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4.ゆめのくに
「あら、これって……」
亭主が娘を連れて遊びに行っている間に倉庫の片付けをしていると、奥から古びた見覚えのある包みが出てきた。拙いながらも厳重に梱包されたそれは確かあの日に買ったものだ。
「昔は毎日楽しみにしていたはずなのに、いつのまにかすっかり忘れてたわね……」
娘も7歳を迎え私も大人になった。さすがにそろそろ読んでもいいだろう。それを自室に持ち帰るため脇に避け、私は片付けの続きをしながら当時を思い出していた。
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まだ小さな子どもの頃、知らないおじさんが無料で配っていた“夢の国の妖精たち”という童話の絵本を読んだことがあった。
何故か母さんは読みかけのそれを私から取り上げ捨ててまったので最後までは読んでいない。
夜更かしして出歩く子どもの前に現れては家に帰るよう促し、素直に帰ったいい子はご褒美に幸せな楽しい夢を見せて貰えるという妖精の話のようだった。
その話を忘れられずにいた私は、いつの頃からか密かに家を抜け出しては絵本にあった子どものように深夜の散歩を楽しむようになった。
ひとの親となった今となっては、なるほど子どもに読ませたい本で無いには違いないと私にもわかる。
ともあれ。
そんなある晩のことだ。
なんの変哲もないただの扉だった。
おそらくは木製の、本当にただの扉そのものだ。街の路地裏にただぽつんと立っているという点を除きさえすれば。
横から覗き込んでも特になにがあるわけでもない、扉というかもう裏側には取っ手すらついていない、何故こんなところに立てられているのかわからないが、冷静に考えればそれはただの木の板だ。
とは思ったものの、私は不思議なもの見たさにうろついていた子どもなものだから、なんとなくその取っ手を握って扉を押してみたのだ。
するとどうだろう、まるで蝶番があるかのように扉が開いてしまった。そして目の前に現れた光景に唖然とした。
「これは……え? 本、棚?」
扉の先には月明りとは違う薄明りを感じる廊下のような空間が広がっていた。その両側にはずらっと本棚が並んでいる。びっしりと本の詰まったそれは目を凝らしても見えないほどの高さがあり、奥行きも暗がりに消えてしまいどれだけあるのかわからない。
そこに収まっているモノはどれも見たことがあるような、無いような、文字も読めるような、読めないような……そう、なにひとつはっきりとわからないのだ。
「もしかして、これ夢の国の入り口なんじゃ……」
しかし私は我ながら夢見がちというか怖いものを知らない子どもだった。そのとんでもない希望的な発想でなかに入ってしまった。
開けたら閉めなさい。
そう言われ続けたいつもの癖で扉を閉めると、それはそのまま消えて壁一面に本棚の並ぶ廊下へぽつんと取り残される。それでも閉じ込められたといった発想には至らない。
「不思議! きっとここが夢の国なのね」
完全に楽しくなった私がずんずん奥へ進み始めると、向かいからもこつこつと軽い足音が響いて来た。
「おや、お客さんだね。こんばんわお嬢さん」
現れたのは袖の長い厚ぼったい、そして見たこともない服を着た女性だった。小柄で垂れ目の童顔に高級そうな眼鏡、珍しい黒髪は大雑把にひと括りにまとめられ、ちょっと年上のお姉さん、と言う見た目だけれども妙にふてぶてしい笑顔だ。
「こんばんわ妖精さん!」
「いや、妖精では……ない、かな」
戸惑う彼女の様子に首をかしげるが、そうしたいのはむしろ彼女のほうだろう。
「夢の国なんじゃないの?」
「ここは世界を問わない書物の殿堂だよ。ええと、本屋なんだ。夢の国、では……ないかな」
「そうなんだ……」
露骨にがっかりした私を持て余している様子ながらもめげずに続ける。
「ま、まあ、奥へどうぞ」
案内されるまま奥へついていくと、廊下の真ん中に丸いティーテーブルと二脚の椅子があった。彼女がテーブルの向こうの椅子に腰掛けたので私は向かいの椅子に腰掛けた。
「というわけで“異世界本屋”へようこそ。この機会に一冊いかがかな?」
