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1.よみかけ
「なんだ、ここは」
それはなんの前触れもないある夜だった。転移して間もなく、まだ仲間もいないのでひとり宿に入って部屋の扉を開けた先はどこにでもありそうな安上がりな一室、ではなかった。
いや、そもそも宿屋のなかにこんな場所が存在するとは思えない。
「これは……本、棚?」
薄明りを感じる廊下のような空間、回廊とでも言えばいいのだろうか。広がるその両側に隙間なく本棚が並んでいる。びっしりと本の詰まったそれは目を凝らしても判然としないほどの高さがあり、奥行きは暗がりに消えてしまいどれだけあるのかわからない。
そこに収まっているモノはどれも見たことがあるような、無いような、文字も読めるような、読めないような……そう、なにひとつはっきりと認識することが出来なかった。
もしかして魔王軍からの攻撃か? 勇者を名乗る俺が侵攻する兵に打撃を与えたという情報は魔王軍の中枢へも伝わっているかもしれない。戦いは魔族と人界の戦争という体で起きているが強力な魔族による単騎奇襲やゲリラ戦術もあるという。勇者ともなればたとえ人界の街だろうと刺客が送り込まれたりする可能性もありそうだ。
行くべきか、引くべきか。
僅かばかりの逡巡を押し切って部屋のなかへ一歩を踏み出す。
虎穴に入らずんばなんとやらだ。これから世界を救おうっていうのにこの程度でいちいちビビってどうする?
踏み込んでみたもののなにが起きるわけでもない。ここは相変わらず静かな、本だけが並ぶだけの空間だ。後ろの扉が消えるわけでもなく、振り返れば宿屋の廊下が見えている。
どうしたものかと迷っていると奥の暗がりから足音が響いてきた。
「やあやあ、ここを利用したいならまずは扉を閉めてくれまいか」
現れたのは袖の長い厚ぼったい和服に身を包んだ女だった。小柄で垂れ目の童顔に鼈甲と思しき眼鏡、艶やかな黒髪は大雑把にひと括りにまとめられ、少女、と言う風体ではあれどふてぶてしい笑みを浮かべて彼女が続ける。
「ここは世界を問わない書物の殿堂だよ。その顔つきと恰好、異世界転移者かな」
「わ、わかるのか?」
「わかるともさ。お客さんのなかでは一番多い手合いだからね」
「一番、多い?」
俺以外にもそんなに異世界転移者がいるのか? まだひとりも会ったことないけど……。
戸惑う俺を眺めながら彼女はにんまりと意味深な笑みを浮かべる。
「扉、帰らないなら閉めてくれないかな」
「ああ、す、すまん」
反射的に扉を閉めると、扉そのものが消え去りその向こうにも無限に続きそうな本棚の回廊が現れた。
つまり、閉じ込められた。
思わず身構える俺を見て彼女が肩を竦めて首を横に振る。
「そう心配せずとも私はそちらの世界情勢とは無関係だよ。キミに不利益を及ぼすつもりもない」
「詳しく聞いてもいいのか?」
「もちろん構わないとも。まあ奥へどうぞ」
そう言って彼女が歩き出すと、魔術かなにかだろうか。薄明りも彼女について移動し始める。ここで置いていかれると真っ暗闇になりかねない。俺は慌てて彼女の後ろを追う。
「ここは、そうだね。“異世界本屋”と言ったところかな」
「異世界、本屋?」
「そう、本屋。主に本を売っているよ。機会があれば買取りもやってる」
「むしろ俺としては異世界の部分が気になるんだけど」
「それはね、この空間自体がひとつの異世界なんだ」
彼女はさほど早いわけでもない歩調をそれでも緩めることはなく横目に視線だけを寄越して笑う。
「キミが最終決戦魔術“勇者顕造”で世界の枠を超えて今いるところへ呼び出されたように、今夜はたまたまここへ呼び出された。それだけの話だよ」
「それだけって」
「それだけ、だよ」
俺を召喚した六王家の王女たちはその為に凄まじい労力を払ったと聞いているが……。
でも彼女は熱心に俺の疑問を解消するつもりはなさそうだし、正直に言えばあまり複雑な話をされてもたぶんわからないのでそれ以上の追求は止めておく。
「さてせっかくのお客さんだ。この機会に一冊いかがかな?」
「いかが、と言われても」
目を凝らしたところで相変わらず文字は読めず具体的にはなにも認識できない。そこにあるように見えている本すら実は幻覚なんじゃないかと思うほどに。
「実はなにがあるのかよくわからないんだが。それに会計はどうしたらいいんだ?」
「なんでもあるよ」
「なんでも?」
「ああ、なんでもさ。あと会計は今いる世界の手持ちがあるならそれでいただくよ。価格はもちろんピンキリだけれども。っと、こっちへどうぞ」
気付けば回廊の真ん中に丸いティーテーブルと二脚の椅子があった。彼女がテーブルの向こうの椅子に腰掛けると、吸い寄せられるように俺も手前の椅子に腰掛ける。
「なにが欲しい?」
「なにが、かあ……魔王攻略本とか?」
本と言えば定番のとんでも魔道具だが、彼女はやんわりと苦笑を浮かべた。
「さっきも言ったけれども、なんでもあるよ。それも探せば見つかるかもしれない。ただ、そうだね。そういうモノはたぶんキミの持ち合わせでは払えないんじゃないかな」
「ええ……?」
「越権的に世界干渉するモノは相応に高く付くものさ。それ以外ではないのかい? それならそれで今日のところはお帰りいただいても、私は一向に構わないけれども」
「いや、ううん……」
