和馬がのけ反り、「チョコ用意した子、悲しすぎる」と紗友里が言った。 「確かに、日本はチョコのお祭りみたいになってしまっているけど……」 海が自分が作ったクッキーを一つ持ち上げて、 「でも、そんな機会があるから、僕が持ってきても変じゃないでしょ?」 と言って、貞晴にそのクッキーを手渡して、椅子に腰を下ろした。それ合図にように、銘々が椅子に座ったのを見て、海はクッキーの入った容器をテーブルの中央に置くと「好きに食べて」と声をかけた。 「もしかして、海先輩はお菓子作りが趣味とかですか?」と紗友里。 「うん、実は」 と、海はサラリと言った。それを聞いて和馬と紗友里が「おおー、オトメンがここにいる」と騒いでいる。 「へぇ……」 楓が感心したように海を見つめて、「あ、そういえば」と何か思い出した。 「海君って、小学校の家庭科で、ふざけている男子が多い中で、すごく頑張っていたよね」 と言ったので、海は少し驚いた顔で 「よく覚えているね」 と言った。 「覚えているよ!私さ、実習とかでふざけている人、本当に嫌いなんだよね」 楓が珍しく感情的に言うので、隣で彰人が「出た。楓のクソ真面目発言」と茶化した。 「そこが楓の良いところで」と海。「からかうの、やめてよー」と楓は海を遮った。  和やかな空気が生徒会室に満ちる。貞晴は、楓と彰人と海の仲の良さを再認識しながら、同時に楓と自分に距離を感じた瞬間だった。その焦れる感覚に自分で驚き、貞晴は慌てて心の中で打ち消した。 十五 バレンタインデー Ⅱ  バレンタインデーの日の放課後、祐子は学習棟の裏にいた。そこは高いブロック塀で囲われており、塀沿いに倉庫が並んでいた。そこは、かつて焼却炉があったエリアで、今ではゴミが分別されて捨てられるようにいくつかコンテナも並べてあった。   その横に、しっかりとした梅の木が生えている。祐子は、ちょうどつぼみがほころんでいる梅の花を撮りに来ていた。  ここは、他にも枇杷の木やモクレンの木など、統一感のない樹木が点在しているエリアだった。正門から最も離れた位置で、費用をかけた植栽とはまた違う植物たちが気ままに生えている場所だった。長い蒼山高校の歴史の中で、物好きな教師か生徒が気ままに植えて、そのまま根付いたといった風情だった。  生徒たちもほとんど来ないエリアなので、祐子にとっては人目を気にしなくてもよい絶好の撮影ポイントだった。  祐子は古びた一斗缶に乗って、梅の花を接写していた。  その時、カランと小さな金属音がした。  祐子は、はっとして音の方を振り返って、バランスを崩した。 「あっ」  誰かが叫んだ声を聞きながら、祐子は反射的に地面に着地し無事だった。一斗缶が、ワンテンポずれて倒れた。顔を上げると、浩太がビックリした顔でこちらに足を踏み出しているところだった。 「なんだよ、コケないのかよ」  ホッとした顔の浩太を見たら、祐子は可笑しくなって笑ってしまった。 「いつから見てた?」  祐子は手元のカメラを弄りながら訊いた。浩太は、会話するのに不都合がない程度に近づいてきて、 「驚かすつもりはなかったんだよ。溝口から金属のゴミを預かってコンテナに来てみたら、誰かいるなって思って……。そのまま帰ろうと思ったんだけど。音を立てないようにカナモノ捨てるのって難しいな」 と言い訳をした。祐子が「ふーん」と言ったままその場に立っているので、浩太は 「続けないの?写真」 と訊くと、祐子は一斗缶のそばにしゃがむと、 「梅はもういいや」 と言って、一斗缶にカメラを向けてシャッターを切り出した。  浩太は祐子の2、3歩後ろに立つとその様子を見ながら、ぼそっと言った。 「さっきさ、溝口に呼び出されて話してた」 「なんで?」  祐子はファインダーを覗きながら訊いた。 「んー。いろいろあって」と浩太。 「そうなんだ。いろいろあるよね」  祐子は、さして興味が無さそうに言った。浩太は、まだ何か言いたそうにその場に立っている。  浩太が何も言わないので、祐子はしゃがんだまま振り返った。  浩太は、両手をズボンのポケットに入れて梅の花を眺めていた。その顔は、教室で誰かの弱味を揶揄してクラスメイトの笑いをとっていたときの浩太とは全く違う、静かに弛緩した顔をしていた。 「どうしたの?」 と祐子が訊くと、浩太は 「梅の花を、初めてじっくり見たかも」 と言った。 「そうなんだ」 「……最近、物の見え方が変わったっていうか、『こんな形してたんだ』って思うことが多いんだ」 と、浩太は梅の花を見つめていた。 「その感じ、分かるかも。私も、ファインダーを覗いていて、『あ』って思うことあるから」 「『あ』ね。そうな。『あ』だよな」と浩太。  浩太は、ふうと息を吐いて、言葉を続けた。 「あのさ、誰かに謝ろうとしてそれを拒否られたら、どうしたらいいと思う?」  その言葉を聞いて、祐子は貞晴のことが思い出されて胸が締め付けられるよう気持ちになった。 「難しいよね……」 「そうよな。