「異世界って?」
耳慣れない言葉にまた首を傾げる。
「キミの住む世界とは別の世界……うーん、まあ、そういう意味では夢の国と呼んでも間違いではないかな」
やっぱり夢の国だった。私はその言葉に嬉しくなって目を見開いて笑みを浮かべた。
でもここで帰るように言われないとご褒美は貰えない。にこにこしながら言葉の続きを待っていると、彼女は戸惑ったようにもう一度「この機会に、その、一冊いかがかな?」と繰り返した。
「一冊って? あ、ここは本屋さんだものね」
「そうなんだよ。なにか欲しい本は無いかい? なんでもあるよ。値段はピンキリだけれども」
「欲しい本って言われてもなあ」
読み書きは出来るけれどもほとんどの平民には読書をするような習慣が無いし、あまり読みたいと思ったこともなかった。その頃の私は知る由もなかったが、そもそも本自体が高価で、子どものいる家に絵本の一冊でもあれば裕福なほうなのだ。
暫く悩んだ私は、少し前に母さんに取り上げられてしまった、そして夜な夜な家を抜け出しては徘徊している理由となったあの絵本を思い出す。
「そうだわ、“夢の国の妖精たち”ってあるかしら」
「ふむ?」
「知らないおじさんが街で無料で配っていたのを貰ったのだけれど、読んでいる途中で母さんに取り上げられてしまったのよ。だから続きが気になって」
「なるほど、それならすぐに見つかりそうだよ」
「ほんとう!?」
彼女は暫し背を反らして回廊に敷き詰められた本棚に視線を巡らせたあと、すぐそばの棚に手を伸ばして一冊の本を抜き取った。
「“夢の国の妖精たち”ね。これだろう?」
そう言って見せられた本は確かに形も表紙も私が見たモノと寸分変わりない。
「すごーい、本当にあるのね!」
「もちろんだとも。なんでもあると言ったろう?」
そう言いながら内容に興味があるのかパラパラと中身に目を通した彼女がなんとも言えない表情で片眉を上げた。
「あー、これは……なるほどねえ。子どもの読んでる絵本を取り上げるなんて酷い親もいたものだと思っていたのだけれども、これでは仕方がないか」
「どうしたの?」
「ああ、内容がちょっとね。さて、どうしたものかな……」
なにか迷っている様子の彼女は首をかしげる私をじっと見る。
「まあ売らないというのもなにか違うしなあ」
「え、売ってくれないの!?」
「いや、うーん……この本をキミと取引してもいいけれども、条件がある」
「条件?」
「これは今日この場で渡しても構わない。だけども、なるべく人目に付かないところにしまっておいて、キミが大人になってからゆっくり読んで欲しいんだ」
「えええ……?」
続きが読みたいから欲しいのに、売ってもいいけど大人になるまで読むなとはなんとも奇妙な注文だった。それも子ども向けの絵本なのに?
不満げに頬を膨らます私に構わず彼女は続ける。
「大人になるまでどこかに隠しておくこと。大人になってから続きを読むこと。キミがこのふたつの約束を守れるいい子であれば、この本はキミに譲ろうじゃないか」
いい子であれば。
この言葉はそのときの私にてきめんに刺さった。なにせ素直に帰ったいい子は楽しい夢を見られるという童話にすっかり感化されているのだから。
「わ、わかったわ。約束する」
真剣な表情で頷くと、彼女もまた笑顔で頷いた。
「いいだろう。あとは……一応ここは本屋なのでね、無料というわけにはいかない。今お小遣いの手持ちはあるかな? もしなければなにか物々交換でも構わないけれど」
「お小遣いは……持ってないわ」
物々交換でも良いのであればなにか無いだろうか。ポケットを探ったけれども、出て来たのは散歩のときに食べようと思って残しておいた、紙に包まれたおやつのクッキー1枚だった。
「クッキーしか、ないんだけど」
おずおずと差し出したそれを見た彼女が小さな溜息を吐く。もしかして今さら売って貰えなかったりするのだろうかと不安になったけれども「まあ元が無料配布だしねえ」と呟いてそれを手に取った。
「いいよ、このクッキー1枚で手を打とうじゃないか」
「やった! ありがとう!」
差し出された本を両手で受け取って、そーっと中を覗こうとして彼女の視線に気付いて愛想笑いで止める。
