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2.ぬいぐるみ
「お嬢様、こちらへ!」
エルカードに手を引かれ、いつも走ってはいけないと叱られる廊下を全力で走る。
この砦はもうおしまい。外は悲鳴と怒声にあふれ、空気は熱く焦げ臭い。
お父様たちが戦争に負けた。
お城は奪われ、私だけが街から山奥の砦まで逃げて来た。一緒に来たのはお付きの騎士エルカードとその部下の兵士が何人か、そして十歳の誕生日に貰ったばかりの大きなクマのぬいぐるみ。
あとはもうみんな燃えてしまった。その砦も今、おなじように燃えようとしている。
「エルカード様、敵兵が侵入してきました!」
「くそ、もはやこれまでか……」
兵士の報告に眉を寄せたエルカードが私に視線を向ける。怖くて悲しい目だ。
「私も、ここで死ぬの?」
お父様もお母様もきっとお城で死んでしまった。次は私の番なのだろうか。
言葉に詰まった彼は、しばらく目を伏せてから覚悟を決めたように「逃げましょう、出来る限り」と苦しそうに言った。
でも、ここは領の最果ての砦。ここから先にあるのは化け物が住む深い森と切り立った山だけだと子どもの私でも知っている。
「でも……」
言いかけた言葉を遮るように兵士たちの悲鳴が上がった。敵兵が追い付いて来たのだ。
「地下に森への抜け道があります。彼らが食い止めているあいだにこちらへ」
つまり彼らは置いていく。
もう死んでしまう。
そんなのはイヤ。でもここでわがままを言えばエルカードは困ってしまうだろう。
窓を割って石と矢が降り注いだ。エルカードは恐ろしくて体を丸めてしまった私をマントで隠すように抱き上げると「失礼致します」と短く囁いて走り出す。
廊下の隠し扉を抜けて階段を駆け降り鉄製の扉の鍵を乱暴にあける。
「逃がすな!」
上で時間を稼いでいた兵士たちはもう倒されてしまったのだろう。剣を持った敵兵たちが飛び降りるような勢いで襲い掛かってきた。
「おおおおっ!!」
エルカードが私を扉の向こうへ押し込みながら篭手で剣を弾き、よろめいた敵兵を大声とともに一撃で切り伏せる。
「お嬢様、扉を!」
さらに後ろの敵兵から剣が投げつけられ、彼は返す刃で払い、殺到した敵を横薙ぎに牽制しながら扉へ飛び込んで勢いよく閉じる。
でもそこで限界だったのか、エルカードがよろめいて膝を着いた。そうだ、鍵を。
無い。
目を疑った。
たった今入ってきた扉そのものが無いのだ。そして、振り返ったそこは想像とはまったく違っていた。
「これは……本、棚?」
石造りの通路でもあるのかと思っていたそこは、薄明りを感じる屋敷の廊下のようだった。広がるその両側には隙間なく本棚が並んでいる。びっしりと本の詰まったそれは目を凝らしても判然としないほどの高さがあり、その奥行きは暗がりに消えてしまいどれだけあるのかわからない。
そこに収まっているモノはどれも見たことがあるような、無いような、文字も読めるような、読めないような……そう、なにひとつはっきりとわからない本ばかりだ。
「ぐ、う……」
エルカードの呻きで我に返った私は彼からたくさんの血が流れていることにようやく気付いた。
「エルカード! エルカード!」
気を失っているようで呼んでも返事は無い。けれども、きっとこのままでは死んでしまう。
誰か、と叫ぼうとして、誰もいないと理解する。むしろここで大きな声を出しても来るのは敵の兵士だけ。なんとか、私がなんとかしないと。でも、どうやって……?
焦ってなにも考えられない。どうしたら、どうしたら……。
「おや、お客さんのようだね」
突然の声に驚いて跳ね上がってしまう。心臓が止まりそうだった。まさか、出口側から追ってきたの?