拒否られたら、こっちとしてはどうしようもない」  浩太は梅から目をそらすと、足元の石をグッと踏んだ。  祐子が立ち上がって、一斗缶を分別ゴミのコンテナに戻そうとしたとき、 「これ、金属のコンテナ?」 と言って、浩太がそれを祐子から預かると数メートル先のコンテナに運んで行った。  数歩遅れて祐子が追いかけて「ありがとう」と後ろから声をかけると、浩太は「いや、いいよ」と口ごもって答えた。 「それじゃ」 と言って、浩太が帰ろうとするので、祐子は「ちょっと待って」と呼び止めてから踵を返した。校舎の隅に置いてあった自分のカバンのところまで走っていくと、帆布のトートバックに手を突っ込み何かを握って戻ってきた。 「ハイ、これ」  浩太の目の前で祐子は手を開いてみせると、そこには小さなチョコレートの包が3つ乗っていた。 「え?」  戸惑っている浩太に、「チョコレート嫌い?」と祐子は訊く。 「いや、嫌いじゃないけど。もらっていいの?」 「いいよ。今日はチョコの日じゃん」 と言った祐子に、浩太は思わず笑みが出た。そして、少し真面目な顔で 「配るためにチョコを持ってきてたのか?」 と訊くので祐子は、何のことも無いというように「そうだよ」と言った。 「配り歩いているのか?」 「そんなんじゃないって。ただ、私って言葉足らずなところあるから、チョコがあると伝わることもあるかなって」 「ふーん」 「チョコがきっかけになってくれるかと思ったり」 「きっかけ?」 「そう、話かけるきっかけ」 「……で?上手くいったの?」 「何が?」 「目当てのヤツと話できたのかってこと」 「あはは。無理だったわ。チョコがあっても、目も合わせてくれなかったら肝心なこと、言えないじゃん?」  笑った声とは裏腹に祐子は口を横に引き結んで、俯いた。その様子を見て、浩太は何も言えなくなった。  短い沈黙の後、 「俺は嬉しかったよ」  浩太はなんとか言葉を紡いだ。なんとも気のきかない言葉だと思いながら。 「そう。良かった」  祐子は泣きそうな顔で笑っていた。 十六 バレンタインデーⅢ  琴子は、バレンタインデーの日の夕方、雄一が通う予備校の駐輪場の隅に立っていた。雄一が帰る時間に合わせて、待ち合わせをしていたのだ。  ターミナル駅近くに立つ雑居ビルのいくつかのフロアが予備校の教室になっていた。そのビルの表通りに面している部分に駐輪場があった。人通りが多く、ここでは雄一に会えてもゆっくり話はできないだろうが、一緒に帰れば少しは話が出来る。  2月の夕方は午後6時になると日も暮れて、辺りはすっかり暗くなる。人が多いのが煩わしいかもと思ったが琴子はかえって怖くなくて良かったと、待ち合わせにこの場所を選んで良かったとさえ思った。  約束の午後6時ちょうどに、ビルのエントランスの自動ドアが開いた。雄一が一人でビルから出てきて、俯いたまま駐輪場に向かって歩いてきた。  部活を辞めて、受験勉強に専念するようになってから伸びている頭頂部の髪が揺れていた。しっかりとした骨格の手が遠目から見てもカッコいいと思った。  琴子は雄一を輪郭を全て記憶してしまおうとばかりに、意識を集中して雄一を見つめていたが、ふと(あれ?)と思った。雄一は手ぶらだった。 それに気がついて、琴子は嫌な予感がした。  近づいてきた雄一は開口一番、 「まだ勉強終わらなくて。いったん抜けてきた」 と琴子に言った。一緒に帰らないという宣言だった。 (ああ……)  琴子は心の中で落胆した。約束の時間は、一緒に帰るためのものだった。約束の内容を変えるのなら、あらかじめ連絡をするのが当たり前と考える琴子には、この雄一の言葉は耐え難かった。それでも、大学受験を目前に控え、ナーバスになっているだろう相手に対して、自分の気持ちを主張できるほど琴子は無神経ではなかった。  琴子は波立つ心の内を悟られないように笑顔を示して「そうなんだ」とだけ言った。  琴子の前に立つ雄一の目は泳ぐように人通りに向けられた。雄一の真っすぐな鼻梁に街灯が反射していた。少し長めの顎の下から覗く喉仏が上下している。琴子は、つかの間、切なさとともに雄一の輪郭を辿った。 「それで何?」  雄一は、いら立ちを隠すように優しく琴子に訊いた。  琴子は一度深呼吸をすると、手に持っていた紙袋を雄一に差し出した。 「良かったら、食べて。ブラウニー、作ってみたの」 「あ、そっか。ありがとう……」  雄一は少し表情を緩ませて、その紙袋を受け取った。紙袋が雄一の手に渡る瞬間、 「大変だね。頑張ってね」 と、琴子は声をかけた。 「ああ」  雄一は、少し大きめな声でぎこちなく答えて、紙袋の取っ手を握りしめた。  琴子はしばらくの間「ブラウニーは食べやすいように細長くカットしているから」とか「クルミ、大丈夫だったよね?」とか「萌たちにも作って好評だったんだよ」とか思い付く限りの言葉を並べ、今の時間を引き延ばすことに腐心したが、雄一は「うん」としか言わない。  