3.ぐちゃぐちゃ

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3.ぐちゃぐちゃ

「糞っ垂れが……」  歪む視界とふらつく足元に翻弄されながら通りを行く。  ああ、良い天気だ。  蒸し暑い真夏の朝日が、酔いと疲労と睡眠不足と離脱症状でぼろぼろの身体を更に鞭打つ。  もはや胡乱な目を向けては背け足早にすれ違っていく凡人どもに舌打ちするだけの気力もない。  それでもどうにか住処(すみか)にしている底辺長屋(ながや)まで辿り着くと、戸口を潜って後ろ手に閉めるやそのまま前のめりに倒れ込む。  もう限界だった。出来れば(かわや)まで持たせたかったが、胃袋を満たす酒が(せき)を切ったように口と鼻から(あふ)れ出す。こんなことなら道の脇にでも吐いてから戻るんだったと後悔するが後の祭りだ。  それでもぐちゃぐちゃに握りしめたモノを庇いながら顔を上げると、そこはどういうわけだか、(おれ)の部屋ではなかった。  というかどうにもここは長屋(ながや)ですらない。窓も無い、しかし薄明りを感じる西洋式の回廊。その両側には隙間なく本棚が並んでいる。  見たこともないほどびっしりと本の詰まったそれは見果てぬ高さであり、眼前の奥行きも暗がりに消えてしまい際限無く続く幻想を思わせた。  そこに収まっているモノはどれも見たことがあるような、無いような、文字も読めるような、読めないような……いやこれは幻覚だな、なにひとつはっきりと認識することが出来ない。  筆を握って四十と余年、ことあるごとに酒と薬に頼って頭も身体も襤褸(ぼろ)同然ではあったが、とうとう正気の糸が千切れたか、(あら)ざるモノが見えるようになってしまったらしい。 「は、はは……」  それにしてもこの期に及んで見る幻覚が所狭しと並んだ本とは、(おれ)もなかなか業の深くてめでたいことだ。  たっぷり吐き出したおかげか少しばかりは楽になった足でどうにか立ち上がって視線を向けると、奥の暗がりから足音が響いてきた。 「やあやあ、いらっしゃいお客さん……うげ」  鬼が出るか蛇が出るかと思えば、現れたのは地味ながら小袖(こそで)行灯袴(あんどんばかま)姿の女だった。小柄で垂れ目の童顔に質の良い鼈甲(べっこう)の眼鏡、艶やかな長い黒髪はしかしざっくりと雑にまとめられ、少女、と言う風体ではあれどふてぶてしい不快の表情を浮かべた彼女の顔には見覚えがあった。 「いや、お前まさか、よろ……」  その名を言いかけた(おれ)の口を女の人差し指が塞いだ。 「おっとそこまでだ。私が別れた女にでも似ていたかい? だとしたらお生憎様、ひと違いだよ旦那さん」  そうだ、いくら似ているとはいえこんなに若いはずもない。だがしかし……。 「ここは世界を問わない書物の殿堂、言うなれば“異世界本屋”だ。旦那さんは運がいいね。まあ、店のなかでぶちまけられた私は運が無いにも程があるけれども」 「お、おう。こいつぁすまねえ。ひと眠りした後で良けりゃあ床掃除でもなんでもしてやるんだが今は勘弁してくれねえか」 「はは、お客さんに掃除しろとまでは言わないさ。まあ奥へどうぞ」  そう言って勝手に歩き出した女の後ろを(おれ)もふらふらとついていく。薄明りは(おれ)を照らしているのか女を照らしているのか、どちらにせよその強さを変えることなく付いて来る。  ここは……そういえばさっき、なんと言っていたのだったか。 「異世界本屋と言ったか? 異世界ってのはなんだ、()つ国みたいなもんか?」 「それもあながち間違いではないかな。まあでも、旦那さんにとっては()つ国というよりもみたいなものさ」  隠り世、幽世、つまり現世(うつしよ)ならざるところというわけか。 「かくりよ、ねえ」  そりゃあお前のような女にも出くわすわけだと腹の内で付け加えるとそれを察したのかどうなのか、ちらりと(おれ)に一瞥をくれたがそれ以上はなにを言うでもなしに歩を進める。  そのうち前触れも無く回廊の真ん中に二脚の椅子と小洒落た丸机が現れたが、先ほどからもう(おれ)の頭は駄目なのだろうと思っているのでさほどの驚きも無く、勝手にどっかと腰を下ろす。  女は呆れたような顔で向かいに座るとどこからともなく手にした水差しから湯呑に水を注いで愛想も無く(おれ)の前に置いた。  (おれ)もなにも言わずに飲み干すと、空いた湯呑に再び水を注いでようやく口を開く。 「さて、ともあれせっかくのお客さんだ。この機会に一冊いかがかな?」  