奥の暗がりから足音に震えるしか出来ない私の前に現れたのは、どうみても兵士という感じではない袖の長いだぼっとした服を着た女のひとだった。小柄で垂れ目の子どもっぽい顔に高そうな眼鏡、あまり見かけない綺麗な黒髪は大雑把にひと括りにまとめられ、なんだか図々しそうな笑顔で近付いて来る。
「だ、誰?」
「私はここ、ええと、“異世界本屋”の店主さ。ふたり連れのお客さんとは珍しいね」
そう言って彼女は私越しにエルカードを覗き込んで「ああ、なるほど」と短く呟いた。けれどもそれだけで、彼の怪我にも血にも興味が無さそうに私を見る。
「ここは世界を問わない書物の殿堂。この機会に一冊いかがかな?」
「異世界、本屋? ここは砦の抜け道じゃ……それより! 敵じゃないなら、エルカードを助けて!」
彼の傷がどれほど深いのか私にはわからない。でももし彼女にわかるなら、まだ彼は助かるかもしれない。けれども、彼女が先ほどの態度から変わることはなかった。
「ああ、悪いけどそういうのはやってないんだよね」
「ひとが死にそうなのよ!?」
「そうだね」
「そうだね……って」
「ここでは本を売るか買うか、基本的には一冊取引すること、それだけさ。それにそもそも、なんだ。本当はこういう話もしないんだけど……」
彼女は彼を指差し無機質な微笑みを浮かべて続ける。
「手当を施したところで彼はもう助からないよ」
「そんな……」
手元からぬいぐるみがすべり落ちて足元でべちゃりと音を立てた。私は彼女に詰め寄ってひざを折る。
「お、お願い、なにか、なにかエルカードを助けられるような本はないの!?」
そんな都合のいい本があるはずがない。
考えればわかりそうなものだけれども、切羽詰まった私にはそんな言葉しか出てこない。
彼女は椅子に腰掛けてひとつ溜息を吐く。
気付けばそこには二脚の椅子とティーテーブルがあった。
「まあ、そこに掛けて」
さっきまでは絶対無かったはずのそれに困惑しながら、私は彼女の対面に腰を下ろす。
「ここにはなんでもあるよ。でも娯楽や教養を越えて直接世界に干渉するようなモノは高く付くし、望んだ通りの結果が得られるとも限らない。そしてキミは望みのモノの存在を認知も確信も出来ていない。願望だけで探すことになるから見つかるかどうかもわからないけど……」
「それでも! あ、あるかもしれないなら、探して、ください……」
「ふむ。仮に見つかったとして、結構値が張ると思う。払えるかい?」
「お金は……物でも、いい?」
「ああ、物々交換でも構わないさ」
お金なんて持っていないけれど、立ち上がってエルカードのところへ戻る。
血溜りに落としたクマのぬいぐるみ。その目に縫い込まれているのはなんとかと言う高い宝石だったはずだ。
彼はまだ生きていたけれど、その呼吸は今にも止まってしまいそうなほどにか細くなっていた。私は涙を堪えてぬいぐるみから宝石をひとつ千切り取ると席に戻ってティーテーブルへ叩きつけるように置いた。
「これで、彼を助けられる本をちょうだい!」
「仕方ないな……出来る限り善処しよう」
彼女は背もたれに身体を預けるように背を反らして周りに敷き詰められた本棚をぐるりと眺めたあと、すぐそばの棚に手を伸ばして一冊の本を抜き取った。
「これ、かな……うわ、これかあ……」
「なに?」
難しい顔で唸る彼女を見詰める。
「十歳のキミに渡すにはあまりにも過ぎたモノだ。この本があれば死は免れるかもしれないけれども、結果としてキミも彼も不幸にするかもしれない。まあこれだと言われれば確かに最適解っぽくはあるんだけど……助けたかと言われるとなあ」
「早くしてちょうだい!」
彼女は焦る私の声に眉をひそめて本をティーテーブルへと置いた。
「わかったから目の前で叫ぶのは止してくれないかな。いいよ、この宝石と引き換えにこの本をキミに譲ろう。……キミの望みは最低限叶うだろう、あまり良い形ではないと思うけれども」
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隠し扉から地下に降りた先にある扉のなかへ砦の残党が逃げ込んだ。頑丈そうな鉄の扉だが鍵を掛けたり閂を嵌めた音はしなかったから簡単に開くはず。
そう考えて手を伸ばした敵兵から逃げるように扉が開く。
「お? ぼぁっ!」
先頭の敵兵が奇声を上げ、丸いものが跳ねて隠し扉の向こう、一階で見守っていた敵指揮官のいる廊下まで転がり出た。