琴子が口をつぐむと沈黙が二人を覆ってしまったので、琴子はこの瞬間にしがみつくことを諦めた。  琴子が「帰るね」と言うと、雄一はホッとしたように「気を付けて帰れよ」と言ってから、ビルに戻っていった。  琴子は、雄一が出てきたときと同じように、ビルに戻っていく様を片時も逃さず見つめ続けていた。彼の右手にぶら下がっている紙袋の中には、便箋1枚、手紙が入っていた。本当は3枚だった手紙を、繰り返し書き直して、1枚になった手紙。好きという気持ちを手紙に託して、琴子は見送った。  歩いていく雄一のコンバースの靴底のゴムの色がなぜが鮮やかに見えた。雄一の姿が自動ドアに消えたあと、琴子は足元に目を落とすとお揃いのコンバースがそこにあった。半年前に、お揃いで選んだ靴だった。コンバースの白いキャンバス生地は、すっかりくすんでしまっていた。  その靴を一緒に選んだ日のことを思い出しながら、琴子は無表情に自転車に跨ると、暗い道にこぎ出した。 十七 貞晴と海  バレンタインデーの翌日、放課後に貞晴は職員室にいた。物理の担当教師の河野からレクチャーを受けていた。4月から理系にコース転向をするにあたって、最も学習が足りていないのが物理だったので、現在集中的に学習を進めていた。  河野との話が一段落して、会釈をしてその場を去ろうとすると職員室の別の机の塊に海が大野と話をしているのが見えた。  海はすぐに貞晴が河野との話が終わったのを見つけて、手招きした。  海と大野の組み合わせで、生徒会の話と予想した貞晴はそちらのほうに移動した。生徒会の会計についての話を一緒に聞いてから、二人は職員室を出た。 「勉強きつい?」  海が貞晴に訊いてきた。貞晴の理系への転向はすでに周知されていて、同級生たちはそのチャレンジ精神に内心尊敬の念を持っていた。 「うーん。物理がちょっとね。今まで選択していないから知らないことがいくつかあってね……」 「そっか」  そう言った海の横顔を見ながら、貞晴は前の日に、生徒会室に持ってきたクッキーの山の余りを楓に取り分けて、「清香と食べて」と渡しているのを思い出していた。  余らせたくないという気持ちもあるだろうが、貞晴はその光景を見て、海は本当はこのクッキーを楓に食べてもらいたかったのではないかと思ってしまったのだ。  貞晴が海を見ているので、海が気が付いて「ん?」と問いかけてきた。咄嗟に貞晴は、 「クッキーが……」と口走ってしまい、内心しまったと思った。 「クッキーが……どうした?」  海が訊いてくるので、貞晴はもごもごしながら 「昨日の海君のクッキー、美味しかった」 と言った。それを聞いた海は、満面の笑みで 「そう言ってもらえると嬉しい。ありがとう」 と言った。 「ありがとうは、こっちだよ。結構たくさんあったから材料代だってかかっているだろうし」と貞晴。 「材料代は、知れたもんだよ。わざわざ買ったのはチョコレートとクルミくらいで。それよりも、男がお菓子を作るって、正直キモくない?」  海は自虐的な笑いを見せていた。 「そんなこと無いって。僕は全くできないから、海君のこと尊敬するよ」  貞晴は力強く海の言葉を否定したが、海の自虐的な表情は消えなかった。 「体を鍛えたら、少しは逞しさみたいなモノが身につくかなって思ったんだけど、どうも上手くいかなくて……」  海は昨年から自宅で筋トレをしているらしいが、思うように筋肉が付かないとこぼした。  貞晴と並ぶと、その小柄な体型が余計に目立つ。  貞晴がなんと答えようかと逡巡していると、海は明るい顔をして言った。 「でもさ、ふと気が付いたんだよ。無い物ねだりをして悶々と暗い時間を過ごすより、出来ることを追求して深めていってさ、楽しい時間を過ごしたほうがいいかなって」 「うん……そうだね」 「だから、自分がやって楽しいことを楽しいと認めちゃおうかなって。今まで料理が好きなこと、男がこんなこと好きっているのは世間的におかしいかなって思ってさ、人に言ったことないんだけど。隠して縮こまるより、周りに知ってもらったほうがのびのび出来るかなって思ったんだ」  海は晴々とした顔で貞晴を見た。いつにも増して、自分のことを饒舌に語る海を見ながら、正直海の変わりように驚いていた。 「どうして、そんな風に切り替えれたの?」 「切り替えっていうか、開き直り?」  海が静かに笑った。あまり表情を変えない海が滅多にみせない笑顔だった。 「取り繕った姿よりも本当の姿で判断されたいじゃない?」 「……確かに。確かにそうだよね」  貞晴は、柔道で評価されていた時期の苦痛が蘇ってきた。  貞晴の奥行のある相槌に、海はほっとしたように言った。 「サダ君に、言えて良かった」  貞晴はその真意が掴みかねていたが、海の満足そうな横顔を見て、どう聞けばよいか分からなくなって、なんとなく二人で黙って歩いていると、生徒会室に到着してしまった。  海がドアを開けて室内に入ろうとして、立ち止まった。その後ろについて入ろうとした貞晴が海の背中にぶつかった。  