1496人が本棚に入れています
本棚に追加
1.序列最下位の趙瑛蓮
窓から梅のいい香りが入ってきて、盛んに鶯が鳴いている。昼の日差しは温かく、瑛蓮(インリェン)は機嫌よくすいすいと針を動かしていた。
「瑛蓮様、失礼いたします」
侍女の江恵(ジャンフイ)の声掛けに、瑛蓮は針を持った手を止めて顔を上げた。丸い木枠に固定した薄紅色の絹には赤い花びらが何枚も刺繍されている。
「高淑妃様から謝礼と黄イチジクの蜜煮を頂きましたよ」
「へえ、それは珍しい。後で一緒に食べよう」
瑛蓮の返事に江恵はにっこりした。瑛蓮は苦労を共にした江恵に高価な菓子や食べ物などを気前よく分けてくれる。
「いつもありがとうございます」
黄イチジクは西方で取れる美容にいい果物だ。大陸の草原を貫く東西交易路を通じて運ばれ、長寧ではなかなか手に入らない。
高淑妃がそんな貴重な品を贈るのは、瑛蓮の刺繍が絶品だからだ。
「それから徐貴妃様からお声がかかっております。急ぎの衣裳をお願いしたいと」
「徐貴妃様から急ぎ? いくらでいつまで?」
「前回と同じで、四月の宴に着たいそうです」
頭の中で予定を考える。瑛蓮が請け負うのは刺繍だけで仕立ては衣裳部の職人がおこなう。仕立てにかかる日数を考えるとギリギリだが、徐貴妃は支払いがいいので断りたくない。
「大丈夫、やるよ」
「では、そうお返事しますね」
江恵は瑛蓮が刺した大輪の牡丹を見てため息をつく。微妙に糸の色を変えて、花びらが何枚も浮かび上がるように重なっており、非常に美しい。
「本当にお見事ですわ。唯一、趙家に感謝するなら、刺繍を教わったことですわね」
瑛蓮は肩をすくめた。確かに刺繍のおかげで食うに困らないが複雑な気分ではある。
本来、男子は手芸を習わない。皇族の男子だった瑛蓮も歌舞音曲や書画などは嗜んでいたが、手芸はしたことがなかった。
趙家に引き取られた後に後宮への入城を見越して習わされたのだが、当時はもちろんそんな思惑は知らなかった。
「書画も楽器もお上手でしたけど、こんなに刺繍が上達されるとは思いませんでしたわ。さすがは香種と噂になっているようですよ」
「向いてるんだろうね。図案を考えるのが楽しいんだ」
自分で着たいとは思わないが、最高級の生地にどんな図案をどんな色で刺繍するのかを考えるのはとても楽しい。自分ではとうてい買えない滑らかな絹の手触りは、触れているだけでも幸せな気分になる。しかも高価な糸をふんだんに使える。
「先日の白梅の衣裳も素敵でしたもの。高淑妃は鼻高々でいらしたそうですよ」
「皇帝が着道楽だと后妃様たちも必死だね」
皇后を始めとして多くの后妃は宴のたびに豪華な衣裳を新調する。その様子はまるで天上の宴と称されるが、噂に聞くだけで瑛蓮はどんな宴にも出たことはない。貧しくて絹の衣裳など用意できなかったからだ。
趙家は瑛蓮がわざと序列最下位になったと知って怒り狂い、一切の援助を打ち切ったのだ。
後ろ盾を無くした瑛蓮は困窮のあまり持参した家具や衣裳や装飾品を売り払い、庭で畑を作ってしのいでいたが、十八歳の時に事情が変わった。
江恵が落とした手巾を高淑妃の侍女が拾って、鶯の刺繍のすばらしさに声をかけたのだ。
それがきっかけで淑妃の衣裳の刺繍を請け負うようになり、その謝礼のおかげで生活は一気に楽になった。今では淑妃以下、数人の衣裳を依頼されている。
もっとも金銭を得た後も、瑛蓮は宴には出なかった。男子の瑛蓮には宴なんて拷問でしかない。
何より警戒しているのは皇帝が貴種ということだ。香種は本能で貴種を求める。後宮に出入りする貴種は皇帝だけだから、彼にさえ会わなければいい。
序列最下位に宴への出席を迫る者もいないので、瑛蓮は日々、野菜作りや刺繍に精を出している。そんな瑛蓮を慰めようと思って江恵はたくさんの噂話を仕入れてくる。
「そう言えば、先日の観梅の宴にはウェイワル族の王がいらしたとか」
「ウェイワル族って西域の異民族?」
「ええ。長城を越えてさらに西だそうですわ」
瑛蓮も長城の向こうに異民族の国が複数、存在することは知っている。
彼らは広大な草原を馬で移動しながら放牧や狩猟を行う騎馬民族で、喬国人のように街を作って定住することはない。だから国と言っても国境はあいまいで、多くの部族が常に覇権を争っているという。
「ふうん。ずいぶん遠いところから来たんだね」
「ええ。そのウェイワル族の王が公主の降嫁を求めたとかで、朝廷は大騒ぎらしいのです」
「公主の降嫁?」
つまり喬国皇帝から王だと承認されて、縁戚関係を結びたいという意思表示だ。これまでにも多くの公主が周辺の異民族に嫁いでいて、喬国と異民族の橋渡しとなっている。
「ウェイワル族は名馬を産出するので喬は機嫌を損ねたくないのですって。ですからどなたを送るかで後宮も朝廷も揉めているそうですわ」
娘がそんな辺境の蛮族へ嫁がされるのは母としては切なく、阻止したいだろう。
「子供がいると大変だね」
人ごとの瑛蓮はのんびりと茶器に手を伸ばした。
「瑛蓮様はそんなにお美しいのにご寵愛を頂きたいとは思われませんの?」
後ろに控えて二人の会話を聞いていた若い女官見習いが口を挟んだ。先日、後宮に上がってきたばかりの新参で、まだ十三歳の娘だ。
「絶対ごめんだね。そもそもわたしは男子だよ」
「でも香種に男女の性別は関係ありませんわ。だからこそ、瑛蓮様も後宮にいらしたのでしょう?」
娘の言い分に瑛蓮は肩をすくめた。彼女の指摘は正しい。
香種にとって男女の意味は無い。男でも女でもなく「香種」として丁重に扱われる。
「香種じゃなかったら後宮なんかに来なくて済んだのに。普通に男子として生きたかったな」
諦めとともにつぶやく。
「お言葉を返すようですけど、瑛蓮様が普通の男子というのはちょっとご無理がありますわ」
見習いが声に笑いを含ませて言った。
「どうして?」
「どう見ても香種ですもの。普通の男子はそんな美しい珠のような白い肌はしておりませんし、黒曜石のような瞳もつややかな黒髪も桜桃(おうとう)(さくらんぼ)のような唇も持っておりませんわ」
瑛蓮は憂鬱な面持ちで茶を飲んだ。褒めたつもりだろうが、容姿を褒められてもまったくうれしくはない。
「まあまあ、瑛蓮様にはお気の毒ですけれど後宮から出ることはないのですから、せめて楽しみを見つけてお過ごしくださいませ」
瑛蓮が皇帝の寵を得る気がないことを知っている江恵はそう慰めた。後宮に入って六年が経つが、一度も宴に出たことがないのは瑛蓮くらいだろう。
最初のコメントを投稿しよう!