兜だった。残念なことにしっかりと中身が入っている。続いて地下で複数の絶叫。
「く、首!?」
「なんだ、なにがあった! 伏兵か!?」
敵指揮官の眼前になにかが飛び出して来た。
剣を持っている。
そう気付いたときには彼の首もまた、最初の敵兵と同じように跳ねて転がっていた。
「は、反撃してきた!」
「数は!?」
「わからん! ぐわっ!?」
「ぎゃ! は、はやっぐふっ!」
それは恐るべき速さと精度で敵兵たちの足元をすり抜け、背後を、頭上を、死角を取ってはその命を刈り取っていく。
「だめだ! 距離を取れ! 下がれ! 下がれ!」
生き延びた次官らがなんとか距離を取り、あるいは窓から砦の中庭へと逃げて、初めてその正体が明らかになる。
それは、クマのぬいぐるみだった。
大量の血に赤黒く染まった、大人の膝よりは少し大きいくらいの、右目の無いクマのぬいぐるみ。
同じようにぐっしょりと鮮血に染まったマントを羽織り、右手には人間が使う大きさの剣がやはり鮮血に染まっている。
つまりこれが敵兵たちを殺したのだ。
「な、そんな、馬鹿な……」
誰もが己の目を疑うなか、ぬいぐるみは砦を守っていた兵士の死体へ近付いて傷口に左手を当てた。するとその死体は見る間に萎れ枯れていく。
血を吸い上げている。
そう気付いたときには既に兵士の死体はすっかりと干からびていた。
クマのぬいぐるみが力んで震える。
『ヌウウウウウウ……オ・オ・オォ・ッ!』
籠るような雄叫びとともに背中から飛び出して来たそれは、やはりクマのぬいぐるみだった。新しいクマのぬいぐるみは迷いない動きで干からびた死体のそばに落ちていた剣と盾を拾って構える。
それを見届けたマントを羽織ったクマのぬいぐるみが剣を廊下に突き立て、両手を床に付けて唱える。
『キタレ! キタレ! キタレ! オンシュウニマミレシチシオドモッ!』
するとどうだろう、遠くも近くも関係なく、恐らくは砦を守って散った全ての兵士だろう、その血がマントのぬいぐるみへと集まっていく。
血はぬいぐるみへ吸い上げられ、そこから新たなぬいぐるみが生まれる。生まれたぬいぐるみはそこらに転がっている武器を拾って、無ければ素手のままで整然と並んでいく。
悪い冗談、いや、これが悪夢か。
もはや誰もが怖れと混乱で動けずにいるなか、隠し扉の向こうにある階段を登ってくる者があった。小さな、頼りない足音。それはマントのぬいぐるみのすぐ後ろで足を止めた。
この砦を攻めた敵兵たちの捜索していた領主のひとり娘だ。手にはなにか禍々しい本を抱えている。
『コノエキシ、えるかあどノナニオイテメイジルッ!』
えるかあど? エルカード……その名が砦を指揮する最後にただひとり残った騎士の名だと兵士たちが理解するより、号令は少しばかり早かった。
『シシテナオチュウギヲマモリシツワモノドモヨ! ワレラガテキヲ、オウサツセヨッ!』
整然と並んでいたクマのぬいぐるみたちが思い思いに烈風の如く駆け出し、侵略者を切り裂き始める。
狭い空間で高速移動する小さな標的という難敵。
それだけではない。彼らは突けど斬れど死ぬはずもなく、故に動きを止めることもないのだ。
「そうだ、火! 火だ! 火を持ってこい!」
少し知恵の回る者が声を上げ、どこかから松明が持ち込まれる。
しかし彼らが燃えるはずもない。その内側にはたっぷりと無念の死を遂げた兵士たちの血を孕んでいるのだから。
「だ、だめだ! 逃げろ!」
「こんな化け物がいるなんて聞いてない! 助けてくれ!」
その殺戮劇を、領主のひとり娘が無言で見詰めている姿を幾人かが目にしていた。
しかし、その胸に抱えられた本の表紙に目玉がギョロリと動いたのを見た者は、少なくとも生き延びた敵兵のなかにはいなかった。
それから数十年。
城を奪った侵略者は砦に湧いた化け物がいつか城まで攻め込んで来るのではと怖れ慄き心労に倒れ、代わりの領主が立つこともないまま領民もまた支配者の居ない土地を捨てて去っていった。
今では一帯が荒野と化した領地の最も奥深く、その砦に近付く者はほとんどいない。
ただ、その砦を敢えて覗いてきた、とある命知らずで物好きな旅人がいたという。
その話によれば今でも砦はクマのぬいぐるみの騎士たちに守られており、その謁見の間にはひとりの少女が一冊の本を抱えて座っているのだという。
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