立ち止まっている海の肩越しに貞晴が室内を覗くと、彰人と楓が肩を触れ合う近さで椅子に座っているのが見えた。楓のほうが彰人の方に身を寄せていて、その状態でドアを開けた貞晴と海と目が合った。  楓はすぐに身を彰人から離すと、「パソコン画面見ていただけだから」と言った。  彰人もさらに楓から離れた。彰人は海の方を見ている。海は硬直したように動かない。 「海……」  彰人が呼びかけて、我に返ったように海はゆっくり動き出した。海が部屋の中に入りながら 「仲が良いね」 と言うので、彰人が 「そんなんじゃないって、言ったろ!たまたま近くなっただけだって」 と、海に向かって言い訳をしている。 「ほんとう~?」 海がからかうように彰人に言うと、彰人はムキになって 「本当だって。次の委員会の資料を楓に確認してもらってたんだよ!」 と言った。 「近くないと見えないの。私が目が悪いの知っているでしょ!」 と楓も言っている。 貞晴は、そのやり取りを聞きながら、なんで彰人はこんなにムキになっているのだろうとぼんやりと思った。  楓がちらちら貞晴を見ながら彰人と距離を取っているのを、海は気が付いていた。  彰人から「楓のことは友達以上には思えないから」とはっきり告げられてから、今度こそ逃げずに楓と向き合おうと決めた矢先、楓の視線は貞晴に向いていた。  自分のタイミングの悪さに嫌気がさしたときもあったが、腐らないでいられたのは一度腐ってしまった自分にとことん嫌気がさしたせいでもあった。  かつて、彰人が楓を好きなのだと勘違いして二人から距離を置いてしまった自分の過去へのリベンジだった。  海の楓への気持ちは、変わらぬ彼の表情とは裏腹に、心の内でうねっていた。それでも、それが嫉妬として攻撃性を帯びないように、海は注意深く自分に語りかけた。「僕は僕だから」と。  そんな海の心の葛藤などだれも分かるはずもなく、生徒会本部は今日も次の委員会に向けた準備が行われるのだった。 十八 カミングアウト 「……ということがあってさ」  貞晴は、泊まりに来た陽介に、先日の生徒会室での一幕を話した。 「彰人君さ、なんであんなに必死に否定したんだろ?」  貞晴に訊かれた陽介は、 「傍に海がいたんだろ?そりゃ、海に誤解されたくなかったからじゃない?」 と、こともなげに言った。 「なんで?」と貞晴。 「なんで?って。分かんない?」と陽介。 「分かりません」  貞晴は、ふてくされたように手元のラインマーカーを持ち直した。今、陽介と一緒に炬燵を囲んで英語の勉強をしているところだった。 「えー。サダはなんとも思わなかったの?彰人と楓さんが近くにいることに」  陽介が眉を上げて訊いてきた。 「なんで僕のこと、訊くの?」 「いいから。どうなんだよ」  陽介も単語集を持って、ページをめくっている。 「どうもこうも。何か思う前に周りが騒いじゃったから」 「へー。じゃぁ、楓さんが彰人と付き合っていてもいいの?」 と言って、陽介が横目で貞晴の反応を伺っていると、貞晴はラインマーカーを握りしめたまま固まっていた。 「心配?」  陽介がのぞき込むように貞晴と見ると、我に返った貞晴は「いやいやいや。そういう目で見たことないから」と口では否定したが、赤い顔がその気持ちを肯定していた。  陽介は(遠藤は、もういいの?)という言葉が喉まで出かかったが、口をつぐんだ。割り切れない思いや説明できない気持ちというものがあるのを、陽介は知っていた。  代わりに、 「……彰人はそんなんじゃないと思うから安心しなよ」 と言った。 「安心って」 「俺がこんなこと言っていいのか分かんないけど。彰人はさ、周りが思う以上に生徒会の活動を大事にしていると思うし、他を考える余裕はないと思うよ?」 「なんで?」 「彰人はさ、推薦を狙っているんだよ」 「推薦って、大学入学の?」 「そ。だから、定期試験もめっちゃ頑張るし、生徒会活動でも評価されるようにやってると思うよ」 「なんか詳しいね」  貞晴は、いつのまにか陽介に体を向けて話を聞く体勢になっている。 「うーん。ここだけの話よ?彰人んちもさ、俺んとこと一緒で親父がいないわけ。結構、家計が厳しいらしくてさ。彰人は3人兄弟の長男だから冒険できないわけよ。確実に地元の大学に入るために、推薦枠を狙っているの」 「そうなんだ」 「片親っていう境遇が同じだからさ。1年の時、結構いろんな話をしたなぁ……」  そういうと、陽介は単語集を脇へ放ると両腕を炬燵の天板上に伸ばして、「あー」と伸びをした。  貞晴は初めて聞く彰人の話に、頭の整理が追いつかずただ黙って陽介の様子を見ていた。すると陽介がくるっと貞晴のほうを向くので、二人は目が合った。目が合った瞬間、陽介は再び炬燵の天板に突っ伏して、呟いた。 「あーあ。大学、行きたくねぇ」 「え?そうなの?え?」  貞晴は、陽介の突然のカミングアウトに慌てた。 「陽介も結構成績良いのに、なんで?」  貞晴が訊いても、陽介は「うーん」と突っ伏したまま、呻いている。 