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「あの……、外の貼り紙を見て」
そこまで言って、死神はハッと我に返った。いくら話を聞くと書いてあったとはいえ、『自分は死神なのだ』と話した所で誰が信じるというのか。笑われて終わるに決まっている。やはり引き返そうと、死神がそう思った時……。
「では、カウンターの左端の席へどうぞ」
その場所を、指先を綺麗に揃えた手の平が示す。その所作の美しさに、死神は思わず従い席に着いていた。
どうしようかと悩んでいると、オーダーを聞かれ、深煎りの珈琲を注文する。メニューに記されたマラウィ・ミスクという珈琲豆のことはよく分からなかったが、コクと苦味が特徴の深い味わいとの説明を読みこれにすることにした。
しばらくして珈琲がカウンターテーブルに置かれる。豆の知識は無いけれど、死神はこの闇色の飲み物が好きだった。一口、飲む。
「美味しい」
この黒い液体を、一番最初に飲もうとした人間は誰なのか。こんなに暗黒な色の飲み物を、よく恐怖や不安なく口にできたなと死神は思う。
光を愛する人間が好むものとは思えなかったが、世界中にこれを愛する人がいるという。この闇色の液体には、人を虜にする力があるようだ。そして死神も、虜にされた者の一人だった。
もう一口、飲む。
深い味わいだけでなく、豊かな薫りも心を包み込んでくれた。途方に暮れていた気持ちが、じんわりと満たされていく。
そんな死神は、ひどく落ちこぼれの死神だった。
初歩の死神試験に合格できないまま、既に半年の月日が経過している。その試験とは、人間を五人、現状より不幸にすること。それをクリアできなければ、死神の世界には戻れない。
他の死神たちは人間に大きな不幸を与え、続々と元の世界へ帰っていった。しかしこの死神は、人間のことが嫌いではなかった。むしろ、その生き方の多様性や物事に対する感受性の強さにとても興味を持っている。
だから死神が人を不幸にする際は、いつもほんの少しだけ不幸になるよう、そう心掛けて行動していたのだ。
少しだけでいい。
たくさん不幸になど、ならなくていいと。
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