にやにやと口元を歪めるこの女は、(あらかじ)め返事を察しているとしか思えない。  思えないが、だからと言って返事が変わるわけでもない。 「本は読むもんじゃなくて書くもんさ。少なくとも(おれ)にとってはな」  我ながら不機嫌な声で返した答えに女は満足したような、嘲るような、不思議な笑みを浮かべた。 「そいつは失礼したね旦那さん。ちなみにうちは本の買い取りもやっているのだけれども」  そう言って指をさされた先、右手にしっかと握られた数百枚に及ぶ原稿紙の束を思い出す。  〆切の三日前になってようやく重い腰を上げ、散々の酒と薬を気付けにぶっ通しで執筆し、けれども〆切の夜半も越えてしまい明け方前にようやく仕上がってわざわざ届けに行ったモノだ。  だが(おれ)に叩き起こされた編集屋は代わりに才ある若手からもう原稿を預かっているからと、一瞥もくれず迷惑そうにこの力作を突っぱねた。  つまり原稿料は無し。金にならなければ食うにも住むにも困るのは確かだが……。 「こいつは今はまだ見ての通りの紙束だ。本じゃねえぞ?」 「はは、綴じるばかりが本ではないよ」 「……そういうもんか?」 「ここは世界を問わない書物の殿堂だよ? 読めるのであれば巻物だろうと木簡だろうと構わないとも。とはいえ」  この既視感溢れる小馬鹿にしたような笑みにどうにも逆らえない。 「読んでみなくては値も付けられない」  そう言って差し出された白く細い手を暫し見詰めてからしぶしぶ手渡すと、女は上機嫌で「どうも」と短く言って原稿を覗き込んだ。  手持ち無沙汰になった俺は水差しから思いのほかよく冷えた水を注いでは酒のようにちびりちびりと舐めつつじっと女を眺める。  (おれ)がまだ若かった頃、才気溢れる物書き仲間のなかでもひと際異彩を放っていた女がいた。  名を万葉(よろずは)と言う。  数えきれないほどに論じ合い、読み合い、いがみ合いながらもなお決して険悪ではなく、誰にも言っていないが実は勢いのままに情を交わしたこともあった。  今にして思えば人生で最も充実した日々だったが、そう長くは続かなかった。  彼女の書いた本が世に認められたのだ。  最初は素直に賞賛し、忌憚(きたん)なく嫉妬の言葉すらも惜しまず並べて彼女を称えた。(おれ)もすぐに追い付き追い越すぞと意気込み、必死で原稿紙と向き合った。  だが……。  現実とは無情なもので、時が立つほどにその差は開いていく。  次々と生み出される彼女の物語は都度に脚光を浴びてその名声を押し上げ、(おれ)はと言えば鳴かず飛ばずで新聞の隅につまらない記事を書いて口に糊するのが精一杯の日々。  段々と疎遠になり、気付けば会話どころかお互いの姿を見る機会すらなくなっていた。  まさに住む世界が変わってしまったというやつだ。  そして十数年、(おれ)がその足元にも及ばないうちに彼女は病で早々にこの世を去った。  しかも(おれ)がそれを知ったのは彼女の葬儀に呼ばれたからでも仲間の誰ぞから聞いたのですらもなく、(おれ)の記事がひっそり片隅に載っている地方新聞の一面記事だった。  それからだったか。  一錠飲めば瞬く間に気が晴れ頭が冴えると評判の薬に手をだし、書くたびに浴びるほど酒を飲むようになった。もういない彼女を目指してめちゃくちゃに走って走って走ってきた。  追い続けてきた。  そして未だになんの成果も挙げられないままに(おれ)はただ(いたずら)に。  老い続けている。  目の前の女は姿も仕草も若かりし日の彼女に生き写しのようだ。  しかし彼女はとっくに死んでいるし、早逝とは言えそれもこの女よりはそれなりに歳を経てからだ。本人ではないと言える理由はいくらでもある。  まあもっとも、ここが本当にだと言うのならそのどれもがあてにならないのだが。 「なあ、お前、名はなんと言うんだ?」  唐突な質問に、原稿を読み込んでいた女が露骨な不快を浮かべて顔を上げた。 「店の娘を口説くような無粋は感心しないね旦那さん」 「別に口説きゃしねえよ。だがこの場限りとはいえ袖触れ合うも他生の縁と言うじゃねえか。連れねえことを言うなよ」  女は舌打ちひとつして溜息を吐く。 「……、と呼びたまえ」 「なんだそりゃ、珍妙な」 「ひとの名前にけちをつけるような無粋も感心しないね旦那さん」  淡々と、しかし芯のある睨みの効いた苦言を吐かれては肩を竦めるより他にない。 「悪かったよ、かれゐどりゐふ、な」  耳慣れない名前を復唱し、また水を舐めながら押し黙ると彼女はふんと鼻を鳴らして原稿へ視線を落とした。  