「勉強、嫌いだった?」  貞晴が恐る恐る訊くと、陽介は俯いたまま頭を振った。 「……大学行く意味がさ、よく分からん」 「働きたいの?」と貞晴。それに陽介は「……働いてもいいよ」とモゴモゴと言った。 (どういうことだろう?)と貞晴は混乱した。働いてもいい、ということは積極的に働く気持ちはないということだ。  初めて見せる陽介のはっきりしない態度に貞晴は戸惑っていたが、心の奥で、これは言葉の裏に何かあるだろうなという思いが浮かんだ。  その貞晴の目の前で、陽介はだるそうにしている。 「気分転換に、外行かない?」  貞晴はそうとしか言えなかった。 十九 合格  2月の下旬、寒さがぶり返した朝、琴子は布団から出るのが億劫になっていた。  目覚ましが鳴っても、それを止めた姿勢のまま体を布団に預けていた。外がうっすら白んでいるのに気が付いていながら、琴子はまどろんで夢を見た。    琴子は細いアーチ状の橋を歩いていた。人ひとりが通れる幅だった。橋には欄干が付いておらず、足を踏み外せば見たこともない広大な川に落ちてしまう。琴子は見知らぬ人たちと長い列を作って無言で歩みを進めていた。ふと視線を水面に向けるといくつか船が浮かんでいるようだ。(あれ?どうして私は船を選ばなかったのかしら)と疑問に思って顔を上げると、数人並んだ前に見慣れた後ろ頭があった。アーチ状の橋の上り坂の部分を歩いているので、顔を上げると前の人の後頭部が見えるのだった。  そのよく知った姿は、雄一のものだった。琴子は声をからして雄一の名を呼んだが雄一は聞こえていないようでピクリとも振り返らない。琴子も叫んでいても声が出ている実感がわかず、いてもたってもいられず前の人達を追い越そうとするが上手くいかなかった。  列を作る他の人達が規則正しいリズムで歩く中、琴子だけがその場であたふたと乱れた動きをしていた。次の瞬間、琴子はバランスを崩して橋から落ちてしまい、(ああ!)と焦った瞬間に目が覚めた。  琴子は大きくため息をついて、5秒ほど夢を反芻した。琴子が橋から落ちた瞬間だけ雄一が振り向いてこちらを振り向いたが、琴子には彼がどんな表情だったか思い出せなかった。 (変な夢を見た……) と思って時計を見ると、寝坊していた。大急ぎで準備しても遅刻しそうな時間だった。反射的に飛び起きて、わき目も振らず身支度をした。そのせいで前日の深夜に雄一からメッセージが入っていたことに気が付いたのは、学校に着いてからだった。  琴子が汗だくで自席に着くと、すぐに1限目の教科の教師がやってきた。その目を盗んで何とかメッセージを読んだ後、しばらく心臓がどきどきと跳ねるのが治まらなかった。それは走って教室に来たせいなのか、雄一のメッセージのせいなのかよく分からなかった。  雄一はメッセージで、大学合格を知らせてきていた。かねてからの志望を変更して受験した関西の私立大学だった。簡単なメッセージだったが、喜びが漏れて見える文面だった。  琴子も心臓のどきどき音をBGMに(よかった、よかった)と心の中で繰り返していた。  雄一の文面に溢れる安堵感に、琴子もしばらく同調していたが、やがてそれは離れてしまう将来の確定通知であると気が付くと、心臓のどきどき音は不穏な胸の苦しさに変わっていったのだった。  1限目を上の空で過ごした琴子は、雄一に「良かったね!」としか返せず、さらに重ねる言葉を選んでいるうちに2限目になった。2限目は英語で、その担当教師は授業中ひたすら生徒を当てて問いに答えさせるので気が抜けなかった。雄一に向ける言葉が分からないまま、2限目が終わり、3限目の生物では理科実習室への移動でスマホを見る余裕は無かった。  3限目が終わり4限目の体育のため再び廊下を移動しなければならなかった琴子は、やはり雄一にメッセージを送れなかった。自分の不安な気持ちを伝えられず、4月から自分と雄一がどうなっていくのか悲観的なことばかりを考えては打ち消すことばかり心の中で繰り返していたので、もやもやした気持ちばかりが膨れていくのだった。  昼休みになってスマホを確認すると、雄一からメッセージが届いていた。 「今、学校にいます」  それを読んだ琴子は逸る気持ちを抑えて、メッセージを返した。 「今、学校のどこですか?」  すぐにメッセージが返ってきた。「今、自分のクラスにいる。さっきまで職員室で、担任に受験の報告をしていた」と。  琴子は昼食の弁当も食べずに、教室を飛び出した。雄一のクラス、3年C組の教室を目指して階段を駆け上がった。  今の時期、3年生はすでに授業はなく、自由登校となっていた。用のない生徒は学校には来なくなっていて、3年生のフロアは平日とは思えないほどガランとしていた。  琴子は、3年C組の扉の前まで全速力で駆け寄り、手前で立ち止まった。呼吸が乱れて肩で息をしていた。出入口の引き戸をそっと開けると、3年C組の教室には雄一しかいなかった。