序章

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 呼吸が落ち着いた瑛蓮は、牀搨を出て裏庭に行った。 朝焼けが美しく空気が清々しい。二月に入って喬国(きょうこく)王都、長寧(ちょうねい)は春を迎え、王宮の庭園には花が咲き始めている。  しかし瑛蓮が眺めているのは花ではない。 「そろそろ種まきの時期だな」  序列最下位に支給される俸給は僅かだ。実家も領地も持たない瑛蓮はほかに収入がなく生活はギリギリで、庭を畑にして何とか食べている。 「カブと青梗菜と、あと何にしようかな」  首を傾げて考えていると、空からふわふわと布が落ちて来た。  ふわりと地面に落ちたのは凧だった。ずいぶん凝った絵柄の凧だ。 「きれいな絵」  描かれているのは月と狼だ。狼の横顔が凛々しく月に重ねてあり、西域の雰囲気を感じさせる。しかもとてもいい匂いがする。何だろう、香かな?  しげしげと眺めていると、壁の向こうから茂みをかき分ける音がした。と同時に「ああ~」という焦った男の声が聞こえた。 「向こうに落ちたみたいです」 「バカッ、この向こうは後宮だぞ。取りに行けないではないかッ」  怒鳴り声に対する謝罪の声はあわてていた。その華語にはなまりがある。華人ではないようだ。  喬国は異民族に寛容な政策を取っていて、王宮には多くの異民族が喬の文化や優れた技術を学びに来ている。この凧の持ち主も胡人に違いない。  そんなことを思う間にも、男たちは言い争っている。そこへ別の人物が割って入った。 「そこの壁、ちょっと崩れて低くなってるだろ。俺が行くよ」  伸びやかな若い声だが華語はたどたどしい。 「何言ってるんですか、だめですよ。その向こうは後宮です」  二人の声があわてて止めに入る。 「でもその壁のすぐ先に落ちただろ。大丈夫、こんな早朝に誰もいないって」  言ったと同時に壁に指先がかかったのが見えて、次の瞬間、ひょいと男の上半身が飛び出した。  瑛蓮は驚いて、手を口に当てて息を飲んだ。そんな大胆なことをするとは予想外だ。  壁に乗り出した男も、瑛蓮を見て目を丸くした。いや、まだ少年だ。  明るい金色の髪に晴れた空のような青い瞳。そんな鮮やかな色の髪と目を持つ人間を見たのは初めてだった。  ふわりと風が吹いて、いい匂いが届いた。凧と同じ香りだ。  呆然と突っ立っている瑛蓮に、彼はにこりと笑った。 「人がいるとは思わなかった。ごめんな、驚かせて」  瑛蓮は黙ってうなずいた。人に声を聞かれるとまずい。男(少年だけど)と会っていると知られたら、どんな処罰を受けることか。  本当はすぐに立ち去るべきだ。でも彼の青い瞳に縫い留められたように動けない。というより動きたくない。 「それ俺のなんだ。返してくれる?」  少年の声には不思議な響きがあった。なぜか逆らってはいけない気になる。  手に持った凧を指されて、瑛蓮は壁際に寄ると背伸びをした。少年も転げ落ちるのではと心配になるほど身を乗り出して、腕を伸ばしてくる。  必死に手を伸ばし合って、どうにか凧は少年に届いた。  ほっとして見上げると、少年はにっこり笑った。  その笑顔にどくんと胸が大きく鳴った。一気に血がめぐって頬がかあっと熱くなる。 「ありがとう。君は誰?」  瑛蓮は困ってしまった。異性から名を問われて答えるのは、求婚に応じるという意味だ。でも異民族の少年はそんなことは知らないのだろう。 「……呉瑛蓮(ウーインリェン)」  ためらいながらも、拒絶できずに小さく答えた。  趙家に引き取られた瑛蓮の名は表向き、趙瑛蓮となっている。でもなぜかこの時、するりと口から出たのは本名だった。 「ウーインリェン」  聞いた少年はにこりと笑った。 「きれいな黒髪だね。とても素敵だ」  その言葉にハッとした。思わず手を髪に当てる。  本来、髪は結い上げておくものだ。人前で結わずにいるのは大変な不作法とされる。  でも牀搨から出たままの瑛蓮の髪は背中に下ろしている。それどころか綿布の夜着姿だ。  誰も来るはずがないと油断していたからだが、とても人に会える恰好ではなかった。 「じゃあね」  瑛蓮が真っ赤になると、少年はさわやかな笑顔を残して壁の向こうに消えてしまった。  あっけに取られて目を瞬く。突然現れて、ひゅっと消えて、まるでつむじ風みたいだった。  空気の中に、ほんのわずかに彼の匂いが残っている気がする。異民族の香だろうか、とてもいい匂いがした。  あんな人間が、この世にいるなんて。  鮮やかな金の髪と青い瞳が、瑛蓮の脳裏に焼き付いていた。
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