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序章
夜空に炎が上がっている。
瑛蓮(インリェン)は走っていた。
回廊を曲がり、母屋に向けて必死に走った。本当はこんな風に走ってはいけない。瑛蓮は体が弱くて、すこしの運動でも寝込んでしまう。でも今はそれどころではなかった。
母屋は燃え盛る炎に包まれ、辺りは昼のように明るかった。
兵士の足音が荒々しく響き、贅を尽くした館はどこもかしこも無残に破壊されていた。兵たちは禁軍だった。
どうして禁軍がうちに? 父上はどうなった?
炎に煽られた空気は喉が焼けそうに熱い。
「父上ッ」
咳込みながらやっとたどり着いた部屋の前には、大柄な兵士が立っていた。兵士は瑛蓮を一瞥し、側の兵士に顎で命じた。
「探す手間が省けた、捕らえておけ」
「嫌だッ、放せっ」
暴れても兵士の力は緩まない。炎はますます強く、ごうごうと燃えている。
「ここも崩れる、出るぞ」
軽々と抱き上げられ、穀物の麻袋のように兵士に担がれた。その鎧を叩きながら、必死に叫ぶ。
「父上ッ、母上ッ」
叫んだところで目が覚めた。
牀榻にガバッと身を起こして、瑛蓮は大きく肩で息をする。
真っ暗な部屋は、寒くて静かだった。はあはあと自分の荒い呼吸だけが響く。
落ち着け、夢だ。あれはもう八年も前のこと。兵士などどこにもいない。ぎゅっと握りこんだ手をゆっくり開き、頬を伝う涙を拭いた。
あの夜のことは、その先を覚えていない。
気がついたら、瑛蓮は姉と一緒に捕らえられていた。当時十歳の瑛蓮には、何が起きたかまったくわからなかった。昨日まで皇族男子として丁重に扱われていたのに、一夜明けたら反逆者の子供となって縄で縛られていたのだ。
事情がわかったのは、のちの話だ。
皇帝と皇帝の弟が対立し、父もその政変に巻き込まれたのだ。家は取り潰され、姉は官婢となって辺境に嫁がされた。
瑛蓮は男子だから処刑を覚悟したが、なぜか親しかったわけでもない親族の趙家に保護された。
なぜ自分だけが保護されたのか、その理由がわかったのは十六歳になった頃。瑛蓮に発香期(はっこうき)が来たのだ。
「やはり香種(こうしゅ)だったか、いやめでたい、これで我が家も安泰だ。お前を引き取った甲斐があった」
経験したことのない体の熱さと不快な疼きに倒れ込んだ瑛蓮を前に、趙家の主は飛び上がって喜んだ。
「香種?」
「ああそうだ、香種は貴種(きしゅ)を生む者だ。お前は今、貴種を誘う香りを出しているんだよ」
「貴種を誘う香り……?」
べつに何の匂いもしないのに? それに貴種とは何だろう?
「そう。体が熱いだろう、それは発香期というのだ」
戸惑う瑛蓮に趙家の主は上機嫌で笑う。
「早速、後宮に上がる手はずを整えよう。皇帝は貴種だ、きっとお前を気に入るだろう。心配はいらない、香種は男子でも孕む。ぜひ男子を生んでくれ。父親は反逆者とはいえ皇族の香種だ。血筋で言えばきっと貴種が生まれる」
ぞっとした。男子なのに後宮に入る? 男が孕むなどあり得ない。
「皇族の香種が生んだ貴種の男子ならば、皇太子も夢ではない」
趙家の主が語る夢物語に瑛蓮は吐き気がした。
そもそも皇帝は両親を殺した。いわば仇も同然だ。実際に手を下したわけではないが、禁軍を動かしたのは皇帝だ。
「絶対に嫌だ」
引き取られて以来、反抗したことのない瑛蓮がそう主張した。だが趙家は瑛蓮の言葉など聞く気はなく、瑛蓮は後宮入りすることになった。
入城に際し、瑛蓮はひとつの策を練った。
肖像画を描く絵師に賄賂を渡して、絶世の美女に描いてもらう。後宮の一角に妃嬪侍妾(ひひんじしょう)の絵が並べられ、皇帝はその絵を眺めて気に入った者を呼ぶと聞いたからだ。
寝所に呼ばれたら、両親の仇を討とう。無謀なことはわかっている。それでもやらずにはいられなかった。
その計画を実行しなかったのは、後宮に入る直前に現皇帝は両親の仇ではないと知ったからだ。あの政変から二年後に両親の仇は暗殺され、すでに代替わりしていたのだ。
失意の中で瑛蓮は計画を変更し、できるだけ不細工に描くよう絵師に頼んだ。深い考えはなく、瑛蓮を道具扱いした趙家への反発心からだった。
賄賂を弾んだので絵師は喜んで注文通りに描いてくれ、おかげで後宮序列最下位を勝ち取れた。それを知った趙家は激怒したが、後宮に入った瑛蓮に会う手段などない。
おかげで趙家との縁は切れた。
入城から二年経った今も瑛蓮は皇帝の寵愛を得ることなく、後宮の端っこの小さな宮でひっそりと暮らしている。
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