雄一は自席に座っていたが、扉が開いたのに気が付いてその場で立ち上がっていた。  琴子は、雄一が一人だったのに安心して教室に入っていった。  雄一は見るからに嬉しそうしている。  自らの喜びに疑いなく浸っている人間からは、輝きが放たれるものなのだと琴子は思った。 「受かったよ!」  満面の笑みで雄一が琴子に言った。琴子も精一杯の笑顔を作って、 「うん。おめでとう!いっぱい頑張ったもんね」 と言った。 「やったよ……。一時はどうなるかと思ったけど、なんとか合格できた」  これまで琴子に見せてきた陰鬱な表情とは打って変わって、朗らかで快活な表情だった。これこそが琴子が知る、華々しい中学時代の雄一の表情であった。 「うん。すごいよ。ホントすごい。尊敬するよ」  琴子はその笑顔が失われないように、誉めそやした。 「やー、キツかった。マジで受験ってキツイな。やっと終わるんだと思ったら、めちゃくちゃ嬉しくってさぁ」  雄一は何かから解き放たれたように、自分の席の周りを歩き出した。そして、受験時に宿泊したホテルの様子や、試験会場のことを聞きもしないのに語り始めた。 「本当に大変だったぁ」  ひとしきり語る雄一を見ながら、琴子は雄一が自分を見ていないことに気が付いた。大学合格という達成感のせいか、試験勉強をしなくてもよい解放感のせいか、あるいは4月から始まる新生活への期待感からなのか、雄一は高揚した表情のまま遠くを見ながら琴子と向かい合っていた。 「本当にお疲れ様」  琴子は、立ったまま話を聞くのがだいぶ辛くなってきていたが、喜びのせいか疲れ知らずの雄一に付き合って立っていた。  まるで琴子に見せつけるように、はしゃぎ続ける雄一を見るのは辛かった。それでも、雄一の気が済むまで話が終わるまで待っていたのは、琴子の懸念を雄一に伝えたかったからだ。雄一の気持ちを確認したかったからだった。  ひとしきり話し終えて、雄一が椅子に座るのに合わせて琴子もゆっくりそばの椅子に座った。  雄一はニコニコしたままだった。 「ところで……」  琴子はゆっくりと言葉を発した。「なに?」と無邪気な笑顔を雄一が向けてきた。 「大学には、どうやって?家から通えないよね?」 「そうりゃそうだよ。入学手続きのときに、大学からアパートを斡旋してもらえるらしい」 「そっか、4月から大学の近くに住むんだね」 「……そうだけど」  雄一はここまで聞いて、やっと琴子の懸念に気が付いた。 「大丈夫だって。遠距離になっても、電話出来るし、しょっちゅうこっちに帰ってくるし、なんの問題も無いって」  雄一が遠距離での交際になんの疑問も不具合も感じていないことが、琴子にはショックだった。琴子は、毎日でも雄一に会いたいのに雄一は会えないことになんの問題も感じていないのだった。  琴子は、雄一が遠方の大学を受験すると分かったときから遠距離での交際の困難さを考えては鬱々とした気持ちになっていたというのに、雄一はその心配事に全く思い至らないようだった。  琴子は心がどんどん固く重たくなっていくのを感じた。顔では笑顔のままで、体の芯が強張っていくのが分かった。  琴子の動揺に雄一は全く頓着せずに、もう帰る時間であることを琴子に告げると「会えて良かった」などと口走って帰って行った。  教室に取り残された琴子は、大きな動揺の後に、ひたひたと絶望の冷たい波が足元を洗っているのに茫然と身を任せていた。 二十 卒業式  3月の初旬、まだ朝は冷えるが日の光は春の穏やかさをたたえていた。  蒼山高校の卒業式の日は晴天に恵まれ、続々と集まる卒業生とその家族で学校の体育館の周辺はごった返していた。  ただ時節柄、出席者は卒業生とその家族、教職員と現生徒会長のみだった。  在校生は休日となっていたが、蒼山高校の伝統として部活動の後輩が卒業生の先輩を各々の趣向で送り出すのが慣例になっており、部に所属する在校生も各々の予定に合わせて各部室に集まりつつあった。  写真部では、学校行事を記録に残すという仕事があるので、早朝から当番部員が集まって、腕章をつけて校内に散らばっていた。  琴子は副部長としてとして、萌と一緒に腕章をつけてカメラを構えていた。  記録としての写真を撮るなら、今の写真部だったら萌が最も上手い。琴子は萌がいる安心感からか、ファインダー越しに雄一を探していた。  雄一は集合時間のぎりぎりになって現れた。  雄一の後ろには、正装した年配の女性が付いてきていた。面長の雄一とよく似た面長の優しそうな女性だった。 (この人が、先輩のお母さん)  初めて見る雄一の家族だった。  琴子は、一度も雄一の家に行ったことがないことを、今更ながら気が付いた。  在校生はいったん教室に入り、そこから体育館に移動する。雄一も体育館のそばでその女性と別れ、正面玄関に急いていた。  琴子は、人込みの外れをすり抜けて、正面玄関に走った。 「広田先輩!」  琴子は玄関に走りこむ雄一の背中に声をかけた。  振り返った雄一は、にこやかに「おう!