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1章:ホームの男と死神
【side:ホームの男】
……真田 理人の場合
今日と決めていた訳ではなかった。
それでも、飛び込んでしまいたい。その衝動には、毎日襲われていたと思う。
もう随分長く缶コーヒーを握り締めて、真田はホームのベンチに座っていた。
真田の視線の先で、規則正しく並んだ人の列が電車の中に雪崩れ込み、そしてまたすぐに列ができる。そんな代わり映えしない朝の通勤・通学風景を、真田はずっと見つめていた。
しかし、見ているという表現は違うかもしれない。真田はその景色を目に写しているだけで、心に据えている訳ではなかった。真田の頭の中は、自身に降りかかった災難の事でいっぱいだったのだ。
このまま数歩進んで飛び込んでしまえば……。そんな思いが脳裏を通過する。真田は静かにベンチから立ち上がり、死への一歩を踏み出した。
その時、どこからか現れた黒猫が、缶コーヒーを握り締める真田の手に飛び付いてきたのだ。
「うわっ」
驚いた拍子に缶が手から滑り落ち、ホームを転がっていく。真田はハッとして、ようやくそこで我に返った。
線路に、飛び込むところだった。
それに今は、誰かが転がる缶コーヒーに躓いたら危険だ。真田は慌ててその缶を追いかける。
そして、ようやくそれを手にした時、真田の視線のすぐ先で、一人の老婦人がよろけて線路に落ちそうになっている姿が目に入った。
「危ない!」
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