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引き離された母の面影
「若、危ないですよ。下りてきなさい」
母上は桜の木によじ登った僕を心配そうに見上げた。僕は城の外が見たくて、もっと高くもっと高くと桜の木の高みを目指す。
家老の山ノ内篤秀は、わんぱくな僕を見て誇らしげに母上に言う。
「由比の方さま、案じることはございません。武家の男は強くあらねば。逞しく育った若君はなんと頼もしいことか」
桜の木の一番高い枝に跨がる僕を見て、豪快に山ノ内篤秀は笑う。
僕は母上を喜ばせようと、跨がった枝の更にその先の細い枝を掴んで、馬の手綱を引くように揺らした。薄紅色の花びらが母上の烏の濡れ羽色の御髪に、淡雪のように降り注ぐ。
「母上、母上!花の雪でございます。綺麗でしょう?母上のためなら春に雪を降らせることも出来ます。鶴松は母上の願いなら何でも叶えてみせます」
母上は眩しそうに目を細めて、降り注ぐ桜の花びらに絹糸のように白い指先を伸ばす。
「なんと儚く麗しい雪…。でもね、鶴松。母の願いなら何でも叶えてくれるのでしょう?そんなに枝をしならせたら桜が可哀想。早く下りてきなさい。若が木から落ちないか。母は、はらはらして生きた心地がしませんよ」
山ノ内が僕に呼び掛ける。
「こりゃあ一本取られましたな、若君。お方さまの願いなら何でも叶えると仰った若君の負けです」
「ちぇっ、仕方ないな」
僕は木のぼりを中断して、母上の元に駆け寄る。母上の御髪と薄紫の打掛には桜の花びらが散りばめられていて、天女のように美しい。焚き染めたお香と桜の香り。
これが僕が覚えている最後の母の香りだ。
数えで十歳になると僕は母上と引き離された。母上が僕を育てると軟弱な男になる。父上の仰せには逆らえない。僕の世話は乳母の奈津がするようになり、母上は城の西の丸に下がって暮らし、滅多に会えなくなった。
乳母の奈津は厳しかった。手習い、武芸、所作、言葉遣い。奈津は母上と違って全然褒めてくれない。
「もっと精進なさいませ。死ぬ気で励みなさい。田端の家督を継ぐのに相応しいと殿に認められるように」
母上と違って悲しいときに泣いて甘えようとしても、奈津は突き放す。
「武家の男は泣いてはなりませぬ」
奈津の厳しさをときには恨むときもあった。しかし、なぜ奈津がこんなにも僕を厳しく育てるのか。僕が大きくなるにつれその理由は嫌でも僕の耳に入ってきた。
父上は母上を遠ざけて、新しく迎えた若い側室の安紀の方との間に僕の腹違いの弟がいる。弟の名は朱鷺松。田端の家を継ぐのは鶴松か朱鷺松か、家臣の間では面白おかしく跡継ぎの品定めが噂話として流れていた。
乳母の奈津は奈津なりに、僕の行く末を案じてくれていたのだ。そのことがわかってから僕は泣かなくなった。
そして、あんなにも美しく穏やかで、優しい母上を遠ざけた父上が憎かった。
朱鷺松も安紀の方も父上すら憎い。
満開の桜を見ると母上を思い出してしまう。
出来ることなら幼い赤子に戻って母上の側に戻りたい。でも、時は決して戻らない。
-僕は桜が嫌いだー
-母上を思い出して泣きたくなるから-
桜を見ないように、剣の稽古に集中する。
ー必ず強くなる、朱鷺松よりも父上よりもー
ーいつか…必ず…父上を倒す!-
-田端の家督を奪い、父上に遠ざけられた母上の無念を晴らすのだー
元服を迎えた僕は下克上の野望を隠して、父上に殊勝な言葉で忠誠を誓った。
-今に見てろよ-
この頃の僕にはまだ「正義」があった。母上を救うという。いつからだろう、僕はいつの間にか「正義」を失った。気がついたもきには野望に飲まれた猛将になっていた。
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