おはよう」と言って片手を上げた。 「あ、あの……」  琴子が口ごもっていると、雄一は「悪い、ぎりぎりなんだ」と笑顔で言うと、玄関の中に消えていった。  琴子は、咄嗟に何を言いたかったのか自分でも分からなかった。「おはよう」だったのか「おめでとう」だったのか、あるいは別の言葉だったのか。ただ、前日にスマホでやり取りしたメッセージの不穏さが彼の表情に無かったのは、不思議だった。  4月から遠距離での交際になることに琴子はただ不安で、前の日に、ついその暗い気持ちを晒してしまったのだが、結果雄一の機嫌を損なってメッセージ上の会話が終わった。琴子は不安が高まって、押しつぶされそうな思いで一晩を過ごし、寝不足でこの日を迎えてしまった。重たい気持ちのまま、雄一の姿にすがる思いで近づいたものの、晴れやかさに弾かれた気分だった。  琴子は自分だけが、苦しくてモヤモヤした気持ちから逃れられずにいるように思えた。  雄一だけが、ひたひたと寄せてくる冷たい波から救ってくれると思うのだが、スマホで繋がっていても、実際に会っていても、雄一がどんどん遠ざかっていくように思えるのだった。  とぼとぼと体育館の周辺を歩く琴子を見つけた萌は、胸がぎゅうと締め付けられそうな気持ちを感じながら、そっとその隣に並んだ。 「もうすぐ、式が始まるよ」  琴子を驚かさないように声をかけた。面を上げた琴子の目には涙が浮かんでいたが、萌は気が付かないフリをしてカメラを持っていない手を握って体育館に向かった。    卒業生たちが保護者たちの拍手に迎えられて、体育館に入場してから卒業式が始まった。  琴子は、ファインダー越しに3年生たちの表情を切り取っていると、次第に気持ちが落ち着いてきた。  画像で残される3年生たち。そこには、雄一だけでなく見知った人たちがそれぞれの都合を抱え、それぞれの心情に従い、それぞれの人生の一瞬を生きていた。  雄一とはたくさん話をしたはずなのに、もしかしたら自分が思い付かないような心情を持っていたのかもしれないと、琴子は思った。琴子の心は全て雄一のことで占められていたが、雄一はそうではなかったのかもしれなかった。  そこに気が付くと、これまでどれほど雄一と会う時間を重ねて、どれほど言葉を交わしたとしても、結局、琴子が一番欲しい雄一の心には至れないのかもしれないと思った。  琴子は、雄一の崇拝者で、理解者で、応援者であった。  雄一と付き合い始めて、中学校の憧れの先輩が思いがけない脆さを内包していたのには戸惑ったが、琴子の朗らかさが彼の憩いになるならとそれでよしと思い、琴子は絶えずにこやかさを絶やさなかった。  多少笑顔に疲れたとしても、会えるだけで琴子は幸せだった。  会場では、卒業生の入場が終わり、全員が席に着いた。全員がいつもの学年集会とは違う、緊張しつつも晴れやかな表情でアナウンスを待っていた。  琴子は、人生に一区切りをつけようとしている集団を見ながら、ぼんやり自分のことを考えていた。  私は彼と何を語り合っただろう?  私はどれだけ彼を知り、彼はどれだけ私を知ったのだろう?  そもそも彼は私のことを知りたかったのだろうか?  「付き合っている」というカテゴリーの中で、「付き合っていない」人とどれだけの違いを持てたのだろう?  式は進んでゆき、各々に卒業証書が渡されていく。  流れ作業のように、淡々と進んでいく様を見ながら琴子は (そもそも、彼は私のことを好きだったのだろうか?) という禁忌の問が受かんだ瞬間、全身から力が抜けていくような気がした。 二十一 別れ  卒業式が終わり、会場で解散となった卒業生たちは、各々、同級生と校庭で写真を撮り合ったり、部活の後輩たちに囲まれたりして別れを惜しんでいた。  生徒会本部のメンバーも校庭の隅で待っていると、元生徒会長の山本智輝と元副会長の鹿内真と飯田遥がやってきた。 「彰人、良かったよ。さっきの送辞」  開口一番、智輝が彰人に言った。彰人は「めちゃくちゃ緊張して、かんじゃいました」とかいろいろ送辞にまつわる話をしていた。  真と遥は、楓と海と話が盛り上がっていた。  貞晴は、和馬と紗友里と一緒に少し離れてそんな彼らを見守っていた。元生徒会長たちと一緒に活動をしていなかった貞晴たちは会話に入りづらかった。 貞晴は、楓の明るくはしゃぐ様子を見ながら、彼女もこんな表情ができるのだと新発見した心持ちで眺めていた。  雑談が一段落したところで、彰人は簡単な記念品を3人に送り、写真を取り合った。  生徒会の生徒だけでなく、校庭にはほぼすべての部活の在校生たちが集合していて、カオスの様相を呈していた。賑やかなカオスの中で、皆、別れの名残惜しさに浸っていた。  校庭隅の植え込みの一角に設置されている校是を刻んだ石碑の前は恰好の撮影ポイントになっているようで、特にごった返していた。  琴子は、撮影が済んだので写真部の集団のところに行こうと石碑付近を通り抜けようとしたとき、ハンドボール部の集団がいることに気がついた。