下克上

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下克上

 成した、成した、とうとう成した。 父も腹違いの弟も側室の安紀の方も成敗した。田端の主はこの私だ。もうあの頃のか弱い僕はどこにもいない。 西の丸に幽閉されるように隠されて暮らす母上の元へと走る。しかし、母上がいると聞いていた西の丸に母の姿はなかった。その静かな間には位牌があり、僧が経を唱えていた。 私の後を息を切らして追い掛けてきた、乳母の奈津がひれ伏して詫びる。 「由比の方さまは…。引き離されて三月後にお亡くなりになっています。この事は大殿さまのご命令で伏せられていました。由比の方さまが既にお亡くなりになっていると家中で知っている者は、もう私一人になりました。この秘密を知る大殿さまも朱鷺松さまも安紀の方さまも殿が成敗なさいました。私で最後でございます。裏切者は許してはなりませぬ。命で不忠の罪を償いとうございます」 奈津は、自分の喉元に懐刀を突き刺そうとしている。私は奈津の刀を持つ手を払いのけた。太刀の切っ先を奈津の打掛の合わせへと向ける。 「お前だけは生涯決して許さぬ。死んで楽になれると思うな。生きて良心の呵責に苦しめ。私を騙し、母上にいつか必ず会えると嘘をついた。母上を救うためには下克上しかないと唆した。よいか、お前をこの西の丸に幽閉する。自害など出来ぬように見張りをつける。奈津、表をあげよ」 奈津は頭を垂れて、床板の節目に三つ指をついたまま微動だにしないで詫び続ける。私は太刀を構えたまま奈津の指先にその刃先を向ける。床から無理やりその掌を剥がすように、奈津の両手を上げさせる。奈津の手首に腕に血が幾筋も滴り落ちる。 太刀は中庭に放り投げた。屈んで奈津の指先に唇を這わせ、奈津の爪を強く嚙んだ。 「女の爪を剥がして造った盆栽の薄爪桜は冷たい。あれは嚙んでもすぐ飽いてしまう。それにな、あの細工は若い女の華奢で綺麗な爪だから美しいのだ。奈津、お前の爪は剥がして細工にするには、老け過ぎていて、醜く、汚い。働き過ぎてくたびれた爪だ。だが、不思議なものよのう。あの日引き離された母上の爪と同じくらい柔く温い。奈津、母上の菩提を弔いながらここで罪を償え。お前が寂しくないように、お前がまた私を裏切るようなことをしていないか監視するために、時折ここに来る。私が来たら黙ってその指先と爪を差し出せ…」 奈津は声を出さないように嗚咽を押し殺して泣いていた。私は、数え三つの幼子のように声をあげて泣いていた。 乱世の世は虚しく儚くこんなにも悲しい。 母は知らぬうちにとうに亡くしていた。 乳母の奈津だけは失いたくない。 母上の薄紅色の桜のような爪と違って、奈津の爪は散り際の姥桜だ。 それでも、それでもいいのだ。 この田端の家を背負って私は生き抜く。 主として、武将として、必ずや名を馳せる。 明日をも知れない我が身、絶え間なく続く戦。立ち向かう気力を失わないために、守り甲斐のある、頼りない誰かの支えが欲しいのだ。 奈津の御髪には白い物が混じるようになり、指先にも木の年輪のような皺が刻まれていた。 奈津の爪は、微かに白く母上の乳の香りがする。私は奈津の膝に頭を乗せて子供のように甘えていた。 ーこの姥桜をまだ枯らす訳にはいかぬな、この田端の家を絶やす訳にもいかぬー 奈津の膝で束の間の昼寝をして、私はまた城の本丸に戻った。 戦って戦って、勝ち抜いてみせる。 螺鈿の細工が施された木の枝の作り物。 娶った女達の爪を剥がして造った薄爪桜。 この盆栽を満開の花弁で満たしたい。 富も領土も女も、全てを手に入れてみせる。 奪い取り、取り戻し、また奪い返す。 田端の家にこの世の春をもたらすのはこの私だ。栄華の桜を咲かせてみせようぞ。 (了)
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