まるでかつての輝かしい日々のようだと、虚しく想いを馳せながら過ごす静かな時間が身を苛むように心地よい。  そうしてどれほど経っただろうか。と名乗った女は原稿を揃え直して自分の前に置くと顔を上げた。 「こんなぐちゃぐちゃの原稿見たことがないよ」 「お、おう」  内容の話じゃねえのかよと思う()もなく女は続ける。 「そもそも(けい)に収まっている文字の方が少ない。筆の墨を気にせず勢いで殴り書いてるだろう? 掠れてるわ滲んでるわ散々だね。原稿紙もしわだらけで破れかけの物まである。もう少し大事に扱ったらどうだい」 「おいおい、黙って聞いてりゃあ……」  言いたい放題勝手に言われてカチンと来た俺がのっそりと立ち上がったのとが深い溜息を吐くのはほぼ同時だった。 「これではまるで、キミの人生そのものじゃないか」  ぐっと言葉に詰まる俺を見上げて、これこそが冗談かのように哀しそうに笑う。その顔になにか毒気を抜かれたような気分になって再び腰を下ろすと、俺も溜息を吐いて気持ちを落ち着けた。 「ったく、お前に(おれ)のなにがわかるってんだ……。それで、どうなんだ? 買うのか買わねえのか」 「買うともさ」  は懐から紙幣の束を取り出すとこちらに差し出した。かなりの厚みがある。  震える手でそれを取ってぱらぱらと捲るように確認する。少なくとも(おれ)が見る限り本物の紙幣で、そして真面目に汗水垂らして働いても一年は必要なほどの大金だ。 「こ、こんな大金で?」 「原稿の状態は酷いものだが内容そのものは奇抜ながらまずは面白かったと言っておこう。直す余地はいくらでもあるけれども、今の状態でもそれくらい払う価値がある」 「お、おお……」  ここがだろうとが何者だろうと構わない。彼女の顔をした女に、というのもあるだろうが、初めて思う以上の価値を認められて天にも昇らんばかりの気持ちだった。 「まあ、この原稿が世に出回らないのは残念だけれどもね」  世に出回らない。その一言で夢から醒めたように我に返る。 「なんだと?」 「いつか訪れた誰かがこの原稿を買いたいと言えば話は別だけれどもね。だが考えてもみたまえ、いかな名作だろうと誰も存在を知らないのでは読まれも買われもしないのは当然だろう? まず二度と日の目を見ることはないよ」 「……」  黙り込んだ(おれ)の様子に(わら)(ささや)く。 「けれども別に構いやしないだろう? どうせ編集屋に突き返されて尻を拭く紙でもしようと思ってたんじゃあないのかい」  それは(おれ)が幾度となく使った編集屋への皮肉。 「それは、そうだが……」 「それに原稿料のあてが外れたんじゃ金も必要なはずだ。私に売っておしまいよ旦那さん。質素に暮らせばその金で何年かは生活の心配もない。本当に書きたい作品の執筆に専念出来るじゃあないか」  確かにこの原稿を破り捨てて燃やしてやりたいような気持ちが無かったと言えば嘘になる。だが思い出してみれば握りしめこそしても倒れたときは汚れないよう確かに庇っていた。(おれ)も本心では決してそうは思っていなかった。  それに……今は別の理由も出来た。 「悪いが、やはりこれを売るのは止めておく」 「おやいいのかい。金が要るんだろう?」  揶揄するように言う。 「金なんぞ誰からでも借りればいい。大家だって土下座して頼めばいくらかは待ってくれるだろ」 「おやおや、ずいぶんと吹っ切れたものだね」  俺は金を置くと代わりに原稿を手にして立ち上がった。 「ああ、これは(おれ)の人生そのものだからな。何度書き直しても、誰に掛け合ってでも、必ず世に出してみせなけりゃなんねえ」  だろ? と笑う俺を見上げて、彼女は初めて微笑んだ。 「それでは仕方ないね。残念だけれど今回はご縁が無かったとしておこう。お帰りは後ろの扉だよ」  振り返ればすぐ背後が扉になっている。俺は取っ手を握って未練のようにへ視線を向けた。 「また、来ても構わないか?」 「それこそご縁があれば、ね」  望めば来られるというわけでもないのか。だがそれでも別に構わない。  今の(おれ)にはなによりもすべきことがある。 「ではまたのお越しを」 「……ああ、邪魔したな」  扉を潜るとそこは(おれ)の住む安長屋の前で、背後の扉は勝手に音を立てて閉じてしまった。 『まったくいくつになっても世話の焼ける』  それが酒と薬の抜けきらない(おれ)の幻聴だったのかそれとも聞こえた言葉なのかは、今となってはわからない。
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