そもそも元の世界に居た頃だってせいぜい週刊誌の漫画を読むくらいで間違っても読書家とは言えなかったのに、急に欲しい本をと言われてもな。
いや、ああ……漫画……か。
「例えばなんだけどさ、漫画、でもいいのか? わかるか? 漫画」
恐る恐る問う俺の言葉を聞いて、彼女は大きく頷いた。
「ああ、もちろんわかるとも。なにが欲しいんだい?」
「斬風忍伝MENMAの74巻……」
俺が元の世界に居た頃、その漫画は72巻までしか出ていなかった。一応雑誌の連載を追っていたので73巻に収録されるであろう内容は既読だ。コミックス収録のオマケ漫画やイラストも気にはなるけれども、それ以上に本編の続きが気になっている。
当然、読む機会はもう永遠に失われたと思っていた。
まさかその続きを読む機会が来るなんて。思いがけない展開に真剣な眼差しで凝視してしまう。
彼女は暫し背を反らして回廊に敷き詰められた本棚に視線を巡らせたあと、すぐそばの棚に手を伸ばして一冊の本を抜き取った。
「……斬風忍伝MENMAの74巻ね。これだろう? なかなか良いところを突いてくるじゃないか」
目の前に置かれた本は見慣れたコミックスの大きさ、表紙は本誌掲載で出て来たばかりの新キャラが彩っている。その絵柄、ポーズ、ロゴ、効果の癖や配色まで……捏造したにしてもあまりにも出来過ぎていた。
「ほ、ホンモノ、なのか……?」
「本物だとも。もしキミが99巻とかを希望していたら見つからなかったかもしれないけど、キミの記憶と認知が74巻の存在を確信していたからね。探すのは簡単だったよ」
「記憶? 認知?」
「ここは本屋の概念、とでも言えばいいのかな。存在すると確信してるお客さんの求める商品は存在を確定しやすいから入手も簡単。逆に懐疑的なモノや確信の無いモノは入手が難しいんだ」
「もしかして冒険の役に立ちそうなモノが高く付くっていうのは」
「そう、キミがその存在を確信出来ないモノやそもそも実在が不確かなモノは私の手間が増えるからそうおいそれとは譲れない。というか単純に見つからない可能性も高い」
「なるほど……」
俺は改めてティーテーブルに置かれた斬風忍伝MENMAの74巻へ視線を向ける。
「もし可能なら……73巻も欲しいんだけど」
手に入るとなれば欲が出て来るのが人情だ。なんなら75巻も76巻も……手に入るだけ続きが欲しい。
けれどもそうは問屋が卸さなかった。いや、それこそ本屋が売ってくれなかったと言うべきか。
「ははは、可能だけど今日キミに譲れるのは一冊だけだよ」
「うーん、お厳しい」
彼女は笑い、俺も笑った。
斬風忍伝MENMAの74巻を手に取る。これだけでも十分過ぎる収穫だ。
だって本来なら望むべくも無かった、好きな漫画の続きがまるまるコミック一冊読めるんだ。俺を召喚した美人の王女様たちに囲まれようと世界を救うために勇者専用技能を手に入れようと満たされなかったモノがここにある。
「ええと、代金は」
「そうだなあ、銅貨7枚くらいかな。銀貨1枚でもいいけどお釣りは無いよ」
俺は財布の中身を確認して金貨を1枚テーブルに置く。
「お釣りは、無いよ?」
固まった笑顔で繰り返す彼女にもう一度笑い返す。
「いいんだ、金には困ってないしこの本にはそれだけの価値があるから」
「言うじゃないか。それじゃ遠慮なく」
金貨を左手で摘まみ上げた彼女はそれをひらひらと振って見せる。
「とはいえ、まあこれは、そうだな。さすがに額面が大きすぎるし、預かり金ということにしておこうかな」
「預かり金?」
「この余剰でまた今度買い物をしてもいいってことさ」
「なるほど」
とはいえ、次の確約などあり得ない一期一会の店なのではないだろうか。なんとなく今までの言い振りから俺はそう感じていた。
それを今度と言えるほどの権限が彼女にあるのか、あるとしていつ呼ばれるのか。どちらも全くわからないけれども。
「じゃあそれで頼もうかな。ああ、もし出来るなら斬風忍伝MENMAの75巻以降も取り置きして欲しいんだけど、どうだろう」
冗談めかして口にした俺に、彼女は大きく頷く。
「ああ、承知したとも。ではまたのお越しを」
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気が付くと俺は宿の部屋のベッドの上で、鎧戸の隙間からは日の光が差し込み始めていた。いつ横になったのか定かでは無いけれども、鎧は脱がれ武器はいつもそうするように手の届くところに立てかけられている。
あれは夢だったのだろうか?
己の意識をすら訝しむ俺の手元には、しかし確かに斬風忍伝MENMAの74巻があった。
つまりは現実だった、そういうことだ。
あと財布の金貨もちゃんと1枚減っていた。
思えばこの世界に呼び出されてから色々有り過ぎてテンションがおかしくなっていたような気がする。俺を召喚した王女たちの美しさや与えられた力の凄さに浮かれていたものの、よく考えてみれば別に元の世界で事故に遭って死にそうになったわけでもなければ自分の人生に不満があったわけでもない。
純粋にこの世界の都合で召喚された立場だ。未練はいくらでもあるはずだけれども、俺は今までそれらと一切向き合って来なかった。
そのひとつ、読みかけの漫画が今、この手のなかにある。
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