集団の隙間から雄一がちらりと見えた。琴子は気づかれないように通り過ぎようとしたとき、ハンドボール部の1年生の男子部員と見られる数人が話している言葉が耳に入ってきた。 「雄一先輩、第一志望に合格って良いよな」 「あれ、そうなの?俺、先輩は国立志望かと思っていた」 「なんか、本当は私立志望だったらしいよ」 「へぇー」  琴子が通りぬける数秒の間に交わされたその会話の内容に琴子は耳を疑ったが、とにかく立ち止まらずに小走りに走った。校庭の端まで着いた瞬間、「はぁー」と大きな息を吐き、ふらつきながら人気のない藤棚に歩いていき、腰をかけた。  今は、とにかく気持ちを落ち着けようと、肩を上下させながら大きく息をした。  雄一はもともと県外の私立大学に行きたかったのだという事実に、琴子は打ちのめされて、なかなか冷静に考えることができなかった。  なぜ?という言葉だけが、脳内を錯綜していた。  藤棚から少し離れた位置の校庭では、少しずつ立ち去る生徒たちが出てきている。  その様子を琴子はただぼうと見つめていた。  人込みがまばらになってから、琴子は、昨日までは卒業式で雄一と2ショットを撮りたいと思っていたことを思い出した。  再び、大きなため息が琴子の口から洩れた。 (なんだろう。すごく疲れてしまった……)  琴子は、藤棚の若葉の隙間から見える空を仰ぎ見ると、おもむろにカメラを構えてそれを写した。どこまでも澄んだ青は、どんなに目を凝らしても青にしか見えない。その純粋すぎる青を琴子は愛おしく思った。  疲労は全ての思考を琴子から奪った。琴子は、カメラを膝に置くと、吸い込むような深くてピュアな青を眺め続けた。   二十二 3月は去る  卒業式が済んでから、3年生がいないというだけなのに、学校が広く感じると琴子は思った。  卒業式までは、これからどうなっていくのだろうと起こってもいないことをあれもこれも考えて、こうしたらどうする、こうなったらどうする、と脳内でシミュレーションを繰り返していたが、今は、自分の愚かさに打ちのめされてぼんやりとしているときが多かった。  雄一は一人暮らしをする準備で、浮かれっぱなしだった。自分が住むところが整ったら、遊びにくればいい、と琴子を誘ってくる。 (簡単に言ってくれる)  琴子は、白々しい気持ちで電話越しの声を聞いているのだった。  琴子は、一人っ子で両親から恥ずかしいくらいに大切にされていた。雄一に会うために、早朝に家を出たり、夕方遅くに帰宅することがあったりしても、建前上は「だめよ」と言うのだが、最後は大目に見てくれるほど琴子に甘かった。  琴子にとっても大切な両親だった。その両親に、関西に行くのに何と言って出かけたらいいのだろう。雄一は、そうやって悩む琴子の心情も伝わらない男だったのだった。  浮かれていたのは琴子も同じだった。  雄一と「付き合う」という関係になれたことに浮かれていた。そのときに、雄一がどう考えていただろうかと思いを馳せていたかと問われると、琴子は返答に困るところであった。  結局のところ、自分の憧れの存在に告白をして、毎日メッセージをやり取りして、たまに電話で長話をして、しばしば二人で出かけて、ときどき手を繋いで、まれにキスをする、といった自分の行動に舞い上がっていたのだった。    雄一が、去年の秋から不愛想に見えたのも、その琴子に合わせるほど余裕がなくなってきただけで、今、達成感で充実している雄一もまた舞い上がって他人も自分同様に満たされていると勘違いしているだけなのだろう。  琴子は、ときどき襲ってくる卑屈な感情に苦しめられた。気の優しい琴子は自分以外の何かを呪うことなどできず、ただ身を縮ませて時が過ぎるのを耐えた。  琴子の心に、もう雄一との未来は無かった。雄一が、これから住む街のすばらしさや大学のキャンパスの設備への驚きなど語っても、まったく心は動かなかった。  電話の会話中、曖昧な返事しかしない琴子に、雄一は 「どうしたの?」 と訊いてくるが、琴子は機嫌の良い声を取り繕って 「なんでもないよ」 と、答えるのだった。  自分から告白したので、自分から終わらせることはできないなと、琴子は漠然と思っていた。このまま、雄一が新生活の刺激の中、琴子を退屈と思って連絡が途絶えてしまえばいいのに、とさえ思っていた。  それ故に、卒業式からは琴子は自分から雄一に連絡していない。  今、琴子は一人で膿んでいた。  雄一との時間は、琴子の独りよがりであったとしても、確かに煌めく春であった。ただ今は、それを思い出すのが辛かった。思い出したくなくても、泡のように、意図せず思い出が浮かんでくる。その度に、心の痛みを逃すように少し身をよじるのである。  霞みの深い春の空の下で、琴子は、恋に恋した自分を許せるかどうか、と自分に問うていた。 (了)
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