「本当に、大人になるまでダメだからね。もし破ったら」
「もし、破ったら?」
彼女がにたりと悪い笑みを浮かべる。
「悪い子には天罰がくだるかもしれないね。だからくれぐれも約束は守るように」
天罰なんて、言ったのがお母さんだったらきっと私は信じなかっただろう。けれども今夜この不思議な場所で出会った不思議な彼女の言葉では信じざるをえなかった。
「わかったわ。絶対守る」
その返事を聞いて安心したのだろうか、彼女は優しい笑みで私の後ろを指差す。
「いい子だ。それじゃあ今日はもう帰るといい。あまり遅くなると明日寝坊してしまうよ?」
「うん、ありがとうお姉さん!」
いつの間にかそこにあった扉を潜り、あとはどう帰ったのか覚えていないけれども、気が付けば朝陽が昇り、私はベッドのなかで絵本を抱いていた。
それからすぐに絵本を倉庫に隠し、以来その晩にあったことは誰にも言わずに過ごした。
しばらくの間こそ絵本がずっと気になっていたけれども、日々過ごすうちにだんだん忘れている時間のほうが長くなり、それなりの歳になってそこそこの相手と結婚した頃にはもう、そんな本などすっかり忘れていた。
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「そういえばそんなことあったわねえ」
あの体験はなんだったのだろう。大人になったから今だからこそ、なおさら不思議に感じる出来事だった。
片付けを終えた私は念のため家族の目に付く前に自室へ戻ってその絵本を開く。そこにはあの頃とおなじお話が綴られていた。
夢の国の妖精たちは夜更かしして出歩く子どもの前に現れては家に帰るよう促し、素直に帰ったいい子はご褒美に幸せな楽しい夢を見せて貰える。
けれどもその妖精たちはその昔ひとの夢に入り込んではいたずらを繰り返していた。
それに怒った夢の国の王様が妖精たちに罰としていたずらをした人数だけ子どもを寝かしつけ幸せな夢を見せなさいと命じていたのだ。
なるほど子ども向けの寓話というか、それらしい内容だ。私はページを捲っていく。
しかしだんだんと話の様子が変わってくる。
本来子どもたちに幸せな夢を見せるのは王様の役目だった。逆に妖精たちは昔からひとの夢に入り込んでちょっとしたいたずらをするだけで、酷い悪夢を見せて苦しめるわけでもない実に無害な存在だったのだ。
けれども夢の国の王様はそれをまるで悪事のように言い募って妖精たちを糾弾し、いたずらした人数だけと言いながらその人数など知りもしない。
妖精たちは不当に時間を奪われて王様の代わりに夜更かしする子どもを寝かしつけるという仕事を押し付けられたのだ。永遠に。
そのあとも暫く読み進めたけれども、結局最後まで読まずに深い溜息を吐きながら絵本を閉じた。
何故あのおじさんはこの本を無料で配っていたのか。
何故母さんはこの本を私から取り上げて捨ててしまったのか。
そして、何故それからあのおじさんを街で見かけなくなったのか。
これは童話の絵本という作りでこそあるけれども、その内容は権力を批判する風刺絵本だったのだ。
だからあのおじさんは決して安くはないはずの絵本を子どもたちに無料で配っていた。恐らくそのあと衛兵か騎士にでも捕まったのだろう。
母さんはそれを知っていたので私から絵本を取り上げた。
絵本に感化されてうっかり高貴な人物相手に権力批判を口にすれば子どもでもお咎めなしとはいかないだろう。もしかするとこの絵本を持っているだけで罰せられた、いや、今でも罰せられる可能性がある。
『大人になるまでどこかに隠しておくこと。大人になってから続きを読むこと』
あのときの約束を反芻する。彼女はこの絵本がなんなのか理解した上で子どもの私に害が及ばないように、そしてその内容と意味を判断できるくらいの歳になってから続きを読めるように配慮してくれたというわけだ。
とはいえ、せっかく買ったものだけれどもこれを大事に取っておくわけにはいかないだろう。うっかり娘の目についてなにかあっても困る。
私は台所へ行くと家族が帰ってくる前に絵本を竈の火にくべて燃やしてしまった。
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